明石城 後編

 明石城の巽(たつみ)櫓は本丸の南東に、坤(ひつじさる)櫓は本丸の南西に建つ三重櫓である。

 両方、国指定重要文化財である。

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手前が巽櫓、奥が坤櫓

 巽櫓は、安土桃山時代明石川河口付近に建てられた船上(ふなげ)城の天守か櫓を移築したものとされている。

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巽櫓

 巽櫓の東側の石段から、二の丸、東の丸に登る。二の丸、東の丸の石垣が、結構複雑な様子を見せていて、石垣の建築美を見せてくれる。

 上に建物がないだけ、想像を逞しくさせる余地がある。

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巽櫓と二の丸、東の丸の石垣

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二の丸への石段

 途中で、明石市街を見下ろす巽櫓を写せるポイントがあった。

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明石市街を見下ろす巽櫓

 こうして近くで石垣を見ると、手前の石垣などは不揃いの石で積んだ野面積みに近く、古武士の様な風格を感じる。

 平成7年の阪神淡路大震災により、明石城の石垣は至る所で崩落し、巽櫓と坤櫓も傾き、櫓や塀の漆喰にひびが入った。

 しかし、櫓自体は倒壊せず、当時の城郭建築の工法が再評価された。

 明石城は、その後日本城郭史上初となる曳家工法(建物ごとスライドして移動させる工法)により修理され、平成11年に修復工事が終了した。

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裏側から見た巽櫓

 巽櫓で不思議なのは、南側と東側には連子窓がついているのに、北側と西側には窓がなく、壁で覆われていることである。

 北側と西側は本丸側になるが、本丸に侵入してきた敵から櫓を防備するためであろうか。分らない。

 もしかしたら、船上城時代の設置場所と関連しているのかも知れない。

 巽櫓と坤櫓の間には長大な漆喰塀があり、鉄砲挟間が設置されている。

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漆喰塀

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鉄砲挟間

 本丸の漆喰塀越しに、明石の市街地と、その向こうの淡路島を望むことが出来る。

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本丸から望む明石市

 坤櫓は、伏見城から移築されたものという伝承が残っている。昭和57年の大改修の際、構造上坤櫓が他から移築されたものであることが裏付けられた。

 当ブログの今年8月9日の記事で紹介した月照寺の山門は、明石城切手門を移築したものだが、これも元は伏見城薬医門を移築したものである。

 明石城には、徳川幕府から小笠原忠政に与えられた伏見城の遺構が多数利用されている。

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坤櫓

 坤櫓は、巽櫓と異なり、本丸側の北側と東側にも連子窓がついている。

 巽櫓が南向きなのと比べ、坤櫓は西向きである。

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西向きの坤櫓

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天守台の石垣と坤櫓

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坤櫓

 坤櫓が西向きなのは、明石城が西国の外様大名の反乱に備えるための城だからだという説があるが、真相はどうなのだろう。

 さて、坤櫓の北側には、天守台がある。

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天守

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天守台上

 明石城天守台には、江戸時代を通じて一度も天守は建てられなかった。

 天守台の少し東側に、鬱蒼とした樹に覆われた人丸塚がある。

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人丸塚

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 現在の明石城本丸の辺りは、弘仁二年(811年)にこの地を訪れた弘法大師空海が、楊柳寺を建てた跡とされる。

 仁和三年(887年)に、楊柳寺住職の覚証上人が、大和の柿本寺から船乗十一面観世音菩薩を勧請し、人丸塚の上に柿本人麻呂を祀る人丸社を建て、寺号を月照寺に改めた。

 小笠原忠政が明石城を築城するに際し、月照寺と人丸社は、現在月照寺柿本神社のある場所に移転した。

 人丸塚には、地元出身の俳人横山蜃楼の俳句、「鵙(もず)の声 屈するところ なかりけり」の句碑が建っている。

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横山蜃楼の句碑

 弘法大師空海が建てた楊柳寺や、人麻呂ゆかりの祠がかつてあった場所に建てられた明石城は、神仏の加護を受けているのだろうか、現在も無事な姿を見せている。
 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて建てられ、ここに移築された2つの櫓を現在も拝める仕合せを感じる。

明石城 前編

 人口約30万人の明石市の象徴となる建物が明石城である。天守はないものの、国指定重要文化財の三重櫓2棟を有する近世の本格的城郭建築の遺構である。

 別名喜春(きしゅん)城と呼ばれる。

 かつて訪問した明石市立文化博物館には、明石城の模型が展示してあった。江戸時代の明石城の全貌を知るには丁度良い資料である。

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明石城の模型

 現在でも城の最も外郭となる外堀は残っている。その他城郭遺構として残っているのは、中央の本丸とその右側の二ノ丸、東ノ丸、本丸左側の稲荷曲輪である。

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外堀

 外堀は、現在も満々と水を湛えていて、白鳥やアヒルが悠々と泳いでいる。

 明石城の南西側に、かつての明石藩重臣織田家屋敷の長屋門が残っている。明石市指定文化財である。

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織田家長屋門

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 明石城は、元和五年(1619年)に、小笠原忠政(後忠真に改名)によって築城された。

 忠政は、義父の姫路藩主本多忠政と相談して、人丸山上に城を築いた。

 その前の安土桃山時代に、高山右近の手により、明石川河口付近に築城されたのが船上(ふなげ)城である。

 右近がキリシタン追放令により追放された後、城主は度々変わったが、元和三年に初代明石藩主となった小笠原忠政が船上城に入城した。

 明石城建築の際は、船上城の部材を利用したといわれている。

 この織田家長屋門も、船上城の門を移築したものとされている。門の止め金に室町時代後期の様式が残っているそうだ。

 城の正面の太鼓門(大手門)跡から、城に入ることができるが、正面入口右手に今年8月3日の当ブログの記事「浜光明寺朝顔光明寺」で紹介した、大洋漁業創始者中部幾次郎の銅像が建っている。

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中部幾次郎銅像

 中部は昭和21年に貴族院議員となった直後に没したが、この銅像は昭和3年に明石市が、市の発展に貢献した中部を顕彰するために建てたものである。

 太鼓門の建物は既にないが、堂々たる石垣が往時をしのぶよすがとなる。

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明石城入口

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太鼓門跡

 明石城の跡は、現在明石公園として整備されており、園内には明石城の遺構のみならず、各広場や野球場、自転車競技場、陸上競技場、兵庫県立図書館などが整備されている。

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明石公園案内図

 太鼓門跡から入ると、正面に明石城の象徴と言ってよい、坤櫓(西側)と巽櫓(東側)が見える。

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坤櫓(左側)と巽櫓(右側)

 この2つの櫓は、全国に現存する築城当時からの三重櫓12棟のうちの2つで、国指定重要文化財となっている。

 築城当時は、本丸に御殿を築き、四隅に三重櫓を建て、櫓の間に土塀を築いて本丸を囲んでいた。
 坤櫓の南西側は、かつて藩主などの屋敷のあった居屋敷郭跡であるが、現在は明石トーチカ球場などが建てられている。

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居屋敷郭跡

 明石トーチカ球場は、夏の全国高校野球大会の兵庫県大会の会場となる球場であり、全国高校軟式野球大会の会場ともなっている。
 また巽櫓の南側には、かつて三ノ丸があった。今、三ノ丸跡の乙女池付近に再現されているのが、「明石城 武蔵の庭園」である。

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明石城 武蔵の庭園

 小笠原忠政に招聘されて明石藩に仕えることになった宮本武蔵は、明石城下町の町割を考え、また明石城内に藩主の遊興所である樹木屋敷を造ったと言われている。
 樹木屋敷は、現在の明石公園陸上競技場の辺りにあったとされる屋敷と庭園の総称であるが、大正11年に実施された明石公園の大拡張工事の際に、樹木屋敷の庭園材料や樹木が、乙女池付近に移築された。
 平成15年に、元樹木屋敷の庭園材料を利用して乙女池付近に再現されたのが、武蔵の庭園である。

 庭園には、武蔵作の庭に必ず見られる大小2つの滝が再現されている。

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大滝

 その内の大滝には、阿波の青石が多用されていて、寂びた景色を見せている。

 また園内には、御茶屋も再現されていて、庭園で憩う人達の休憩所となっている。

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御茶屋

 明石海峡を扼する地に建てられた平城である明石城は、江戸時代の瀬戸内海の要衝の一つだっただろう。小笠原家が九州小倉に移封された後、変遷を経て天和二年(1682年)に明石城主となったのは越前松平家であった。以後明石藩は幕末まで親藩となる。

 明石藩が播磨では唯一と言ってよい親藩となったということは、如何に幕府がこの地を重視していたかの現れであろう。

 次回は明石城の中核部分について触れたい。
 

 

 

比金山如意寺 後編

 文殊堂の北東に聳えるのが国指定重要文化財の三重塔である。

 私が史跡巡りで訪れた、14番目の三重塔である。

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如意寺三重塔

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 元和五年(1619年)に三重塔を修理した際、塔上部の相輪の部材から至徳二年(1385年)の刻銘が見つかった。そのため、この三重塔が室町時代初期に建てられたことが判明した。

 兵庫県下では、加西市の法華山一乗寺の国宝・三重塔に次いで古い三重塔である。

 この塔の三層には、それぞれ大日如来、釈迦如来多宝如来が安置されており、法華経密教思想の融合を表している。

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斗栱

 軒の重さを集約して柱に伝える斗栱は、寺社建築でよく見かける建築技法だが、この三重塔の斗栱は木目がよく浮き出ていて、何故か心惹かれる美しさだった。

 密教では、言葉だけでは伝わらない真理を曼荼羅で表現して伝えようとする。紙や絹に描かれたものだけが曼荼羅なのではない。弘法大師空海は東寺に仏像を設置して立体曼荼羅を造り、仏の世界を表した。

 密教では、大日如来を安置した塔を仏像そのものと見る。仏像を祀った堂塔を配置した密教寺院は、寺院そのものが立体曼荼羅なのである。

 三重塔に対置するように建つのが、国指定重要文化財常行堂阿弥陀堂)である。

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常行堂

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 常行堂は、天台宗の寺院の中では重要視されている建物だ。阿弥陀如来をご本尊として祀り、僧侶は阿弥陀如来像の周りを巡りながら、南無阿弥陀仏の念仏三昧の修行を行う。

 浄土宗や浄土真宗などの念仏系の宗派は、天台宗のこの修行を母体に生まれたのだろう。

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常行堂の半蔀

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杮葺きの屋根

 常行堂は、応永十三年(1406年)と寛文十二年(1672年)に大きく改修されているが、元々の建物は平安時代末期の12世紀末から13世紀初頭に建てられた。

 神戸市内では最古の建造物である。

 正面は半蔀で覆われ、屋根は銅板葺きだが、その下に杮葺きの屋根が見えている。落ち着いた佇まいの建物だ。

 ご本尊の阿弥陀如来像は、常行堂と同時代に造られたもので、神戸市指定有形文化財となっている。説明板によれば、素晴らしい像であるということだが、拝観は出来なかった。

 常行堂のすぐ傍に、古い宝篋印塔があった。

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宝篋印塔

 「兵庫県の歴史散歩」上巻によれば、平維盛に関連する宝篋印塔であるらしいが、説明板がないので維盛とどう関係するのかよく分からない。

 維盛は、平清盛の嫡孫だったが、富士川の戦い倶利伽羅峠の戦いで源氏に大敗を喫した。

 その後、維盛は一の谷の合戦の陣中から逃亡し、高野山で出家したが、那智の沖合で入水自殺したと伝えられる。

 この宝篋印塔と維盛との関係は謎であるが、宝篋印塔の形からして、南北朝期のもののように見える。

 宝篋印塔は、元々は内部に宝篋印陀羅尼を納めた仏塔として建てられ、その後供養塔や墓石として建てられるようになった。

 維盛が戦った治承・寿永の乱源平合戦)のころには、如意寺常行堂は既に建っていたことだろう。

 かつて維盛が如意寺を訪れたことがあり、その縁で、入水した維盛を供養するためにこの塔が建てられたのだろうか。

 常行堂の脇の宝篋印塔は、この世界に現れては消えていく数多くの人間たちを、仏が慈悲と智慧の目で見ているという、仏教世界を象徴しているかのようだ。

比金山如意寺 前編

 今年8月5日の当ブログの記事「明石市立天文科学館 前編」で紹介したように、明治43年に、当時の明石郡の小学校教員たちが私費を投じて、子午線が通過する場所に子午線通過地識標を建てた。

 一つは現在の明石市天文町に建てられたが、もう一つの識標は、現神戸市西区平野町黒田に建てられた。

 平野町黒田の識標は、今も民家の脇にひっそりと佇んでいる。

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神戸市西区平野町黒田に建つ大日本中央標準時子午線通過地識標

 ここから車を走らせ、神戸市西区の中心である西神中央の市街地を抜け、神戸市西区櫨谷(はせたに)町谷口にある天台宗の寺院、比金山如意寺に赴く。

 この辺りは、建設会社の資材置き場が多く、寺院まで続く細い道を通っても、見えるのは資材置き場ばかりで、こんなところに果たして寺院があるのか不安になる。

 そんな殺風景な景色の中、突然寺院の山門が現れる。

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仁王門

 仁王門の両脇には、鎌倉時代に作られた仁王像が立っている。像は破損が進み、下の木材がむきだしになった個所もある。

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仁王像

 破損が進んでいても、貴重な鎌倉期の木像である如意寺仁王像は、兵庫県指定有形文化財である。

 仁王門から車で200メートルほど進むと如意寺の堂宇が見えてくる。

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如意寺境内

 寺伝によれば、如意寺は、大化元年(645年)に法道仙人が、毘沙門天のお告げにより櫨の木を刻んで地蔵菩薩像を造り、像を安置する堂を創建したことに始まるとされている。

 このあたりの地名を櫨谷と言うが、ひょっとしたらこの寺院の創建説話と地名の発祥に何か関連があるのかも知れない。

 しかしその後寺は荒廃した。正暦年間(990~995年)に願西上人が寺院を復興し、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えた。

 現在の如意寺には、文殊堂、三重塔、常行堂阿弥陀堂)の3つの国指定重要文化財の建物があり、天台宗寺院の典型的な伽藍配置を見せている。

 境内に入ってまず見えてくるのは、文殊堂であり、その背後に三重塔が聳え立っている。

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文殊

 文殊堂は、境内南側の傾斜地に建てられており、懸造様の高床を持つ建造物である。

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文殊

 文殊堂の周囲は格子戸で覆われ、内部を窺うことが出来る。

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文殊堂の格子戸

 如意寺は、応永十三年(1406年)に罹災したとされるが、文殊堂はその後の建築とされている。

 文殊堂の巻斗に癸酉の墨書があるため、癸酉年である享徳二年(1453年)の建立という説もある。いずれにしろ室町中期の建物で、現在は国指定重要文化財である。

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文殊

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 文殊堂は、江戸時代に一度修理されているが、室町時代中期の建築の特徴をよく残しているそうだ。

 格子戸から文殊堂内部を観ることが出来る。内部は、古い木目が浮き出た柱が何本も立つ広い空間であり、ここで多くの僧侶が勤行を行ったのではないかと想像される。

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文殊堂内部

 文殊堂の奥には、3つの厨子がある。それぞれの厨子の中には仏像が収められているのだろうが、それぞれの厨子の前に御前立の仏像が祀られている。厨子内の仏像と同形の仏像だろう。

 中央の厨子の前に祀られているのは、聖僧文殊である。

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聖僧文殊

 文殊菩薩像と言えば、獅子の上に乗る姿が有名だが、曹洞宗などでは、このように僧形の文殊菩薩像を禅堂に祀ったりするそうだ。この聖僧文殊が祀られているということは、この文殊堂は禅の修行に用いられた建物だったのではないかと思われる。

 向って聖僧文殊の左側に地蔵菩薩像が立つが、これが本尊の地蔵菩薩像の御前立像だろう。

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地蔵菩薩

 地蔵菩薩像は、元々本堂に祀られていたが、本堂は大東亜戦争時に傾いてしまい、戦後になって修理されることもなく解体されてしまった。

 ご本尊は、今は文殊堂の赤い厨子の中に祀られているようだ。

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地蔵菩薩像と聖僧文殊

 15世紀に建てられてから使われ続ける古い木材と、威厳ある仏像に囲まれたこの空間は、いかにも僧侶が厳しい修行をする場所に相応しいと思われる。

 酷暑の中ではあったが、文殊堂を拝観して、清爽とした気分を味わうことが出来た。

香雪美術館

 弓弦羽神社の東隣にあるのが、香雪(こうせつ)美術館である。

 明治12年朝日新聞を創刊した村山龍平が大正時代までに収集した刀剣、仏画、墨蹟、茶道具などを収蔵している。

 香雪美術館は、村山龍平のコレクションに、初代理事長村山長挙(ながたか)のコレクションを含めて一般公開するため、昭和48年に開館した。

 香雪は、村山龍平の雅号である。

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香雪美術館を囲む塀

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 香雪美術館の敷地には、美術館だけでなく、村山家が使用した洋館や和風建築の御殿、茶室がある。これらの建物は、現在国登録有形文化財となっている。

 香雪美術館の敷地を囲う石塀は、独特の景観を生み出しており、この石塀を見るたびに、香雪美術館に来たことを実感する。

 私は香雪美術館には、過去何度も足を運んでいる。茶道具の展覧会があるたびに見に来ている。

 収蔵品の中には、国指定重要文化財となっている美術品が18点もある。中でも有名なのは、幼少時の弘法大師の姿を描いた稚児大師像だろう。

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香雪美術館正門

 今回は、「茶の湯の茶碗」展を観に来た。

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茶の湯の茶碗」展パンフレット

 パンフレットの真っ黒な背景となっているのが、楽家初代長次郎作の黒楽茶碗である。

 長次郎は、桃山時代の茶陶家で、利休の求めに応じて作陶し、楽焼を創始した。

 楽茶碗は、轆轤を使わずに手ひねりで作陶し、低温で焼成する。長次郎作の黒楽茶碗が2点展示されていたが、つやのない黒色が独特の存在感を放つ神品である。

 パンフレット右下の織部黒茶碗がまた前から立ち去りがたい銘品であった。

 その他、江戸時代のマルチアーティスト、本阿弥光悦作の黒楽茶碗もあった。

 それにしても、このパンフレットを見て初めて知ったが、茶碗のことを英語で「TEA BOWL」と言うようだ。何だか違和感がある。

 さて、香雪美術館の敷地は、緑が豊かで茶室もある閑雅な空間である。

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香雪美術館敷地

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茶室

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美術館入口

 美術館の中は当然ながら撮影禁止である。

 美術館の東側に、かつて村山龍平が住んだと思われる洋館や御殿があるが、一般公開はされていない。

 石塀づたいに敷地を巡り、外側から眺めるだけである。

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御殿と玄関棟

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洋館

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 中に入って拝観したいものだが、それは叶わない。香雪美術館では、春と秋に、庭園特別見学会を行っている。

 洋館や御殿の中には入れないだろうが、周辺の庭園は見学出来そうだ。またの機会に訪れようと思う。

 最近抹茶を飲んでいないが、銘品の茶碗で飲む抹茶はまた格別である。かつて戦国大名が茶道具の銘品の収集に血眼になったが、たかが一碗の茶碗でも、人生に深い彩りを与えてくれると思う。

弓弦羽神社

 お盆に本家のお墓のある西宮に墓参りに行った。

 その帰りに、神戸市東灘区の香雪美術館に立ち寄り、「茶の湯の茶碗展」を観た。

 その際、香雪美術館のすぐ隣にある、弓弦羽(ゆづるは)神社も訪れた。

 ここ最近、男子フィギュアスケート羽生結弦選手が、社名が自分の名前に似ていることから参拝したことでも有名な神社である。

 今日は、その弓弦羽神社を紹介する。

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弓弦羽神社参道

 私は今まで、播磨、備前、美作の三国の史跡を紹介して来たが、今回初めて摂津国の史跡を紹介する事となった。

 ついに史跡の宝庫、畿内に入り込んだわけだ。摂津の史跡は数多く、道は遠い。

 弓弦羽神社があるのは、神戸市東灘区御影郡家である。山手の高級住宅街の中にある神社だ。

 弓弦羽神社は、神功皇后が朝鮮征伐から帰国した際、忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱の報を聞いて、この地に上陸し、弓矢甲冑をおさめ、熊野大神に戦勝祈願したのが発祥とされている。

 忍熊皇子は、神功皇后の夫、第14代仲哀天皇が、大中比売(おおなかつひめ)命との間に作った子である。

 つまり、忍熊皇子は、仲哀天皇神功皇后の間の子である第15代応神天皇の異母兄になる。

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弓弦羽神社境内

 忍熊皇子は、神功皇后が無事に応神天皇を出産したことを知り、皇位応神天皇に渡るのを恐れ、同母弟の香坂王(かごさかのみこ)と謀り、帰国する神功皇后の軍勢を迎え撃つことにした。

 結果的に神功皇后軍が大勝し、皇位応神天皇系が継承することになる。この応神天皇が、その後八幡大神として全国の八幡神社に祀られるようになったことから見ても、古代には応神天皇が皇室の画期となる天皇と認識されていたのだろう。

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拝殿

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狛犬

 この神功皇后が弓矢甲冑を奉納した故事から、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽(六甲山)と呼ぶようになったという。

 桓武天皇延暦年間(782~806年)に弓弦羽ノ森は神領地と定められ、嘉祥二年(849年)にこの地に神祠が建てられたという。それが今の弓弦羽神社である。

 御祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)であり、いわゆる熊野三神である。

 弓弦羽神社の垂れ幕にも、熊野大神の御使いである三本足の八咫烏(やたがらす)が描かれている。

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拝殿内の八咫烏

 八咫烏は、神武天皇が熊野に上陸して、大和盆地を目指して進軍した時に道案内をしたと伝えられている。

 神功皇后も、忍熊皇子との戦いで、畿内を迂回して熊野に上陸し、南から大和盆地を目指した。熊野は今の皇統とゆかりの深い地である。

 弓弦羽神社の今の本殿は、明治3年に造営されたものである。神戸市内でも最大級の木造本殿である。

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本殿

 本殿は檜皮葺だったが、昭和11年に銅板葺きに葺き替えられた。令和元年に2度目の葺き替えを行ったばかりで、今は非常に美しい屋根を見せている。

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本殿

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 オーソドックスな流造りの本殿である。

 本殿前には、昭和から平成まで、本殿の屋根に載っていた鬼板と鰹木が展示されていた。なかなかの大きさである。

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昭和平成の鬼板と鰹木

 さて、神功皇后が戦勝祈願して忍熊皇子軍に勝った故事にあやかってか、この神社には勝負に勝つことを祈願しに来る参拝客が多い。

 また、八咫烏日本サッカー協会のシンボルマークになっているからか、境内には御影石で造られたサッカーボールが展示されていた。

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御影石のサッカーボール

 境内を散策すると、明治天皇の御製を刻んだ御製碑が建っていた。

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明治天皇御製碑

 「日の本の 国の光の そひゆくも 神の御稜威(みいつ)に よりてなりけり」という歌である。

 明治の世も今の世も、日本の神々の御稜威は変わらず輝いていることだろうか。

 境内には、参拝者が生まれた我が子の手形足形を御影石に印刷して残した記念碑があった。

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手形足形の碑

 子を慈しむ親の気持ちの現れの一つだろうか。ここにこうして自分の誕生時の手形足形が半永久的に残ることを知った子供たちは、神様に恥じない生き方をしようと思うことだろう。

 弓弦羽神社は、旧郡家(ぐんげ)、御影、平野の旧三村の氏神である。毎年5月3、4日には、氏子たちがかつぐ8地域のだんじりが町内を巡行し、最後に宮入する。

 香雪美術館の裏には、郡家地域のだんじりを収納展示する郡家伝統文化会館があった。

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郡家伝統文化会館

 神戸と言えば、お洒落でモダンな街というイメージがあると思うが、実は神社が多く、祭りが盛んな地域でもある。

 神功皇后ゆかりの神社も非常に多い。今も昔も、神戸は航海に縁が深い地域である。

笠井山薬師院 龍之口八幡宮

 金山寺のある金山は、標高499メートルである。金山は、南側の笠井山と連なっている。

 金山寺から南に細い山道を走ると、天台宗の寺院、笠井山薬師院がある。

 薬師院は、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が備前四十八ヶ寺の根本道場金山寺を開いた時に、境外庵室として建立された。

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薬師院山門

 本尊の薬師如来像は、秘仏とされている。眼病に特に効験があり、日本三大薬師の一つとして崇敬され、かつては多くの参詣者で賑わったそうだ。

 薬師院は、弘治元年(1555年)の備前金川城主松田左近将監による攻撃で焼失した。

 その後、堂宇は荒廃したままだったが、地元民により、大正12年に本堂が改築された。

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薬師院本堂

 改築された本堂は、ささやかなものである。本堂の前に立って、薬師如来真言である「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を唱えた。

 薬師院には、本堂の他の建物として、平成3年に改築された庫裏があるばかりである。

 薬師院は、天台宗の寺院であるが、本堂の脇にミニ四国八十八ヶ所の第一番札所霊山寺の石碑と弘法大師の石像があった。

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ミニ四国八十八ヶ所の第一番札所

 薬師院が真言宗の寺院だった時代があったのだろうか。

 さて、笠井山から降りて、旭川にかかる中原橋を渡り、岡山市北区祇園にある「龍ノ口グリーンシャワーの森」という自然公園に行く。

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龍ノ口グリーンシャワーの森の案内図

 ここは、龍ノ口山の登山を楽しむための森林公園だが、その龍ノ口山の山上にあるのが、龍之口八幡宮である。

 八幡宮は、標高200メートルほどの山の上にある。山はさして高くはないが、私が訪れた夕暮れ時でも相当な暑さであった。

 駐車場に車をとめ、しばらく歩くと公園の正門がある。

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龍ノ口グリーンシャワーの森入口

 しかし、そんな暑さの中でも、ハイキング客は多い。私も山を登り始めた。

 龍之口八幡宮は、天平勝宝年間に、金山寺を開創した報恩大師が勧請したとされている。

 八幡宮の社殿の建つ場所が天然の要害であったため、戦国時代には山城の龍之口城が築かれていた。

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龍之口八幡宮の入口の灯籠

 しばらく山を登ると、八幡宮の入口と思しき一対の灯籠があった。灯籠は石垣の上に建っていたが、この石垣が、もしかしたらかつての城門の跡かも知れない。

 しかし、戦国時代のものとしては、整い過ぎた石垣なので、江戸時代に再建された時の神門の跡だろう。

 龍之口城は、松田左近将監の武将の穝所治部元常が居城としていた。

 松田氏は、宇喜多直家と対立していた。宇喜多勢は幾度も龍之口城を攻撃したが、難攻不落の城であったため、なかなか陥落しなかった。

 謀略家の直家は、岡剛介というスパイを城に潜入させ、元常を殺害し、ようやく城を攻略した。

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鳥居

 鳥居を潜ってしばらく行くと、ようやく八幡宮に至る。

 龍之口八幡宮は、岡山藩池田光政に厚く崇敬され、寛文元年(1661年)に社領15石が寄進され、荒廃した社殿が再建された。

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社頭の茅輪くぐり

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備前焼狛犬

 寛文年間、藩主池田光政が今の岡山市牟佐に遊猟に行った帰りに、龍ノ口山の麓を流れる旭川を舟で下っていると、川面に大蛇が横たわり、舟の行く手を遮った。

 光政は自ら弓を取り八本の矢を射たが、矢はことごとく外れた。そこで光政が大蛇に向かい、「心あれば退け。以後は八幡宮の守護神として御祀りしよう。」と言うと、大蛇はたちどころに山中に姿を消したという。

 それ以降、八幡宮は歴代岡山藩主から篤く崇敬された。

 今の社殿は、明治39年に一度改修されたものを、昭和14年に更に改修したものである。

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拝殿

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本殿

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 本殿は唯一神明造りである。
 御祭神は、応神天皇神功皇后玉依姫命である。

 龍之口八幡宮は、近代に入ってから一般民衆も多く参拝に訪れるようになり、今では受験や勝負の神様として崇敬されている。

 本殿の裏側に、石鎚神社という名の小さな祠があった。

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石鎚神社

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 背後から見ると、石が祀られているのが分かる。石に何かが彫られているのだろう。どんな神様が祀られているのか、拝観したいと思った。

 この石鎚神社のある場所からの眺めが良かった。

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龍之口八幡宮からの眺望

 写真右奥の最も高い山が金山で、画面左側の山が笠井山だ。

 岡山の城下町に北から攻め込むには、必ずこの眼下の平地を進まなければならない。成程、ここは要衝の地である。

 歴代岡山藩主は、城の北東の守り神に敬意を表したと見える。