旧大國家住宅 大題目岩

 岡山県和気郡和気町尺所に、国指定重要文化財の旧大國家住宅がある。隣は閑谷学校の伝統を継ぐ岡山県立和気閑谷高等学校である。

 旧大國家住宅は、現在老朽化が進んでいることから、大規模改修工事中であった。

f:id:sogensyooku:20191024204113j:plain

旧大國家住宅

 大國家は、幕末までは大森姓を称していた。大森家は、戦国時代は、備中辛川城主で、宇喜多氏に属したが、後に一族共に当地に移住し、百姓となった。

 延享五年(1747年)に、大森満體(みつとも)が分家して酒造業と運送業で成功し、大地主となった。

 宝暦十年(1760年)に、満體は、現存の主屋部分を建てた。今では、主屋、土塀、蔵座敷、中蔵、乾蔵、酉蔵、井戸場、宅地が重要文化財となっている。

f:id:sogensyooku:20191024204817j:plain

主屋

 主屋は2階建てで、特に茅葺屋根の入母屋造りが2棟並行している2階の構造が変わっている。その上に本瓦葺の切妻造りの繋ぎ屋根が載る比翼入母屋造りである。

 写真のように、もうボロボロの状態であり、工事を終えて早く元の状態に戻ってもらいたい。

 和気町歴史民俗資料館には、旧大國家住宅の模型が展示してあった。

f:id:sogensyooku:20191024205618j:plain

旧大國家住宅模型

 事業の成功で財をなした大國家は、1840年代ころから、財政難の岡山藩池田家に多額の献金や貸付を行い、弘化年間には名字帯刀が許された。池田家から家紋付きの武具や衣類が与えられ、現在も大國家には藩主からの下賜品や書などが残っているという。

 また、大國家には、閑谷学校の教授や文人、画人などが立ち寄った。

 和気町歴史民俗資料館には、大國家が所蔵する、文化十一年(1814年)の頼山陽の書状を貼った屏風が展示してあった。

f:id:sogensyooku:20191024210531j:plain

頼山陽の書状

 

f:id:sogensyooku:20191024210632j:plain

 この書状は、頼山陽が大國家に宛てた書状ではない。どういう由来で大國家がこの書状を所有することになったかは分からない。しかし、頼山陽閑谷学校を訪れたことがあり、頼山陽と親交のある文化人も大國家を訪れたことから、いつしかこの書簡が大國家の手に渡ることになったのではないか。

 頼山陽は、文化八年以降は頼徳太郎と称していた。この書簡には、頼徳太郎の署名が見える。

 現代人には、頼山陽はあまり馴染みのない名だが、大正時代ころまでは、著名な人物だった。大正時代までは、幼いころから漢文を学び、漢詩を作ることを嗜む者が多かった。頼山陽は江戸時代屈指の漢詩人であり、漢文での著作が多い。漢文がまだ浸透していた大正期までは、頼山陽は名文家として有名であった。

 頼山陽が書いた「日本外史」は、源平合戦から徳川時代までの武家の栄枯盛衰を血沸き肉躍る漢文で書いた歴史読み物で、幕末の志士たちに広く読まれ、ベストセラーとなった。有名な「敵は本能寺にあり」も、「日本外史」の中で頼山陽明智光秀に言わせた台詞である。

 幕末の日本人の史観を培った頼山陽は、昭和・平成で言えば司馬遼太郎のような存在だったのではないか。

f:id:sogensyooku:20191024212028j:plain

 岡山藩の文化の結節点となった大國家住宅のありし日の姿を早く見たいと思う。
 JR和気駅から北に上がり、富士見橋を渡ると、目の前に見えるのが和気富士と呼ばれる城山である。

 その城山の南面に岩が露出していて、そこに題目である「南無妙法蓮華経」が彫られている。

f:id:sogensyooku:20191024212805j:plain

大題目岩

 この大題目岩は、和気町にある顕本法華宗の寺院、本成寺が管理するものである。

 題目とは、元々は鳩摩羅什サンスクリット語法華経を漢文に訳した「妙法蓮華経」の五文字を指していた。その妙法蓮華経に、帰依するという意味の南無をつけた「南無妙法蓮華経」が、今一般に題目と言われている。法華経を信仰する日蓮宗法華宗は、この題目自体を仏像のように大事に祀る。

 私は、かつて岩波文庫の「法華経」を読んだことがある。岩波文庫の「法華経」は、鳩摩羅什の漢文訳の原文と、その読み下し文、サンスクリット語からの現代語訳が載っている。読んでみると、巧みな比喩とおとぎ話のような説話が連続し、お経というより文学作品のようである。文字を読むだけで、目の前を鮮やかなコンピューターグラフィックで描かれた七色の仏たちが飛び交うような気がしてくる。不思議なテキストである。お経の形をした叙事詩とでも言うべきか。

 鳩摩羅什の漢文訳も名訳と言われている。「コーラン」もアラビア語としては奇跡的な美しさを持つ名文らしいが、「優れた文学作品」である「妙法蓮華経」も、読む者に信仰心を抱かせるのだろう。

f:id:sogensyooku:20191024220233j:plain

 この大題目岩は、大正3年に、大阪在住の熱烈な法華信者、田中佐平治の発願で、本成寺住職原田日勇上人の揮毫により彫られたものである。

 平成28年に和気町指定文化財となり、平成29年に修復された。高さ17.42メートル、幅4.91メートル、題目岩としては、日本最大であるらしい。

 この巨大な大題目岩を見上げると、信仰の力というものが、非常に強固なものであると実感する。

安養寺 由加神社

 岡山県和気郡和気町泉にある照光山安養寺は、天台宗の寺院である。

 開基は、天平勝宝元年(749年)で、報恩大師が創建した備前四十八寺の一つである。天平勝宝元年は、和気清麻呂が16歳の年である。清麻呂がまだ奈良に出ていなければ、安養寺の創建を目にしたことだろう。

f:id:sogensyooku:20191022193238j:plain

安養寺

 安養寺は、康保年間(964~968年)に雷火により焼失したが、書写山圓教寺性空上人の弟子、信源上人が再建し、比叡山から薬師如来阿弥陀如来を勧請した。

 一時は山内50坊を数えるほど栄えたが、応仁年間(1467~1469年)以降、たびたびの戦火で常行堂など僅かな堂宇を残して焼失した。

f:id:sogensyooku:20191022193717j:plain

鐘楼

 現在の本堂は、木肌が眩いほど新しく、ここ最近に再建されたものと思われる。

f:id:sogensyooku:20191022193841j:plain

本堂と本坊

f:id:sogensyooku:20191022193930j:plain

本堂

 このお寺には、貴重な文化財が数多く伝わっている。

 鎌倉時代の木造阿弥陀如来坐像、木造毘沙門天立像は、共に岡山県指定重要文化財で、かつては阿弥陀堂に安置されていた。今は岡山県立博物館に寄託されている。

 本堂に祀られるご本尊の木造阿弥陀如来坐像は、平安時代末期の作で、県指定重要文化財である。

f:id:sogensyooku:20191022195401p:plain

木造阿弥陀如来坐像(和気町ホームページより)

 本堂には、他にも県指定重要文化財不動明王立像や、和気町指定重要文化財の釈迦如来立像がある。

 その他にも、国指定重要文化財の、建武五年(1338年)三月の銘のある銅五鈷鈴、県指定重要文化財の木造鬼面2面、安養寺文書54点がある。

 残念ながらどれも拝観出来なかった。しかし、古い仏像が、度重なる火災でよく焼けなかったものだ。

f:id:sogensyooku:20191022200037j:plain

本坊

 本坊は、永正八年(1511年)に常行堂を本堂に転用したもので、江戸時代に大改修された。

 今の本堂が再建されてから、本堂の役割を終えて、今は本坊として使われている。

f:id:sogensyooku:20191022200541j:plain

庭園から見た本坊

 庭園を眺めたが、石の配置が面白い庭園だった。

f:id:sogensyooku:20191022200725j:plain

庭園

 仏教寺院に限らず、日本庭園というものは、石に風情を感じなければ面白いと思えないのではないか。私も年を取ってきたのか、こういう庭園の石と植物の配置を見て、言葉にはならないが、何となくいいなあと感じるようになってきた。

 さて、安養寺のすぐ西側にあるのが由加神社である。

f:id:sogensyooku:20191022201127j:plain

由加神社

 由加神社の由来はよく分かっていない。現存する最古の棟札には、天永三年(1112年)に、和気氏が新田郷の総鎮守として西久保方の上山上に八幡宮を創建したことが記されているという。

f:id:sogensyooku:20191022201625j:plain

神門

 この神社を厚く崇敬したのは赤松氏である。赤松則祐は、足利尊氏に従って九州で戦った際、宇佐八幡宮に参拝して戦勝祈願を行ったところ軍利を得たので、建武四年(1337年)に当神社を新しく造営し、現在地に移転させたという。

 由加神社は、御宝物として、赤松則祐赤松政則が奉納した鎧を所蔵するらしい。備前が赤松氏の勢力圏であったことを実感する。

f:id:sogensyooku:20191022202154j:plain

 八幡宮は、明治五年に郷社となり、由加神社と改称した。それまでは、八幡大神を祀る神社だったのだろう。

 今の由加神社の御祭神は、由加大神、八幡大神、素佐嗚大神である。

 由加大神は、倉敷市の由加神社本宮に祀られる神様である。由加神社本宮は、元々は真言宗由加山蓮台寺の一部だったが、明治の神仏分離令蓮台寺から分かれて神社となった。

 神仏習合の寺社であった由加山蓮台寺のご本尊は、瑜伽大権現である。権現とは、仏様が人間を救うための方便として、権(かり)に神様になって現われた姿とされる。

 真言密教では、宇宙の全ては大日如来の顕現であると説く。胎蔵曼荼羅で、中心の大日如来の周囲に描かれる薬師如来阿弥陀如来、釈迦如来などの如来たちも、大日如来が姿を変えたものとされる。その仏を守護する不動明王毘沙門天も、大日如来が変化した姿である。

 真言密教の思想から派生した神仏習合の考えでは、その薬師如来阿弥陀如来などの仏様が、更に庶民を救うために、仮に日本人に分かり易い神様の姿になったのが日本の神々であるとされる。神様の元の仏様を本地仏という。例えば天照大神本地仏大日如来とされる。

f:id:sogensyooku:20191022202712j:plain

拝殿


 瑜伽大権現本地仏は、阿弥陀如来薬師如来である。この2仏が、人々を救うために仮に瑜伽大権現という姿になったとされる。

 瑜伽(ゆが)は、元々はサンスクリット語のヨーガから来ている言葉である。インド由来の神様であると分かる。

 明治の神仏分離令で、蓮台寺から由加神社本宮が分かれた時に、由加神社は瑜伽大権現ではなく由加大神を祀った。その由加大神が、和気の由加神社にも祀られている。

f:id:sogensyooku:20191022204436j:plain

拝殿の鳳凰の彫刻

 なぜここに由加大神が祀られることになったのかは分からない。

 由加神社の本殿と拝殿は、赤松則祐が建設した当時の建物ではないだろう。江戸時代の建物と思われる。

f:id:sogensyooku:20191022205146j:plain

本殿

 日本の歴史上、神と仏が分離されたのは明治以降で、それまでは千年近く神仏は習合して祀られていた。今の八幡大神は、かつては八幡大菩薩であった。

 我々はつい神仏が分離された明治以降の状態を日本の伝統と思いがちだが、実は神仏習合の姿が本来の日本の伝統なのかも知れない。

 明治以降禁止された神仏習合の視点から見ると、今まで見えなかった日本の姿が滾々と湧き出てくるかも知れない。

和気清麻呂 後編

 和気神社の随神門を潜り、拝殿に対面する。

f:id:sogensyooku:20191021190432j:plain

随神門

 和気神社(旧猿目神社)が現在地に移転したのは、天正十九年(1591年)のことであるらしい。それまでは、神社はここから数町下手に鎮座していた。

f:id:sogensyooku:20191021190852j:plain

拝殿

 拝殿は、瓦葺入母屋造りの清楚な印象を与える建物である。「狛いのしし」が社を守るように居座っている。

 拝殿の向拝と木鼻の龍の彫刻は、目をカッと見開いて迫力がある。

f:id:sogensyooku:20191021191257j:plain

f:id:sogensyooku:20191021191108j:plain

拝殿の龍の彫刻

f:id:sogensyooku:20191021191149j:plain

 和気神社本殿は、和気町指定重要文化財である。

 本殿は、明治18年(1885年)に造営された。門弟60余人を擁し、関西随一と言われた名人・大棟梁、田淵勝義が手掛けたとされる。

 田淵が手掛けた寺社建築は、近畿から備後地方まで、85棟に及ぶという。

f:id:sogensyooku:20191021191657j:plain

本殿

f:id:sogensyooku:20191021191805j:plain

本殿の彫刻

 屋根の形状は、唐破風と千鳥破風が組み合わされ、大げさだが、姫路城大天守の屋根を彷彿とさせる。

f:id:sogensyooku:20191021192048j:plain

手挟の彫刻

f:id:sogensyooku:20191021192143j:plain

本殿背面の彫刻

f:id:sogensyooku:20191021192328j:plain

脇障子の彫刻

 この建築で最も特徴的なのは、建物からにょきにょき生えているように見える尾垂木である。

f:id:sogensyooku:20191021192615j:plain

尾垂木の目立つ本殿

 小ぶりな本殿ながら、なかなか雄勁なデザインである。元々近衛将監という武人だった清麻呂公を祀るのに相応しい本殿である。

 和気神社境内には、和気町歴史民俗資料館がある。

f:id:sogensyooku:20191021192924j:plain

和気町歴史民俗資料館

 入館料は200円である。私が参拝した日は、なかなか参拝客が多かったが、歴史民俗資料館に入ると人影はまばらだった。

 中には、和気町の遺跡や考古資料に関する展示もあるが、大半は和気清麻呂に関する展示だった。

f:id:sogensyooku:20191021193156j:plain

十円札

 明治23年から昭和21年まで使われた10円札には、和気清麻呂が印刷され、初代は紙幣の周りに猪がデザインされ、2代目は裏面に猪が印刷された。十円札は、当時「イノシシ」と称されたという。

 また、戦前の尋常小学校国史の教科書には、和気清麻呂のことが載せられていた。

f:id:sogensyooku:20191021193613j:plain

尋常小学国史教科書

 かつては、和気清麻呂は、誰もが学校で教わる偉人だった。

 館内には、人間国宝の伊勢崎陽山が制作した備前焼の「狛イノシシ」や、和気広虫の像があった。

f:id:sogensyooku:20191021193803j:plain

備前焼の狛イノシシ

f:id:sogensyooku:20191021193942j:plain

和気広虫

 伊勢崎陽山の作品は、滑らかで美しい。和気広虫の像など、僧衣の襞の表現が卓越していると感じる。

 和気神社の社頭には、大きな清麻呂公の銅像が建っているが、その像の元となった石膏像が歴史民俗資料館で保存されている。

f:id:sogensyooku:20191021194435j:plain

和気清麻呂公の石膏像

 この像は、大正、昭和の彫塑界の重鎮、朝倉文夫が、昭和15年紀元2600年奉祝展覧会に出品した石膏像である。

 像は展覧会が終わった後、橿原神宮に献納され、大和国史館で展示されていた。

 戦後は、奈良県橿原考古学研究所附属博物館に所蔵されていたが、昭和58年、和気清麻呂生誕1250年を記念して、奈良県から和気町に贈与された。

 外の銅像は、昭和59年に、この石膏像を元にして作られたものである。

 前を厳しい目で見据える清麻呂公の姿は、「宇佐八幡神託事件で、決意を内面に秘めた清麻呂」を表現しているという。

 和気神社から少し南西に行ったところに、和気氏政庁之跡の石碑と和気清麻呂公顕彰碑がある。

f:id:sogensyooku:20191021195842j:plain

和気氏政庁之跡碑

f:id:sogensyooku:20191021200004j:plain

和気清麻呂公顕彰碑

 この顕彰碑は、昭和15年紀元2600年奉祝ムードの中で建立された。

 和気郡郡衙(ぐんが、郡の政庁)の遺跡は見つかっていないが、ここは古来から地名を大政(だいまん)と言い、大政所に因む地名であると見なされている。

 周辺には、古代山陽道の駅家があったと思われる尺所(しゃくそ)という地名があったり、郡田の存在を示す地名があるため、顕彰碑の建つ地がかつての郡衙の跡地に比定された。

f:id:sogensyooku:20191021200546j:plain

和気氏政庁のあった辺り

 さて、顕彰碑の南約300メートルにある日蓮宗の寺院、福昌山実成寺は、和気氏の氏寺であった藤野寺の廃寺跡に建つと言われている。

f:id:sogensyooku:20191021201109j:plain

和気町指定文化財藤野寺跡の碑

 藤野寺は、奈良時代に建立された和気氏の氏寺であるが、実成寺の境内からは、奈良時代の軒丸瓦片が出土することから、ここが藤野寺跡と認定されている。

f:id:sogensyooku:20191021201443j:plain

福昌山実成寺

 実成寺の境内には、清麻呂公之塚や、和気氏経塚があり、和気氏と所縁のある地であることを示している。

f:id:sogensyooku:20191021201722j:plain

清麻呂公之塚

f:id:sogensyooku:20191021201821j:plain

和気氏経塚

 それにしても、和気清麻呂和気氏の史跡を訪れて感じるのは、和気氏の遺跡が地元住民たちによって大事に伝えられてきたことである。

 おそらく和気郡の郡司を務めた歴代和気氏の棟梁は、善政を敷いたのであろう。

 私が訪れた時、和気町藤野の地には、黄金色の稲穂が波打っていた。夕日が照らす稲穂の上に、一瞬飛鳥時代奈良時代郡衙の姿が目に浮かんだ。

和気清麻呂 前編

 岡山県和気郡和気町は、奈良時代の功臣・和気清麻呂公ゆかりの町である。

 和気清麻呂は、皇統護持に尽くした功臣として、戦前は日本人の誰もが知っている人物だった。

 この清麻呂公と姉の和気広虫を祀る神社が、和気町藤野にある和気神社である。

f:id:sogensyooku:20191020202630j:plain

和気神社

 第11代垂仁天皇の皇子に、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)がいた。その曽孫・弟彦王(おとひこおう)は、神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功績で、藤原県(後の藤野郡、今の和気郡)を与えられた。

 弟彦王を祖先とする和気氏は、藤野郡の郡司となった。弟彦王の12代後裔が、和気清麻呂広虫姉弟である。

f:id:sogensyooku:20191020203259j:plain

和気清麻呂銅像

 和気神社は、元々猿目神社と称しており、鐸石別命を和気神として祀っていたが、明治42年に弟彦王、清麻呂広虫を祭神に加え、大正3年に社号を和気神社に改めた。

 和気清麻呂は、天平五年(733年)に備前国藤野郡(現和気町)に生まれ、奈良の都に出て武官として出仕し、近衛将監となった。

 和気広虫は、天平二年(730年)に藤野郡に生まれ、孝謙上皇に仕え、勅を伝宣する女官を務めた。

f:id:sogensyooku:20191020212718j:plain

和気広虫

 広虫は、天平宝字八年(764年)、恵美押勝の乱の逆徒の助命を朝廷に嘆願し、死罪を流罪に改め、乱後の孤児83名を養子として育てた。我が国初の孤児院の開設であるという。

 史書日本後紀」にも、広虫の慈悲深く、清純で心が広い人柄が書かれている。 

 和気清麻呂の名が歴史に残ることとなったのは、何といっても弓削道鏡(ゆげのどうきょう)事件である。 

 時の女帝・第48代称徳天皇に寵愛されていた僧侶・道鏡は、天皇から太政大臣禅師、法王という地位を与えられていた。

f:id:sogensyooku:20191020204458j:plain

和気神社鳥居

 日本最古の仏教説話集「日本霊異記」には、こう書いている。

帝姫阿倍の天皇称徳天皇)の御世の、天平神護の元年の歳の乙巳(きのとのみ)に次 (やど)れる年(765年)の始に、弓削の氏の僧道鏡法師、皇后(称徳天皇)と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政を相摂(と)りて、天の下を治む。

  道鏡は、称徳天皇が病気をした際に看病をしたことがきっかけで天皇の寵を受けるようになった。「日本霊異記」は、なかなかユーモラスな説話集で、遠慮なくあけすけに物事を書いているが、引用した文のとおり、道鏡天皇と男女の仲となって、政治の実権を任されるまでになったようだ。

 神護景雲三年(769年)、大宰府の神主、習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡神から、「道鏡をして皇位に即かしめば天下泰平ならん」という神託を得たと朝廷に奏上した。

 恐らく権勢を得た道鏡が、皇位を簒奪しようと企んで偽の神託を称徳天皇に奏上させたのだろう。

 驚いた称徳天皇は、神託の真偽を確かめるため、和気清麻呂宇佐八幡宮に派遣した。

 道鏡は、和気清麻呂を道中で暗殺するために刺客を放った。刺客が宇佐八幡宮に急ぐ清麻呂に近づいたとき、何処からか、300頭の猪が現れ、清麻呂の周囲を囲み、清麻呂宇佐八幡宮まで守護したという。 

 和気神社では、清麻呂を守った猪を狛犬ならぬ「狛いのしし」として鎮座せしめている。

f:id:sogensyooku:20191020211040j:plain

狛いのしし

 宇佐八幡宮に辿り着いた清麻呂は、八幡神から神託を授かる。それが、「続日本紀」にある「我が国家は開闢より以来、君臣定まれり。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣(あまつひつぎ、皇位のこと)は必ず皇緒(天皇の子孫)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃い除くべし」という神託である。

 天皇の家臣が皇位につくことはあってはならない、道鏡を追放せよ、という神託である。

f:id:sogensyooku:20191020211349j:plain

宇佐神教の碑

 都に帰った清麻呂は、天皇に神託を奏上するが、道鏡を追放せよという内容の神託に道鏡は激怒し、清麻呂大隅国に、広虫備後国に追放する。しかし道鏡皇位につくことはなかった。

 2年後、称徳天皇崩御して、光仁天皇皇位に即くと、道鏡は失脚し、下野国に左遷される。

 清麻呂広虫光仁天皇によって都に呼び戻され、元の官位に復する。

 その後清麻呂は、桓武天皇の信任を得て、長岡京の造営に携わり、摂津河内両国の治水事業に当たった。

 清麻呂の建言により、延暦十三年(794年)には都が平安京に移り、清麻呂は造営大夫となって平安京の造営に尽力した。

 こうして見ると、和気清麻呂は、万世一系の皇統を護持し、京都が千年以上に渡って日本の都になる基礎を作った人ということになる。

f:id:sogensyooku:20191020213906j:plain

和気神社境内の「さざれ石」

 和気神社の境内には、国歌「君が代」に出てくる「さざれ石」が置いてある。さざれ石は、石灰質角礫岩という学名で、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その際流れた粘着力の強い乳状液が大小の石を凝結して、自然に大きな巌になったもので、国歌の元となった「古今和歌集」の賀歌にも歌われている。

 皇統を守った和気清麻呂を祀る神社にいかにも相応しいものである。

 成立過程に色々議論のある「日本国憲法」であるが、第1章に天皇のことを記載していて、憲法第2条に、「皇位は、世襲のものであって、 国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とある。

 憲法が改正されない限り皇位世襲され、天皇は日本の象徴として君臨し続けることになる。

 和気清麻呂の功績がなければ、今の憲法第2条の条文も存在しなかったかも知れない。

 10月22日は、今上陛下の即位の礼がある。遠い令和の時代から、和気清麻呂公の遺徳を偲ぶのもいいのではないか。

大瀧山福生寺

 伊部の町から国道2号線を西に行き、JR香登駅手前を右折北上する。

 備前市大内にある真言宗の寺院、大瀧山福生寺(ふくしょうじ)を訪れる。

 福生寺は、寺伝によれば、天平勝宝六年(754年)、唐から渡来した鑑真和上によって創建され、奈良時代備前の高僧・報恩大師により備前四十八寺の一つとして整備された。

f:id:sogensyooku:20191018202922j:plain

福生

 後に真言宗の寺院となったが、万寿元年(1024年)に火災により一山ほとんど焼失する。

 その後観応年間(1350年ころ)に、足利尊氏の発願により再興された。

 寺域の入り口にある仁王門は、応永四年(1398年)に、足利義満により建立されたものとされる。備前市重要文化財である。

f:id:sogensyooku:20191018203423j:plain

仁王門

 仁王門に掲げられた「大瀧山」の文字は、江戸時代の高松藩の書家、佐々木文山の書と伝わる。

f:id:sogensyooku:20191018203736j:plain

佐々木文山の書

 木目を生かした味のある扁額だ。また、仁王門内の仁王様も迫力ある姿である。

f:id:sogensyooku:20191018203930j:plain

仁王像

 仁王門から本堂のある辺りまでは、自動車で行くことができる。

 本堂は、天和二年(1682年)に池田綱政が再建したものである。

f:id:sogensyooku:20191018204312j:plain

本堂

f:id:sogensyooku:20191018204350j:plain

f:id:sogensyooku:20191018204429j:plain

f:id:sogensyooku:20191018204504j:plain

f:id:sogensyooku:20191018204540j:plain

f:id:sogensyooku:20191018204616j:plain

 本堂には、ご本尊として、十一面観世音菩薩像をお祀りする。内陣内の拝観は出来なかった。

 本堂は、備前市重要文化財である。方五間のどっしりした建物だ。

 本堂の向かって右隣に建つ大師堂は、弘法大師をお祀りしている。

f:id:sogensyooku:20191018204950j:plain

大師堂

f:id:sogensyooku:20191018205029j:plain

 向拝の上の、通常なら蟇股の彫刻のある場所に、謎の人物の像が置かれている。

f:id:sogensyooku:20191018205145j:plain

謎の人物像

 大師堂は、本堂と同じ年に建てられた。

 経堂には、内部に八角形の書庫があり、その中に一切経(仏教聖典を集成したもの)を収蔵している。

f:id:sogensyooku:20191018205556j:plain

経堂

f:id:sogensyooku:20191018205640j:plain

経堂内部の像と書庫

 経堂内部の書庫の前には、彩色鮮やかな比較的新しい木像がある。

 6世紀の中国・梁の僧侶、傳大士と、俗に笑仏と呼んでいる二人の子、普成、普建の親子三人像であろう。

 傳大士は、一切経を収める回転式の書庫、転輪蔵を発明した人で、転輪蔵を一回転させると、一切経を全て読んだのと同じ功徳があると説いた。

 経堂の守護者として、傳大士を祀る寺院は多い。

 さて、福生寺の象徴とも言えるのが、山中に聳える三重塔である。国指定重要文化財である。

f:id:sogensyooku:20191018210049j:plain

三重塔

f:id:sogensyooku:20191018210136j:plain

 この三重塔は、室町幕府6代将軍足利義教が、嘉吉元年(1441年)に願主となり、建立したものだと伝えられている。

 高さ19.72メートル、和様の斗栱を三手先に組み、尾垂木を出し、各階軒下の四隅に銅製の風鐸を下げている。

f:id:sogensyooku:20191018211229j:plain

 私が史跡巡りを始めて今まで拝観した三重塔は、兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺、岡山県備前市の真光寺とこの福生寺の三つである。

 備前市は、2棟の国指定重要文化財の三重塔を擁することになる。日本にはどれだけの三重塔があるのだろう。これから数えていこうか。

 三重塔のご本尊は大日如来で、この塔身そのものが大日如来の御姿を表わしているという。

 寺域には、実相院、西法院、福寿院という三つの塔頭がある。

 一番奥の西法院の奥に、寺号の由来となった大瀧がある。訪れた日は水量が少なく、滝の岩肌ばかりが目立った。

f:id:sogensyooku:20191018211808j:plain

大瀧

 この福生寺の北側には、熊山遺跡で有名な熊山があり、福生寺の寺域から自動車道が熊山遺跡まで続いているらしい。

 熊山遺跡は以前から訪れたかった謎の遺跡だが、後日に回して、和気町に行くことにした。

 備前屈指の霊山と言われる熊山の近くの福生寺は、言葉には言い表しがたいが、独特の空気感のある寺であった。

 パワースポットというものを私は感じることは出来ないが、古い寺院というものは、訪れると不思議と心落ち着くものである。

備前陶器窯跡

 備前焼ミュージアムの4階の窓から、伊部駅の南の方を見渡すと、山の山麓に草木が全く生えていない一角があり、その上に陶片と思しきものが大量に放置されている場所があった。

 私は最初それを見て、失敗した陶器の捨て場なのかと思った。この見方は、半分当たっていた。

 私は、伊部駅から南に歩き、国指定史跡となっている備前陶器窯跡の一つ、伊部南大窯跡を目指した。

 すると、先ほど陶器くずの捨て場と思った場所が、丸ごと伊部南大窯跡であった。

f:id:sogensyooku:20191017204912j:plain

伊部南大窯跡の遠景

 近寄ると、大量の備前焼の陶片が捨てられていた。

f:id:sogensyooku:20191017205159j:plain

捨てられた備前焼の陶片

 ただしこれらの陶片は、現代に捨てられたものではなく、中世末期から江戸時代、明治時代にかけて捨てられたものである。これらの陶片も貴重な史跡の一部なので、持ち帰りを禁じる立て看板が立っていた。

 伊部南大窯跡には、室町時代末期に作られて、江戸時代を経て明治時代まで使われていた穴窯、登り窯の跡が7つある。

f:id:sogensyooku:20191017205702j:plain

窯跡の配置

 中でも最大の東側窯跡は、全長53.8メートル、最大幅5.2メートル、アーチ状の天井を支えるための土柱跡が30基以上確認された巨大な窯跡である。江戸時代初頭から幕末まで使われ、1回の焼成に薪56~60トンを使用し、徳利、擂鉢、小型甕、小皿などの製品を、34~5日かけて、一度に約35,000個焼いたらしい。

f:id:sogensyooku:20191017210226j:plain

各時代の窯想像復元図

 図の真ん中の、斜面に溝を掘って、その上にアーチ状の天井を作り、天井を土柱で支えたものが穴窯である。東側窯跡は、図の穴窯に似ていたであろう。図右側の窯を各室で分けているのが登り窯である。各室に分けた方が、温度を均質に保てるらしい。

 窯の上部には煙出しという穴が開いている。炎と熱が上昇する原理を生かして、窯の下部の焚口で薪を焚けば、炎と熱は窯の上部に向かって上昇し、窯の内部全体が高温に晒されることになる。こうして粘土で出来た陶器は焼き締められる。

f:id:sogensyooku:20191017211022j:plain

東側窯跡の下部

 東側窯跡を歩いたが、何しろ長大である。

f:id:sogensyooku:20191017211204j:plain

東側窯跡

 途中には、窯の天井を支えたと思われる土柱の跡が何基もあった。

f:id:sogensyooku:20191017211439j:plain

土柱の跡

 東側窯跡の最上部を横から見ると、窯の天井の土台が盛り上がっていて、かつての窯の形を偲ぶことが出来る。

f:id:sogensyooku:20191017211711j:plain

東側窯跡の側面

 備前焼を一度に大量生産して、コストを下げるために、このように巨大な窯を作ったのであろう。
 それにしても、伊部南大窯跡の、草木が生えていない荒涼とした風景は独特で、火星の表面もかくやと思われる。

f:id:sogensyooku:20191017212002j:plain

 なぜ草木が生えていないのかはよく分からない。しかし、こういう独特の風景全体が史跡であるというのが面白い。何故かはわからないが、備前焼に関係なくこの場所を気に入ってしまった。
 国指定史跡備前陶器窯跡は、伊部南大窯跡の他に、伊部北大窯跡、伊部西大窯跡で構成されている。
 伊部北大窯跡は、伊部の町の北端にある忌部神社の境内にあるが、そこに至る手前に天保窯跡がある。

f:id:sogensyooku:20191017212633j:plain

赤松の薪

 天保窯まで歩いていく途中、多くの窯元さんの作業場の前を通ったが、赤松の薪が作業場の前に置いていた。
 備前地域の山は、流紋岩質で、花崗岩質の山よりも樹木が再生しやすいそうだ。薪を伐採しても、樹木の回復が早いのだろう。陶芸に向いている土地である。

 備前市指定文化財天保窯は、屋根で覆われて保存されている。

f:id:sogensyooku:20191017213202j:plain

天保窯の覆い屋

 天保窯は登り窯で、天保三年(1832年)ころから昭和15年ごろまで使われていたそうだ。

f:id:sogensyooku:20191017213632j:plain

天保窯の下部

 この登り窯は、伊部南大窯のような長大な穴窯よりも燃焼効率が良く、約1/4の日数で焼き上げることが出来たという。

f:id:sogensyooku:20191017213840j:plain

 備前焼の古窯で原型を留めているのは、この天保窯だけであるそうだ。アーチ状の燃焼室が、何だか古代ローマの古蹟のようで素敵である。

 忌部神社にある伊部北大窯跡は、中世から近世にかけての大窯の跡である。

f:id:sogensyooku:20191017214351j:plain

伊部北大窯跡

 南大窯跡と異なり、窯跡に草が生えていて、窯跡の形が分かりにくい。

f:id:sogensyooku:20191017214548j:plain

伊部北大窯跡

 それでも斜面に溝を掘った穴窯の跡はそれとなく分かる。

 伊部西大窯跡は、医王山の東側斜面にある、16~17世紀の穴窯の跡である。

f:id:sogensyooku:20191017214849j:plain

伊部西大窯跡

f:id:sogensyooku:20191017214930j:plain

 全長37メートル、最大幅5メートルの穴窯跡が、斜面に残っている。

f:id:sogensyooku:20191017215034j:plain

伊部西大窯跡

 囲いがあったので窯跡には近寄れなかったが、伊部西大窯跡は、煙出し部分も明確に確認でき、良好な状態で残っているらしい。

 今回の史跡は、城郭や神社仏閣と異なり、生産設備の跡であったが、これはこれで面白かった。

 最近工場の見学ツアーなどもブームになっているそうだが、物を作る場所というものは、不思議と人の心を浮き立たせる。人間は道具を作って使う生き物であるとつくづく感じる。

伊部

 岡山県備前市の西の中心が、伊部(いんべ)である。JR伊部駅を中心にして、町が開けている。

 中世、近世に備前焼の積出港として栄えたのが、浦伊部という湊町である。浦伊部にある浄光山妙圀寺は、日蓮宗の寺院である。

f:id:sogensyooku:20191016192840j:plain

山門

 妙圀寺は、元々は天台宗の寺院で、永長元年(1096年)に創建されたという。

 貞治五年(1366年)、京都における日蓮宗大本山、本圀寺の第五世大円院日伝上人が、西国布教の折に当寺に立ち寄り、寺主の乗蓮と三昼夜に渡る法論をして、寺主を日蓮宗に転宗させたという。

 それ以来、妙圀寺は、本圀寺の中国地方における布教の拠点となった。最盛時は末寺、支寺が播磨、備前に広がっていたという。

f:id:sogensyooku:20191016194113j:plain

庭の池に咲く蓮の花

 しかし、天正年間に妙圀寺は戦火で堂宇の大半を失う。

 当寺の浦伊部の信徒・来住法悦が諸堂復興を企て、本圀寺第十六世究竟院日禛僧正を招請し、再興を果たした。
 その後も妙圀寺は、宇喜多直家小早川秀秋といった武将の外護を受け、江戸時代に入ると池田光政から寺領を寄せられた。

f:id:sogensyooku:20191016194954j:plain

本堂

 本堂には、国指定重要文化財の木像釈迦如来坐像が本尊として祀られている。像には延文三年(1358年)という銘が入っているらしい。ということは、妙圀寺がまだ天台宗の寺院だったころに作られた仏像である。

f:id:sogensyooku:20191016195337j:plain

木像釈迦如来坐像説明板

 この坐像は、慶派仏師の大仏師康俊が彫ったと言われている。

f:id:sogensyooku:20191016195736j:plain

龍のようにうねる回廊

 また、妙圀寺が保管する梵鐘は、岡山県指定文化財である。

f:id:sogensyooku:20191016200050j:plain

鐘楼

 今、鐘楼にかかる梵鐘は、文化財として保存されることになった梵鐘に代わって、平成7年に戦後50年を記念して鋳られたものである。

 さて、浦伊部から、JR伊部駅前に出る。駅のすぐ東にある備前市備前焼ミュージアムを訪れる。

f:id:sogensyooku:20191016200636j:plain

備前焼ミュージアム

 ここでは現在、「獅子十六面相」という企画展をしていた。

 備前周辺の神社などでは、狛犬として備前焼の獅子を据えているところが多い。そういった神社社頭の備前焼の獅子などを集めて展示していた。

 館内は写真撮影禁止だったが、唯一展示室の正面に展示していた文政四年(1821年)作の「恵美須宮獅子阿形」だけが、正面から限定で撮影可だった。

f:id:sogensyooku:20191016201604j:plain

恵美須宮獅子阿形

 この狛犬は、元々は備前市西片上にある恵美須宮の社頭にあったものだが、今は愛知県陶磁美術館に寄贈されているらしい。愛知県指定文化財である。

 備前焼狛犬は、鬣や尻尾が立派に造形されている。この狛犬も立派であった。側面からの写真を撮れなくて残念だ。

 展示を見て、備前焼の獅子の置物が欲しくなった。

 この美術館は4階建てで、1,2階が企画展スペース、3階に人間国宝の作品、4階に古備前を展示していた。

 4階の古備前コーナーに、時代的には須恵器と古備前の中間に位置する、奈良時代の窯変した須恵器の平瓶が展示してあった。須恵器が備前焼に発展したことを示す器だ。なかなか味わいのある器であった。

 JR伊部駅の駅ビルは、備前焼伝統産業会館になっている。

f:id:sogensyooku:20191016202416j:plain

備前焼伝統産業会館

 1階は観光案内所兼お土産物売り場、2階が備前焼の展示即売会場となっている。

f:id:sogensyooku:20191016202625j:plain

備前焼の売り場

 奥の方では、人間国宝の藤原啓や息子の藤原雄の作品も展示していた。

 伊部駅から北に歩くと、備前焼の窯元のお店が軒を連ねている。外国人観光客数名が買い物袋を提げて、楽しそうに店から出てきた。

f:id:sogensyooku:20191016202940j:plain

伊部駅前の町並み

 私には、陶器を買い集める趣味はないが、もし自由に使えるお金が有り余るほどあったら、こういう町並みを散策して、「これ」と思ったもの1~2点を選んで買うのが楽しいだろうと想像した。

 今、備前市備前商工会議所備前陶友会などは、若い女性が備前焼の陶工になることを目指す物語を描いた、「ハルカの陶」という漫画の実写映画を製作中である。

 映画をきっかけに、備前焼に興味を持つ人が増えたらいいのにと、知らず知らず伊部の町を応援する気分になっていた。