舞子公園の中に、国指定重要文化財となっている洋館・移情閣がある。
移情閣は、中国浙江省出身で、神戸で活躍した中国人実業家呉錦堂(1855~1926年)が建てた別荘「松海別荘」が前身である。
明治18年に来日した呉錦堂は、行商をしながら蓄財し、関西財界で重きをなすようになった。
また、神戸に華僑のための学校、中華同文を設立した。
松海別荘は、明治20年代後半に建てられたが、大正4年春に、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が増築された。
今ではこの洋館全体が移情閣と呼ばれている。
移情閣は、木造軸組に、外装材として無筋中空のコンクリートブロックを緊結して積み上げたものである。コンクリートブロックを使って建てられた日本の建物としては最初期のもので、貴重な建造物である。
移情閣は、現在孫文記念館として公開されている。
孫文は、大正2年3月14日に神戸にやって来た。その際、松海別荘が孫文歓迎の昼食会の会場となった。そのゆかりから、兵庫県に管理権が移っていた移情閣は、昭和59年に孫中山記念館として一般公開されるようになった。平成17年には孫文記念館に改称した。
そのため、建物内には、孫文の事績を紹介したパネルや遺物を展示している。
孫文(号中山)は、辛亥革命の理論的基礎となった三民主義(民権、民族、民生)を唱えた、中国の革命家・政治家である。
秦の始皇帝の時代から、2000年以上皇帝が統治してきた中国の政治体制を根本から変革させた立役者だ。
1866年に広東省香山県翠亨村で生まれた孫文は、既に華僑として成功した兄を頼ってハワイに行き、高等学校を卒業し、その後香港で医学を学んだ。
海外で学んで祖国が立ち遅れていることを知った孫文は、1894年にハワイで清朝打倒のための秘密結社興中会を起こした。
翌年に広州での武装蜂起に失敗した孫文は、海外に亡命し、以後日本を足場として活動した。
1905年に孫文は日本で清国留学生を集めて「中国同盟会」を結成する。同盟会は何度も中国南部で武装蜂起を行い、1911年10月の武昌蜂起の成功により、ついに清朝を打倒する。辛亥革命である。
武装蜂起成功時、国外にいた孫文は、中国に帰国した。1912年1月1日、アジア最初の共和国、中華民国が成立し、南京に臨時政府が置かれ、孫文は臨時大統領に就任した。
孫文は、北京に残る清朝の勢力との本格的内戦を避けるため、清朝の内閣総理大臣で実力者だった袁世凱に、大統領職を譲った。その条件は、清朝皇帝が退位し、北京側が共和制を受け入れるというものであった。
孫文は1913年、中国全土に鉄道建設する準備のため来日した。松海別荘を訪れたのも、その際である。
だが孫文が来日中、袁世凱が、総選挙で開設される国会で首相に選出される予定だった宋教仁を暗殺し、議会を解散し、軍事独裁政権を樹立する。
孫文は中国に戻り、袁世凱を打倒するための第二革命を起こすが失敗し、再度日本に亡命した。
1914年、孫文は日本で中華革命党を結成した。
1916年に袁世凱が死去した後は、中国全土で軍閥が割拠し、統一的な共和国政府は出来なかった。
孫文は1919年に、中華革命党を中国国民党に改組し、1921年には広東省に広東軍政府を樹立する。
その後、孫文は、国民革命の達成のため、国民党の組織をソ連共産党に倣って改変し、中国共産党と「国共合作」に踏み切り、革命成功のためソ連に援助を仰いだ。
1925年、孫文は道半ばで肝臓がんのため死去した。「革命未だ成らず」という言葉を残した。
孫文の死後、国民党を継いだ蒋介石は、1926年、北伐を開始し、各地の軍閥を打倒して国民革命を成功させ、中国全土を制圧した。
蒋介石はその後、共産党と手を切り、弾圧することとなる(第一次国共内戦)。
昭和12年(1937年)7月の支那事変以降、満州から中国本土に進出してきた日本軍に共同して対処するため、国民党と共産党は再度手を握る(第二次国共合作)。
昭和20年(1945年)の日本軍撤退後、国民党と共産党は再度争い(第二次国共内戦)、最終的に共産党が勝利し、1949年に中華人民共和国が成立する。
共産党との争いに敗れた国民党は台湾に逃れ、台湾に中華民国の政府を移した。
今の中国共産党は、孫文を革命の先駆者と呼んで、自らを孫文の革命の後継者になぞらえている。
孫文は「革命未だ成らず」との言葉を残して亡くなったが、孫文がもし今の中華人民共和国と台湾を見たとしたら、どちらが自らの革命の理想像に近いと感じることだろう。興味深いところである。