移情閣は、明石海峡大橋建設工事に伴い、平成6年に一度解体され、元々建っていた場所から南西約200メートルの現在地に移転復元された。移転工事が終了したのは平成12年4月のことである。
移情閣の名の由来は、八角三層の塔から展望する六甲山系、大阪湾、淡路島の眺めが刻々変化するからとも、還暦を迎えた呉錦堂が故郷の浙江省を偲んだからとも言われている。
孫文記念館の展示物は、主に附属棟にて展示されている。附属棟内部も中々の趣だ。
ところで、孫文はその生涯に何度も来日し、日本の有志達から様々な援助を受けて、革命を成功させることが出来た。
孫文と交流のあった日本人の資料も展示されている。
大陸浪人の宮崎滔天、右翼の頭領の頭山満、政治家の犬養毅、財界人の渋沢栄一だけでなく、学者の南方熊楠までもが孫文と交流があったとは意外である。
日本は、大正4年に、袁世凱が大総統を務める中華民国に対して、日本の山東半島、南満州、東蒙での権益を認めさせ、在留日本人の法益保護を求める対華21ケ条の要求をつきつけた。
これに対し、中国国内の反日感情は沸騰したが、日本から多くの援助を受けて来た孫文は、正面から日本を非難せず、自己が帝位に即くことを条件に要求を受け入れた袁世凱を非難した。
それでも晩年の孫文は、日中関係の行く末を懸念したのだろう。大正13年(1924年)に来日した時、神戸高等女学校において、「大亜細亜問題」という題名で講演を行い、日本人に対し、欧米列強のような侵略的な覇道に立たず、アジア諸国と協力しあう王道に立つべきだというメッセージを出した。
孫文は翌年亡くなるが、最後までこの講演の日本での反響を気にしていたそうだ。
さて、八角三層の移情閣の内部に入る。
八角形の建物は、8本のマホガニー色の柱で支えられ、壁は下部は腰板張、上部は金唐紙の壁紙張となっている。
優美な壁紙も当時の彩色に復元されている。
1階には、暖炉も復元されており、鮮やかなマジョリカタイルが敷き詰められている。
移情閣の部屋の外側には、螺旋状の階段が巡っている。
階段を登り2階に上る。2階も同じく八角形の空間である。
移情閣2階の天井中央には、鳳凰の彫刻が施されている。
西洋風の造りにも、不思議と漢字の書や中華風の意匠がよく合う。
又2階には、呉錦堂が故郷から持って来て愛用していた机と椅子が展示してあった。
こうして見ると、畳に直接座る日本の家屋と異なり、椅子を使う中国の住宅文化が意外とヨーロッパに近いことが分る。中国の古い建造物は、石造のものが多い。建造物から見たら、中国とヨーロッパは似ている。
木造住宅の床に直接座る日本の住宅文化は、南洋風である。
移情閣2階からは、明石海峡大橋が手に取る様な近さに感じられる。
海からの風が心地よい。移情閣の3階には、一般客は入れなかった。
附属棟の2階には、孫文が気に入っていた言葉である「天下為公」の書の複製が展示されている。
天下為公は、「礼記」の中にある言葉で、天下の政治は公の為にあるという意味である。天下を私物化してはならないという孫文の考えと一致する格言だ。
孫文は、大正13年に神戸高等女学校で講演した際、書を請われて、この書を書いた。「天下為公」の書の実物は、今は女学校の後を継いだ兵庫県立神戸高等学校が校宝としているそうだ。
移情閣の外側にも、「天下為公」の石碑がある。
孫文が目指したものは、皇帝が天下を私物化し続けてきた中国の政治制度を変えることだった。孫文が生きている間に、清朝は倒せたが、その後も相変わらず天下を私物化する輩が中国大陸を跋扈した。孫文が「革命未だ成らず」と嘆いたのは、その為だ。
天下を公のものにするために奮闘した孫文と、それを援助した日本の有志との友情を記念するものとして、移情閣は今も舞子の海に臨んでいる。