大歳山遺跡公園から南下し、神戸市垂水区東舞子町にある兵庫県立舞子公園に着く。駐車場に車をとめる。
車を降りれば、眼前に明石海峡の解放感ある景色が広がり、海風が鼻腔を搏つ。
頭上を明石海峡大橋が通り、対岸の淡路島が指呼の間に見える。私は海峡の景色が好きなのだが、舞子の景色は、古くから多くの人々に愛されてきた。
舞子の浜は、今となってはコンクリートで覆われている個所が増えたが、かつては白砂松林が続く海岸だった。
森鷗外は、明治32年6月16日に、九州小倉の陸軍第12師団軍医部長に赴任するため、東京新橋駅を汽車で発し、西に向かった。
東大医学部同期で、陸軍省医務局内では上官に当る小池正直の差し金で、地方の軍医部長に「左遷」させられた鷗外は、悶々とした気持ちで西下したことだろう。
鷗外の「小倉日記」を読むと、鷗外は明治32年6月18日に、九州に向かう途中汽車で舞子を通過している。鷗外は日記にこう書いている。
是日風日姸好、車海に沿ひて奔る。私(ひそか)に謂ふ。師団軍医部長たるは終に舞子駅長たることの優れるに若かずと。
鷗外は、汽車から明石海峡の風光を眺めて、師団軍医部長になるよりも舞子駅長の方がいいと独り言したようだ。克己心溢れる鷗外にしては珍しい弱音だが、それだけかつての舞子の景色は美しかったのだろう。
とは言え今の舞子の景色も美しい。舞子公園から西を望めば、遠くに明石の街並みが見え、明石市立天文科学館の大時計塔も見える。
また、公園の中央には、明石海峡大橋のメインケーブルをつなぎとめ、固定させる巨大なアンカーレイジが聳える。
この巨大なコンクリートの塊が、淡路島まで続く世界最長の吊り橋である明石海峡大橋を地上に固着する役割を果たしているのである。
舞子公園の西端には、国指定史跡の明石藩舞子台場跡(舞子砲台跡)がある。
嘉永六年(1853年)6月及び嘉永七年(1854年)1月のアメリカ・ペリー艦隊の来航、そして同年9月のロシア・プチャーチン艦隊の大阪湾侵入を受け、幕府は日本がこのままでは欧米列強に蹂躙されると危機感を抱いた。
そして、大阪湾防備のため、大阪湾沿岸に砲台を設置することにした。
文久三年(1863年)、幕府の軍艦奉行勝海舟の指導の下、明石藩は舞子に砲台を築いた。対岸の淡路島にも徳島藩が松帆砲台を築いた。
欧米艦隊が大阪湾に侵入しようとして明石海峡を通過した場合、舞子砲台と松帆砲台の南北から砲撃して撃退しようとしたのである。
舞子砲台は、発掘調査の結果、東西70メートル、高さ10メートルのW字型の石垣の上に大砲を設置していたものと判明した。
上の復元図で「公開場所」として緑線で囲まれたL字の石垣は、今も地上に露出して公開されている。
このL字の石垣だけでなく、今でも舞子砲台の石垣の一部が、海に面して表に現れている。
そして、大砲の形をした石造のベンチが設置され、ここにかつて明石海峡に向けられた砲台があったことを偲ばせてくれる。
欧米には技術力と軍事力で圧倒的に劣っていたが、当時の日本人が何とか新しい技術を習得して、外敵に備えようとした努力が窺われる。
今も国家同士の対立や争いはある。人間が自己の所属する国家という共同体に生存と生活を頼っている限りは、国防という事は必要なことである。
幸いにも、舞子砲台の大砲は火を噴くことはなかった。砲台跡からは、平和な時代の明石海峡と大橋を眺めることができる。
舞子公園を西に向けて歩く。公園内にある国指定重要文化財の洋風建築・移情閣は、又日を改めて紹介したい。
舞子公園の松林の中には、明治天皇の歌碑がある。
明治天皇は、舞子の景勝を殊の外愛され、明治18年以来、7回に渡って行幸された。
有栖川宮熾仁親王が舞子に御別邸を建てられるまで、舞子有数の料理旅館亀屋旅館が明治天皇の行在所となった。
昭和11年の国道工事竣工に合わせ、亀屋旅館跡にこの歌碑が建てられ、平成10年の国道拡幅工事に伴い、今の場所に移動させられた。
歌碑には、明治天皇の御詠三首が彫られている。正面には、「播磨潟 舞子の浜に 旅寝して 見し夜恋しき 月の影哉」の御歌が彫られている。
明治天皇にとって、舞子の浜で見た月影は、忘れ難いものだったようだ。
戊辰戦争の際、官軍の総司令官となって江戸城まで進撃した有栖川宮熾仁親王は、舞子の柏山を気に入り、明治27年、ここに別邸を建てた。
有栖川宮別邸のあった場所には、現在シーサイドホテル舞子ビラ神戸が建つ。
私も何度か知人の結婚式でこのホテルを訪れたが、傾斜する芝生張りの広々とした庭から、明石海峡の景色を心ゆくまで眺めることが出来る。有栖川宮熾仁親王がここに別邸を建てられたのも肯われる。
昭和35年に舞子公園一帯を発掘したところ、遺体が埋葬された埴輪棺が多く発掘された。公園一帯が古代の墓地であったことが分り、舞子浜遺跡に指定された。
舞子浜遺跡の説明板のある辺りは、砂地に松林が生え、かつての舞子海岸の雰囲気を残している。
平成11年には、全長約270センチメートル、幅約40~50センチメートルの埴輪棺が見つかった。
舞子浜の近くにある五色塚古墳から発掘された円筒埴輪と、これらの埴輪棺はよく似ており、五色塚古墳の築造に関連する人々が葬られていたのではないかと言われている。
舞子は景勝地であると同時に、古代から軍事・交通の要衝でもあった。このような場所には、古代から様々な人が訪れ、様々な感慨を残していった。
平成に入って巨大な橋は出来たが、風景の大枠は変わらず、今も海風が松林を駆け抜けている。