海神社

 神戸市垂水区を代表する神社と言えば、海神社である。

 海神社は、JR垂水駅のすぐ近く、神戸市垂水区宮本町にある。

 古くは海(わたつみ)神社と呼ばれたが、最近は海(かい)神社と呼ばれることが多い。名前の通り海の近くに建つ、海の神様を祀った神社である。

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海神社浜大鳥居

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 国道2号線の南側に、高さ12メートルの朱色の浜大鳥居が海に向かって建つ。昭和32年に建てられたものである。この浜大鳥居の近くに垂水漁港がある。漁船からすれば、海上に出た時にこの朱色の鳥居は目印になるだろう。

 国道2号線の北側に社殿が建つ。神功皇后が朝鮮征伐の帰路に、垂水沖合で暴風に遭い船が進まなくなったため、皇后自ら船上で海神の綿津見(わたつみ)三神を祭ったところ、たちまち風雨が止んだことから、この地に社殿を建てたのが、海神社の始まりとされている。 

 垂水から大阪までの大阪湾沿岸には、神功皇后の航海に関連した創建説話のある神社が数多い。

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海神社

 海神社は、平安時代の「延喜式」では名神大社に列せられるなど、古くから朝廷から重きを置かれ、高い社格を誇った。

 大日本帝国時代の社格制度では、明治30年官幣中社に列せられた。

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子獅子が抱き着く狛犬

 鳥居を潜ったところにある狛犬は、砂岩製のためか風化が進んでいるが、子獅子が母獅子に抱き着く珍しい狛犬であった。

 今の海神社の社殿自体は、そう古い建物ではなさそうだ。向拝の波の彫刻が見事だ。

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拝殿

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浪の彫刻

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拝殿の扁額

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拝殿

 海神社の例祭は、毎年10月11、12日に執り行われる。11日にはフトン太鼓の引き回し、12日には御神輿を御座船に乗せ、西は舞子沖から東は神戸港沖まで渡御する。海神様も、広い海の上でお寛ぎになることだろう。

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拝殿から幣殿、本殿

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本殿

 本殿は流造だが、幣殿と接続しており、軍艦のような姿をしている。

 垂水はイカナゴ発祥の地で、漁業が盛んで、航海に縁のある土地である。

 ところで、この海神社の本宮とされている神社が、何故か内陸にかなり入った神戸市垂水区下畑にある。下畑海神社という。

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下畑海神社鳥居

 なぜこんな内陸に海神社の本宮があるのか、由来は分らない。

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下畑海神社社頭

 社頭には、神様に奉納するための相撲の土俵がある。

 拝殿の向拝には、社紋が掲げられている。波間から上る朝日と思われる社紋だ。

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拝殿

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社紋

 社紋からすると、やはり航海と関係のある神社のようだ。ひょっとしたら、垂水の漁船の材料となる木材をこの地から伐り出していたので、ここにも海神を祀ったのではないか、などと色々想像が膨らんでくる。

 下畑海神社の本殿は、コンクリート製の覆屋で覆われている。

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本殿の覆屋

 中の本殿を拝観したいものである。

 日本人は昔から、自然の威力をおそれ敬い、神として崇めてきた。日本人は、人間が自然に翻弄される存在だということを強く認識してきた。

 神社がそこに建っているということには、何がしかのいわれがある。神社がそこにあることを畏れ敬う気持ちは、現代においても必要だと思う。

五色塚古墳

 舞子公園から東に進み、神戸市垂水区五色山にある五色塚古墳を訪れる。ここは国指定史跡となっている。

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五色塚古墳

 五色塚古墳は、全長約194メートルの前方後円墳で、兵庫県下最大の古墳である。全国の前方後円墳の中では、40位前後の大きさだ。

 この古墳は、4~5世紀に築造された。被葬者が誰かは不明である。宮内庁が管理する御陵ではないので、墳丘上に登ることが出来る。

 五色塚古墳は、昭和30年代までは、墳丘上にまで畑が作られ、地元の人たちに利用されていたが、昭和40年から開始された史跡環境整備事業の一環として、文化庁と神戸市により築造当時の姿に復元された。

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1960年以前の五色塚古墳

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昭和41年ころの五色塚古墳

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復元後の五色塚古墳

 五色塚古墳は、三段に築造され、下段は地元で取れた小さな葺石で、中段、上段は淡路から運んだ大きな葺石で覆われていた。淡路の五色浜から運んだ石で葺かれていたから、五色塚古墳と呼ぶという説がある。

 復元工事前の、墳丘上に畑が作られていた時代でも、三段の墳丘の形を認識することが出来る。

 これだけ大きな古墳である。使われた葺石の数も膨大で、石の総数は約223万個、総重量約2784トンと言われている。

 また、築造時は墳頂と中、上段のテラスに鰭付円筒形埴輪と鰭付朝顔形埴輪が並べられていた。

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墳頂部

 全部で約2200本もの埴輪がめぐらされていたことから、別名千壺古墳という。

 それにしても大きな古墳だ。仁徳天皇陵や、応神天皇陵は、これより遥かに巨大だが、周囲に濠が巡らされ、近寄ることが出来ない。

 濠がない古墳でも、樹木が生えてしまって大きさを掴みにくいものがほとんどだ。完成当時の姿で、その大きさを実感できる古墳は、全国的にも珍しいだろう。

 巨大古墳の例に漏れず、地上からでは全体像をカメラレンズに収めることが出来ない。

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後円部から前方部を望む

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古墳に登る階段

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後円部と前方部のくびれ部分

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前方部

 復元された葺石は、コンクリートで固定されており、風化はしばらくなさそうだ。それにしても、こんな巨大な建造物をよくも4~5世紀に造ったものだ。

 古墳の上に上ると、海風が吹いて、被っている麦わら帽子が飛んでいきそうになる。

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前方部から後円部を望む

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後円部から前方部を望む

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墳頂部

 墳頂部からは、淡路島と明石海峡大橋を眺めることができる。家が一軒建ちそうなほどの広い空間だ。

 墳頂部には、円筒形埴輪が並んでいる。

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鰭付円筒形埴輪と鰭付朝顔形埴輪

 上部に大きなお椀のようなものが付いているのが、朝顔形埴輪である。古墳の側にある小屋の中に、実際に五色塚古墳から発掘された埴輪を展示している。

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鰭付朝顔形埴輪

 このような埴輪を何のために並べたのか、よくわからない。

 「日本書紀」によると、神功皇后は、朝鮮征伐に赴く途中に後の応神天皇を出産し、朝鮮征伐終了後、瀬戸内海沿いに凱旋した。

 応神天皇の異母兄弟の坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、皇位応神天皇に行くのをおそれ、凱旋する神功皇后を迎え撃とうとした。

 神功皇后に対抗しようとした王子2名は、病没した仲哀天皇のために赤石郡に陵墓を造ると称して、兵を集め、武器を取らせ、神功皇后の軍を迎え撃とうとする。

 「日本書紀」の神功摂政元年2月条にこうある。

 乃ち詳り(いつわり)て天皇の為に陵を作るまねして、播磨に詣りて(いたりて)山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)て、其の嶋の石を運びて造る。則ち人毎に兵(つわもの)を取らしめて、皇后を待つ。

  神戸市垂水区も古代は赤石郡の一部であった。赤石郡内で、この「日本書紀」の記事に当てはまる古墳は五色塚古墳しかない。なので昔から五色塚古墳が反逆の二皇子が築いた古墳とされてきた。

 実際に、五色塚古墳を覆っていた葺石は、地質学的に淡路産であることが判明している。

 それにしても、神功皇后に気取られずに兵を集める口実のため、こんな立派な古墳を造ったとしたら、非常に効率の悪い話である。

 もし、五色塚古墳が、「日本書紀」の伝承通りの古墳なら、中には誰も埋葬されていないことになる。

 五色塚古墳の東側には、一辺20メートル、高さ1.5メートルの方形の盛り土がある。

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方形の盛り土

 この盛り土も元は石が葺かれていたそうだ。埴輪や土師器、須恵器の破片が見つかっており、何らかの祭儀を行う場所だったのだろう。

 また、五色塚古墳の西側には、五色塚古墳と同時期に築かれた小壺古墳がある。

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小壺古墳

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 こちらは、直径約67メートル、高さ約9メートルの、綺麗な円錐形の円墳である。普通に考えれば、五色塚古墳の陪塚だろう。

 五色塚古墳の南側には、JRと山陽電鉄の線路が通り、その南側を国道2号線が通っている。

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五色塚古墳の南側

 昔は、写真に見える線路の辺りまでが海だった。五色塚古墳は、海岸線の突端に造られた古墳だった。

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五色塚古墳の位置

 今では海沿いに立つマンションに遮られて五色塚古墳を海から眺めることは出来ないが、昔は畿内と九州を行き来する船が明石海峡を通る時、嫌でもこの巨大古墳の威容が目に入ったことだろう。朝鮮半島などからの賓客が来日した時も、必ず目にしたことだろう。

 となると、この古墳は、大和朝廷も公認する国家的モニュメントとして造られたのではないかと思われる。埋葬者がいたとすれば、相当な人物だったに違いない。

 普通に考えれば、この五色塚古墳が築かれた由来が、「日本書記」編纂時には分らなくなっていて、「日本書紀」編纂時に先ほどの様な説話が作られたのではないかと思われる。

 しかし真相は分からない。武器を持った兵員が、この古墳上で神功皇后の艦隊を待ち構えていたと想像するのも面白いものだ。

移情閣 後編

 移情閣は、明石海峡大橋建設工事に伴い、平成6年に一度解体され、元々建っていた場所から南西約200メートルの現在地に移転復元された。移転工事が終了したのは平成12年4月のことである。

 移情閣の名の由来は、八角三層の塔から展望する六甲山系、大阪湾、淡路島の眺めが刻々変化するからとも、還暦を迎えた呉錦堂が故郷の浙江省を偲んだからとも言われている。

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附属棟の天井と照明

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附属棟の廊下

 孫文記念館の展示物は、主に附属棟にて展示されている。附属棟内部も中々の趣だ。

 ところで、孫文はその生涯に何度も来日し、日本の有志達から様々な援助を受けて、革命を成功させることが出来た。

 孫文と交流のあった日本人の資料も展示されている。

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孫文と交流のあった日本人

 大陸浪人宮崎滔天、右翼の頭領の頭山満、政治家の犬養毅、財界人の渋沢栄一だけでなく、学者の南方熊楠までもが孫文と交流があったとは意外である。

 日本は、大正4年に、袁世凱が大総統を務める中華民国に対して、日本の山東半島南満州、東蒙での権益を認めさせ、在留日本人の法益保護を求める対華21ケ条の要求をつきつけた。

 これに対し、中国国内の反日感情は沸騰したが、日本から多くの援助を受けて来た孫文は、正面から日本を非難せず、自己が帝位に即くことを条件に要求を受け入れた袁世凱を非難した。

 それでも晩年の孫文は、日中関係の行く末を懸念したのだろう。大正13年1924年)に来日した時、神戸高等女学校において、「大亜細亜問題」という題名で講演を行い、日本人に対し、欧米列強のような侵略的な覇道に立たず、アジア諸国と協力しあう王道に立つべきだというメッセージを出した。

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孫文の日本最後の講演時の写真

 孫文は翌年亡くなるが、最後までこの講演の日本での反響を気にしていたそうだ。

 さて、八角三層の移情閣の内部に入る。

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移情閣1階

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移情閣1階天井

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天井中央の龍の彫刻

 八角形の建物は、8本のマホガニー色の柱で支えられ、壁は下部は腰板張、上部は金唐紙の壁紙張となっている。

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金唐紙の壁紙

 優美な壁紙も当時の彩色に復元されている。

 1階には、暖炉も復元されており、鮮やかなマジョリカタイルが敷き詰められている。

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暖炉

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マジョリカタイル

 移情閣の部屋の外側には、螺旋状の階段が巡っている。

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螺旋状の階段

 階段を登り2階に上る。2階も同じく八角形の空間である。

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移情閣2階

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移情閣2階天井

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2階天井の鳳凰の彫刻

 移情閣2階の天井中央には、鳳凰の彫刻が施されている。

 西洋風の造りにも、不思議と漢字の書や中華風の意匠がよく合う。

 又2階には、呉錦堂が故郷から持って来て愛用していた机と椅子が展示してあった。

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呉錦堂愛用の机と椅子

 こうして見ると、畳に直接座る日本の家屋と異なり、椅子を使う中国の住宅文化が意外とヨーロッパに近いことが分る。中国の古い建造物は、石造のものが多い。建造物から見たら、中国とヨーロッパは似ている。

 木造住宅の床に直接座る日本の住宅文化は、南洋風である。

 移情閣2階からは、明石海峡大橋が手に取る様な近さに感じられる。

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移情閣2階から眺めた明石海峡大橋

 海からの風が心地よい。移情閣の3階には、一般客は入れなかった。

 附属棟の2階には、孫文が気に入っていた言葉である「天下為公」の書の複製が展示されている。

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孫文の「天下為公」の書

 天下為公は、「礼記」の中にある言葉で、天下の政治は公の為にあるという意味である。天下を私物化してはならないという孫文の考えと一致する格言だ。

 孫文は、大正13年に神戸高等女学校で講演した際、書を請われて、この書を書いた。「天下為公」の書の実物は、今は女学校の後を継いだ兵庫県立神戸高等学校が校宝としているそうだ。

 移情閣の外側にも、「天下為公」の石碑がある。

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天下為公の石碑

 孫文が目指したものは、皇帝が天下を私物化し続けてきた中国の政治制度を変えることだった。孫文が生きている間に、清朝は倒せたが、その後も相変わらず天下を私物化する輩が中国大陸を跋扈した。孫文が「革命未だ成らず」と嘆いたのは、その為だ。

 天下を公のものにするために奮闘した孫文と、それを援助した日本の有志との友情を記念するものとして、移情閣は今も舞子の海に臨んでいる。

 

移情閣 前編

 舞子公園の中に、国指定重要文化財となっている洋館・移情閣がある。

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移情閣

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 移情閣は、中国浙江省出身で、神戸で活躍した中国人実業家呉錦堂(1855~1926年)が建てた別荘「松海別荘」が前身である。

 明治18年に来日した呉錦堂は、行商をしながら蓄財し、関西財界で重きをなすようになった。

 また、神戸に華僑のための学校、中華同文を設立した。

 松海別荘は、明治20年代後半に建てられたが、大正4年春に、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が増築された。

 今ではこの洋館全体が移情閣と呼ばれている。

 移情閣は、木造軸組に、外装材として無筋中空のコンクリートブロックを緊結して積み上げたものである。コンクリートブロックを使って建てられた日本の建物としては最初期のもので、貴重な建造物である。

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西から見た移情閣

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 移情閣は、現在孫文記念館として公開されている。

 孫文は、大正2年3月14日に神戸にやって来た。その際、松海別荘が孫文歓迎の昼食会の会場となった。そのゆかりから、兵庫県に管理権が移っていた移情閣は、昭和59年に孫中山記念館として一般公開されるようになった。平成17年には孫文記念館に改称した。

 そのため、建物内には、孫文の事績を紹介したパネルや遺物を展示している。

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移情閣附属棟。手前に孫文銅像がある。

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附属棟の窓

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孫中山記念館のプレート

 孫文(号中山)は、辛亥革命の理論的基礎となった三民主義(民権、民族、民生)を唱えた、中国の革命家・政治家である。

 秦の始皇帝の時代から、2000年以上皇帝が統治してきた中国の政治体制を根本から変革させた立役者だ。

 1866年に広東省香山県翠亨村で生まれた孫文は、既に華僑として成功した兄を頼ってハワイに行き、高等学校を卒業し、その後香港で医学を学んだ。

 海外で学んで祖国が立ち遅れていることを知った孫文は、1894年にハワイで清朝打倒のための秘密結社興中会を起こした。

 翌年に広州での武装蜂起に失敗した孫文は、海外に亡命し、以後日本を足場として活動した。

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ハワイで学んでいた頃の孫文

 1905年に孫文は日本で清国留学生を集めて「中国同盟会」を結成する。同盟会は何度も中国南部で武装蜂起を行い、1911年10月の武昌蜂起の成功により、ついに清朝を打倒する。辛亥革命である。

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武昌蜂起後革命派が組織した湖北軍政府建物

 武装蜂起成功時、国外にいた孫文は、中国に帰国した。1912年1月1日、アジア最初の共和国、中華民国が成立し、南京に臨時政府が置かれ、孫文は臨時大統領に就任した。
 孫文は、北京に残る清朝の勢力との本格的内戦を避けるため、清朝内閣総理大臣で実力者だった袁世凱に、大統領職を譲った。その条件は、清朝皇帝が退位し、北京側が共和制を受け入れるというものであった。

 孫文は1913年、中国全土に鉄道建設する準備のため来日した。松海別荘を訪れたのも、その際である。

 だが孫文が来日中、袁世凱が、総選挙で開設される国会で首相に選出される予定だった宋教仁を暗殺し、議会を解散し、軍事独裁政権を樹立する。
 孫文は中国に戻り、袁世凱を打倒するための第二革命を起こすが失敗し、再度日本に亡命した。

 1914年、孫文は日本で中華革命党を結成した。

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日本での中華革命党結成時の写真

 1916年に袁世凱が死去した後は、中国全土で軍閥が割拠し、統一的な共和国政府は出来なかった。

 孫文は1919年に、中華革命党を中国国民党に改組し、1921年には広東省に広東軍政府を樹立する。

 その後、孫文は、国民革命の達成のため、国民党の組織をソ連共産党に倣って改変し、中国共産党と「国共合作」に踏み切り、革命成功のためソ連に援助を仰いだ。

 1925年、孫文は道半ばで肝臓がんのため死去した。「革命未だ成らず」という言葉を残した。

 孫文の死後、国民党を継いだ蒋介石は、1926年、北伐を開始し、各地の軍閥を打倒して国民革命を成功させ、中国全土を制圧した。

 蒋介石はその後、共産党と手を切り、弾圧することとなる(第一次国共内戦)。

 昭和12年(1937年)7月の支那事変以降、満州から中国本土に進出してきた日本軍に共同して対処するため、国民党と共産党は再度手を握る(第二次国共合作)。

 昭和20年(1945年)の日本軍撤退後、国民党と共産党は再度争い(第二次国共内戦)、最終的に共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国が成立する。

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1949年10月1日に天安門広場中華人民共和国の成立を宣言する毛沢東

 共産党との争いに敗れた国民党は台湾に逃れ、台湾に中華民国の政府を移した。

 今の中国共産党は、孫文を革命の先駆者と呼んで、自らを孫文の革命の後継者になぞらえている。

 一方の台湾の中華民国政府も孫文を国父と呼んでいる。

 孫文は「革命未だ成らず」との言葉を残して亡くなったが、孫文がもし今の中華人民共和国と台湾を見たとしたら、どちらが自らの革命の理想像に近いと感じることだろう。興味深いところである。 

舞子

 大歳山遺跡公園から南下し、神戸市垂水区東舞子町にある兵庫県立舞子公園に着く。駐車場に車をとめる。

 車を降りれば、眼前に明石海峡の解放感ある景色が広がり、海風が鼻腔を搏つ。

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明石海峡

 頭上を明石海峡大橋が通り、対岸の淡路島が指呼の間に見える。私は海峡の景色が好きなのだが、舞子の景色は、古くから多くの人々に愛されてきた。

 舞子の浜は、今となってはコンクリートで覆われている個所が増えたが、かつては白砂松林が続く海岸だった。

 森鷗外は、明治32年6月16日に、九州小倉の陸軍第12師団軍医部長に赴任するため、東京新橋駅を汽車で発し、西に向かった。

 東大医学部同期で、陸軍省医務局内では上官に当る小池正直の差し金で、地方の軍医部長に「左遷」させられた鷗外は、悶々とした気持ちで西下したことだろう。

 鷗外の「小倉日記」を読むと、鷗外は明治32年6月18日に、九州に向かう途中汽車で舞子を通過している。鷗外は日記にこう書いている。

是日風日姸好、車海に沿ひて奔る。私(ひそか)に謂ふ。師団軍医部長たるは終に舞子駅長たることの優れるに若かずと。 

  鷗外は、汽車から明石海峡の風光を眺めて、師団軍医部長になるよりも舞子駅長の方がいいと独り言したようだ。克己心溢れる鷗外にしては珍しい弱音だが、それだけかつての舞子の景色は美しかったのだろう。

 とは言え今の舞子の景色も美しい。舞子公園から西を望めば、遠くに明石の街並みが見え、明石市立天文科学館の大時計塔も見える。

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舞子公園から眺めた明石市

 また、公園の中央には、明石海峡大橋のメインケーブルをつなぎとめ、固定させる巨大なアンカーレイジが聳える。

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明石海峡大橋のアンカーレイジ

 この巨大なコンクリートの塊が、淡路島まで続く世界最長の吊り橋である明石海峡大橋を地上に固着する役割を果たしているのである。

 舞子公園の西端には、国指定史跡の明石藩舞子台場跡(舞子砲台跡)がある。

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舞子砲台跡

 嘉永六年(1853年)6月及び嘉永七年(1854年)1月のアメリカ・ペリー艦隊の来航、そして同年9月のロシア・プチャーチン艦隊の大阪湾侵入を受け、幕府は日本がこのままでは欧米列強に蹂躙されると危機感を抱いた。

 そして、大阪湾防備のため、大阪湾沿岸に砲台を設置することにした。

 文久三年(1863年)、幕府の軍艦奉行勝海舟の指導の下、明石藩は舞子に砲台を築いた。対岸の淡路島にも徳島藩が松帆砲台を築いた。

 欧米艦隊が大阪湾に侵入しようとして明石海峡を通過した場合、舞子砲台と松帆砲台の南北から砲撃して撃退しようとしたのである。

 舞子砲台は、発掘調査の結果、東西70メートル、高さ10メートルのW字型の石垣の上に大砲を設置していたものと判明した。

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舞子砲台石垣の復元図

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発掘された舞子砲台の石垣

 上の復元図で「公開場所」として緑線で囲まれたL字の石垣は、今も地上に露出して公開されている。

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台場跡の石垣

 このL字の石垣だけでなく、今でも舞子砲台の石垣の一部が、海に面して表に現れている。

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舞子砲台跡の石垣

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 そして、大砲の形をした石造のベンチが設置され、ここにかつて明石海峡に向けられた砲台があったことを偲ばせてくれる。

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大砲型のベンチ

 欧米には技術力と軍事力で圧倒的に劣っていたが、当時の日本人が何とか新しい技術を習得して、外敵に備えようとした努力が窺われる。

 今も国家同士の対立や争いはある。人間が自己の所属する国家という共同体に生存と生活を頼っている限りは、国防という事は必要なことである。

 幸いにも、舞子砲台の大砲は火を噴くことはなかった。砲台跡からは、平和な時代の明石海峡と大橋を眺めることができる。

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舞子砲台跡から眺める明石海峡

 舞子公園を西に向けて歩く。公園内にある国指定重要文化財の洋風建築・移情閣は、又日を改めて紹介したい。

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移情閣と明石海峡大橋

 舞子公園の松林の中には、明治天皇の歌碑がある。

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明治天皇の歌碑

 明治天皇は、舞子の景勝を殊の外愛され、明治18年以来、7回に渡って行幸された。

 有栖川宮熾仁親王が舞子に御別邸を建てられるまで、舞子有数の料理旅館亀屋旅館が明治天皇の行在所となった。

 昭和11年の国道工事竣工に合わせ、亀屋旅館跡にこの歌碑が建てられ、平成10年の国道拡幅工事に伴い、今の場所に移動させられた。

 歌碑には、明治天皇の御詠三首が彫られている。正面には、「播磨潟 舞子の浜に 旅寝して 見し夜恋しき 月の影哉」の御歌が彫られている。

 明治天皇にとって、舞子の浜で見た月影は、忘れ難いものだったようだ。

 戊辰戦争の際、官軍の総司令官となって江戸城まで進撃した有栖川宮熾仁親王は、舞子の柏山を気に入り、明治27年、ここに別邸を建てた。

 有栖川宮別邸のあった場所には、現在シーサイドホテル舞子ビラ神戸が建つ。

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シーサイドホテル舞子ビラ神戸

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 私も何度か知人の結婚式でこのホテルを訪れたが、傾斜する芝生張りの広々とした庭から、明石海峡の景色を心ゆくまで眺めることが出来る。有栖川宮熾仁親王がここに別邸を建てられたのも肯われる。

 昭和35年に舞子公園一帯を発掘したところ、遺体が埋葬された埴輪棺が多く発掘された。公園一帯が古代の墓地であったことが分り、舞子浜遺跡に指定された。

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舞子浜遺跡の説明板

 舞子浜遺跡の説明板のある辺りは、砂地に松林が生え、かつての舞子海岸の雰囲気を残している。

 平成11年には、全長約270センチメートル、幅約40~50センチメートルの埴輪棺が見つかった。

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埴輪棺

 舞子浜の近くにある五色塚古墳から発掘された円筒埴輪と、これらの埴輪棺はよく似ており、五色塚古墳の築造に関連する人々が葬られていたのではないかと言われている。

 舞子は景勝地であると同時に、古代から軍事・交通の要衝でもあった。このような場所には、古代から様々な人が訪れ、様々な感慨を残していった。

 平成に入って巨大な橋は出来たが、風景の大枠は変わらず、今も海風が松林を駆け抜けている。

大歳山遺跡公園

 多聞寺から南下し、神戸市垂水区西舞子にある大歳山遺跡公園を訪れる。

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大歳山遺跡公園

 大歳山遺跡公園は、標高約30メートルの台地上にある。芝生が張られ、広々とした心地好い空間だ。

 ここには、元々大歳山という山があった。山上に大歳神社が祀られていたことから付いた名である。

 しかし昭和に入ってからの宅地造成で大歳山は削られ、東西約280メートル、南北約150メートルの台地になってしまった。遺跡公園は、この台地の一角にあるのである。

 明石原人の寛骨を発見したことで著名な直良信夫が、大正11年にこの地を発掘し、縄文時代前期の遺物を発見した。

 その後大歳山からは、縄文時代から古墳時代までの遺物が発掘され、長い間人が居住していた場所であることが分った。

 公園には再現された弥生時代後期の竪穴住居と、古墳時代後期に築造された前方後円墳がある。

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再現された弥生時代の竪穴住居

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 大歳山遺跡のあった辺りは、弥生時代には集落があり、このような竪穴住居が複数発掘された。それらの住居跡は、公園の地下に埋め戻され、保存されている。その内の1棟が地上に復元された。

 復元された竪穴住居は、中央に四角の柱で囲まれた約3.5メートル四方の凹部があり、その周囲を中央部よりやや高くなった幅約1メートルの床面が取り囲んでいる。

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竪穴住居の断面図

 床面が高くなったところには、壺、甕、高坏、鉢などが約50点置かれていた。

 竪穴住居は日本の家屋建築の原型とも言うべき姿だ。よく見ると入母屋造りである。今の神社建築にも見られる千木や棟木がある。

 竪穴住居は、夏は涼しく、冬は暖かい、日本に適した住居である。

 こうして断面図を見ると、日曜大工でも作れそうで、土地があれば自分で建ててみようかと思ってしまう。

 公園には、6世紀ころに築造された前方後円墳、大歳山2号墳がある。古墳の向うには、明石海峡大橋と淡路島が見える。

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大歳山2号墳

 古墳は全長約37メートルで、全て芝生に覆われているため、墳丘の形が明瞭に分かる。

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前方部から後円部を望む

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後円部から前方部を望む

 この古墳からは、須恵器の坏、高坏、甕などが出土している。後円部には、横穴式石室があったようだ。

 遺跡公園の東側には、円墳(大歳山1号墳)があった。その隣には、小さな円墳があって、4世紀の銅鏡や管玉、勾玉などが見つかった。

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大歳山台地

 大歳山2号墳の墳丘上に登れば、青空の下、彼方に明石海峡大橋と淡路島が見える。ここに葬られた人物は、明石海峡の眺めを殊の外気に入っていたのだろう。

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明石海峡大橋と淡路島

 大歳山遺跡公園は、ささやかな遺跡公園だが、芝生で覆われた前方後円墳の上から、美しい明石海峡を眺められる名所である。

 炎天下の訪問だったが、清々しい気分になった。

吉祥山多聞寺

 明石城を出て、車を神戸市西区伊川谷町有瀬に向けて走らせる。

 有瀬にある神戸学院大学のキャンパスには、平成7年1月17日の阪神淡路大震災で故障した、明石市立天文科学館の2代目大時計が移設され、現在も時を刻んでいる。

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神戸学院大学有瀬キャンパス

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大時計

 大学キャンパスの中には入らなかったが、外からでも大時計を観ることが出来た。震災で一度時を止めた大時計も、今は元気に時を刻んでいる。この時計も、現在の明石市立天文科学館の大時計と同じく、原子時計なのだろう。

 さて、ここから車を更に走らせ、神戸市垂水区多聞台2丁目にある吉祥山多聞寺を訪れた。ここは天台宗の寺院である。

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多聞寺仁王門

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 多聞寺は、貞観五年(863年)に清和天皇の勅願により、慈覚大師が毘沙門天像を自ら刻んで安置したのを開創とする。

 創建から約120年後、寺院は天災のため焼失するが、花山天皇の勅命により、明観上人により再建された。だがその後何度も焼失した。現在の本堂は、正徳二年(1712年)の再建である。

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仁王像

 仁王門を潜ると、石造の弁天橋がかかり、その先に緑色の屋根を持つ本堂が見える。

 弁天橋は、カキツバタが密生する池にかかっている。花盛りのころには、ここからの眺めは極楽浄土のような景色となることだろう。

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弁天橋と本堂

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本堂

 本堂は、緑色の銅板葺きの屋根を戴いた優美な建物である。

 ここに祀られる御本尊は、毘沙門天立像である。毘沙門天王は、天部に所属する仏法を守護する神である。別名多聞天という。

 この多聞寺の付近は、本多聞や多聞台、舞多聞といった、「多聞」がつく地名が多いが、これ全て、多聞寺に祀られる毘沙門天王(多聞天)から来ている。

 御本尊の両脇侍である木造日光・月光菩薩立像は、国指定重要文化財である。平安時代末期から、鎌倉時代初期の作とされている。

 本堂前に佇み、戦いの神・毘沙門天王に祈りを捧げる。

 本堂の前には、鐘楼があり、その西奥に阿弥陀堂がある。

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鐘楼

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阿弥陀堂

 阿弥陀堂は、昭和38年の再建である。阿弥陀堂に安置される阿弥陀如来坐像は、平安時代末期から鎌倉時代初期の作で、国指定重要文化財である。下品中生印を結んでいるという。

 阿弥陀堂の隙間から、御像をありがたくも僅かに拝観することが出来た。

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阿弥陀如来坐像

 背後の煌びやかな光背は、後補であろう。

 本堂裏には、珍しくも伝教大師最澄の稚児像があった。

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最澄の稚児像

 稚児大師像は、空海だけではないようだ。最澄は、南都(奈良)仏教に対抗する北嶺(比叡山)仏教を創設した傑僧である。最澄のおかげで、大乗仏教が広く日本に定着するようになったと言える。

 境内の外には、文殊堂がある。智慧を象徴する文殊菩薩を祀っている。

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文殊

 文殊堂は、江戸時代までは境内にあったが、老朽化によって失われた。現代の文殊堂は、昭和になって建てられたものである。文殊菩薩は、梵語名は「マンジュシャリ」で、漢語訳は妙吉祥であるらしい。多聞寺の山号である吉祥山は、ここから来ているそうだ。多聞寺の駐車場脇には、平成24年に建てられた不動堂がある。

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不動堂

 不動堂には、不動明王坐像が鎮座している。ここで天台密教護摩行が行われることだろう。

 私はかつて神戸市垂水区に住んでいたことがあるが、垂水区に目立つ多聞がつく地名が、この多聞寺から来ていることは知らなかった。

 それだけ地域に尊崇されている寺院なのだろう。古くから信仰されている寺社は、地域の精神的支柱となるものである。