備前焼ミュージアムの4階の窓から、伊部駅の南の方を見渡すと、山の山麓に草木が全く生えていない一角があり、その上に陶片と思しきものが大量に放置されている場所があった。
私は最初それを見て、失敗した陶器の捨て場なのかと思った。この見方は、半分当たっていた。
私は、伊部駅から南に歩き、国指定史跡となっている備前陶器窯跡の一つ、伊部南大窯跡を目指した。
すると、先ほど陶器くずの捨て場と思った場所が、丸ごと伊部南大窯跡であった。
近寄ると、大量の備前焼の陶片が捨てられていた。
ただしこれらの陶片は、現代に捨てられたものではなく、中世末期から江戸時代、明治時代にかけて捨てられたものである。これらの陶片も貴重な史跡の一部なので、持ち帰りを禁じる立て看板が立っていた。
伊部南大窯跡には、室町時代末期に作られて、江戸時代を経て明治時代まで使われていた穴窯、登り窯の跡が7つある。
中でも最大の東側窯跡は、全長53.8メートル、最大幅5.2メートル、アーチ状の天井を支えるための土柱跡が30基以上確認された巨大な窯跡である。江戸時代初頭から幕末まで使われ、1回の焼成に薪56~60トンを使用し、徳利、擂鉢、小型甕、小皿などの製品を、34~5日かけて、一度に約35,000個焼いたらしい。
図の真ん中の、斜面に溝を掘って、その上にアーチ状の天井を作り、天井を土柱で支えたものが穴窯である。東側窯跡は、図の穴窯に似ていたであろう。図右側の窯を各室で分けているのが登り窯である。各室に分けた方が、温度を均質に保てるらしい。
窯の上部には煙出しという穴が開いている。炎と熱が上昇する原理を生かして、窯の下部の焚口で薪を焚けば、炎と熱は窯の上部に向かって上昇し、窯の内部全体が高温に晒されることになる。こうして粘土で出来た陶器は焼き締められる。
東側窯跡を歩いたが、何しろ長大である。
途中には、窯の天井を支えたと思われる土柱の跡が何基もあった。
東側窯跡の最上部を横から見ると、窯の天井の土台が盛り上がっていて、かつての窯の形を偲ぶことが出来る。
備前焼を一度に大量生産して、コストを下げるために、このように巨大な窯を作ったのであろう。
それにしても、伊部南大窯跡の、草木が生えていない荒涼とした風景は独特で、火星の表面もかくやと思われる。
なぜ草木が生えていないのかはよく分からない。しかし、こういう独特の風景全体が史跡であるというのが面白い。何故かはわからないが、備前焼に関係なくこの場所を気に入ってしまった。
国指定史跡備前陶器窯跡は、伊部南大窯跡の他に、伊部北大窯跡、伊部西大窯跡で構成されている。
伊部北大窯跡は、伊部の町の北端にある忌部神社の境内にあるが、そこに至る手前に天保窯跡がある。
天保窯まで歩いていく途中、多くの窯元さんの作業場の前を通ったが、赤松の薪が作業場の前に置いていた。
備前地域の山は、流紋岩質で、花崗岩質の山よりも樹木が再生しやすいそうだ。薪を伐採しても、樹木の回復が早いのだろう。陶芸に向いている土地である。
天保窯は登り窯で、天保三年(1832年)ころから昭和15年ごろまで使われていたそうだ。
この登り窯は、伊部南大窯のような長大な穴窯よりも燃焼効率が良く、約1/4の日数で焼き上げることが出来たという。
備前焼の古窯で原型を留めているのは、この天保窯だけであるそうだ。アーチ状の燃焼室が、何だか古代ローマの古蹟のようで素敵である。
忌部神社にある伊部北大窯跡は、中世から近世にかけての大窯の跡である。
南大窯跡と異なり、窯跡に草が生えていて、窯跡の形が分かりにくい。
それでも斜面に溝を掘った穴窯の跡はそれとなく分かる。
伊部西大窯跡は、医王山の東側斜面にある、16~17世紀の穴窯の跡である。
全長37メートル、最大幅5メートルの穴窯跡が、斜面に残っている。
囲いがあったので窯跡には近寄れなかったが、伊部西大窯跡は、煙出し部分も明確に確認でき、良好な状態で残っているらしい。
今回の史跡は、城郭や神社仏閣と異なり、生産設備の跡であったが、これはこれで面白かった。
最近工場の見学ツアーなどもブームになっているそうだが、物を作る場所というものは、不思議と人の心を浮き立たせる。人間は道具を作って使う生き物であるとつくづく感じる。