藤原啓記念館

 正宗文庫から海沿いの道に戻り、備前市街に向かって走ると、右手に藤原啓記念館を含むFAN美術館が見えてくる。

 FAN美術館は、平成28年6月に藤原啓記念館を拡大発展させて、リニューアルオープンしたものである。備前焼人間国宝、藤原啓の作品を展示する藤原啓記念館を中心に、伝統的な日本画の他、草間彌生の現代美術なども展示している。陶芸体験も出来る他、藤原啓の作った茶碗で、和菓子を食べながら抹茶を飲むことができる。

 FAN美術館全体の入場料は1800円だが、藤原啓記念館だけなら700円で入場できる。

 今回は藤原啓記念館のみを訪れた。

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藤原啓記念館

 藤原啓記念館は、手前に広々とした芝生の一角を控え、そこから片島湾を眺めることが出来る。風光明媚とはこのことである。

 藤原啓は、明治32年(1899年)に備前市穂浪に生まれ、少年時代には文学に傾倒し、19歳で上京して、小説や詩を発表したり、絵画を学んだりした。

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藤原啓銅像

 しかし、38歳の時に自己の文学の限界を知り、神経衰弱に陥り帰郷する。翌年、近隣に住む友人の正宗敦夫からの勧めで、備前陶芸を始め、以後金重陶陽や北大路魯山人の薫陶を受ける。

 40歳からという遅咲きながら、71歳となった昭和45年に備前焼重要無形文化財人間国宝)に指定された。

 藤原啓記念館は、昭和51年に開館した。1階には藤原啓の作品を展示し、地下1階には古備前などが展示してある。

 FAN美術館の総合受付で料金を払うと、「写真撮影はOKです。どんどん撮ってやって下さい」と言われた。太っ腹な美術館である。

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 私は、陶芸に関しては全くの素人だが、作者の腕だけではなくて、窯の中の自然現象の偶然によって「景色」が出来る陶器というものは面白いと思う。作者の意図通りにならないところが、作者自身も面白いのではないか。以前は美しい絵付けをしている伊万里などの磁器がいいと思っていたが、このごろは形がいびつな楽焼などの陶器が味があっていいと思い始めた。

 藤原啓は、備前焼の人だと思っていたが、唐津焼織部焼なども作っていた。

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藤原啓作の織部の茶碗

 実は私の妻が自宅で陶芸をやっていて、たまに自作の茶碗で抹茶を点ててくれる。正座をして抹茶を飲むと、不思議と気分が落ち着いてきて、外の鳥の鳴き声や風の音などもよく聞こえる気がする。いい茶碗で抹茶を飲むと、また格別な気分になるだろう。

 例えばウェッジウッドの器などは、とてもお洒落で美しいが、陶器の良さはまたそれとは別である。自然現象の介入を作品に取り込んでいるため、陶器からは「自然の深み」を感じる。

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藤原啓作土瓶

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藤原啓作「備前窯変花入」

 写真の備前窯変花入などは、薪の灰が窯の中で花入にかかり、花入の上で溶けてガラス化した灰釉によって、自然現象が織り成す「景色」が生じている。これなどは、作者の作為で出来たものではない。大げさな言い方だが、驚くような「景色」を見せる陶器からは、「宇宙の神秘」を感じる。

 地下の展示室に下りると、古備前が展示している。備前焼は、日本六古窯の一つで、平安時代末期から生産されている。

 源流は、現在の岡山県瀬戸内市邑久地方で古墳時代から作られていた須恵器である。備前焼は、高い温度で焼締めるので、固くて割れにくい。また、備前焼に入れた飲料は腐りにくく、味も良くなると言われている。備前焼のビアジョッキが人気があるのもそのためだ。

 割れにくく、飲料の味を良くする備前焼は、古来から庶民の日用品としての需要が高かった。

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自然釉大壺(15世紀)

 写真の大壺は、上部に自然釉がかかっている。自然釉と灰釉は同じで、窯の中で器にかかった灰が溶けてガラス化したものである。

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緋襷四耳壺(16~17世紀)

 また、陶器に藁を巻いて、サヤという陶器を焼くための容器に入れて焼くと、火や灰が直接かからない藁を巻いた部分が周囲より濃く変色する。これを緋襷という。

 それにしても、古備前の壺は、どうしてこうも存在感があるのだろう。

 陶芸で、それが素人の作かどうかを判別するポイントは、飲み口であるらしい。陶器は薄く作るのが最も難しいとされる。私も体験陶芸をやってみたことがあるが、茶碗の飲み口が分厚くなって、とてもではないが薄く作ることが出来なかった。

 地下に展示されていた茶碗、銘「都わすれ」は、飲み口が驚くほど均一に薄く作ってあった。

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茶碗 銘「都わすれ」一阿老人作(18世紀)

 備前焼では、茶碗や皿や壺などの器だけではなく、獅子などの置物も多く作られている。

 展示してあった藤原啓作の観音像は、品のあるお顔をした像であった。

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藤原啓作観音像

 藤原啓は、当初は文学を志し、挫折した後に陶芸の道に進み、人間国宝となった。それを思うと、挫折するというのも次のチャンスを掴むきっかけなのかも知れない。

 挫折しても人生を諦めないということが、次の何かにつながると、藤原啓が教えてくれた気がする。

正宗文庫

 備前市穂浪の町には、すぐそこまで海が迫っている。片島湾である。片島湾には、養殖用の牡蠣を垂下するための筏が多数浮かんでいる。

 そんな片島湾を見下ろす場所に建つのが、正宗文庫である。

 正宗文庫は、明治から昭和を生きた国文学者・正宗敦夫が集めた、主に日本古典に関する古書、稀覯書を収蔵する書庫である。

 正宗敦夫は、明治から昭和にかけて活躍した自然主義の小説家・正宗白鳥(本名忠夫)の弟である。

 敦夫は、東京に出た兄・白鳥と異なり、生涯穂浪の町に住みながら、国文学者・歌人として生きた。歌人としては、松岡五兄弟の一人、井上通泰に師事し、地元岡山のノートルダム清心女子大の教授となった。

 正宗敦夫の仕事で功績のあるものは、「万葉集」の歌の全ての用字を纏めた、「萬葉集總索引」である。

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正宗文庫

 正宗敦夫は、昭和11年に、自分が集めた古典籍を保存するための財団法人・正宗文庫を立ち上げ、自宅敷地内に書庫を作った。

 正宗文庫は、穂浪の住吉神社の西側の道を北に上がっていったところにある。車1台がようやく登れる細い道である。

 私が車を停めて、歩いて正宗文庫の方に行くと、文庫手前の木造の建物内がどうもにぎやかである。壮年の男性が丁度文庫の方からやってきた。その男性から「どうかされましたか」と質問されたので、「ここが正宗文庫ですか」と尋ねた。

 男性は、「そうです。普段は公開していないのですが、今日は丁度大学の方たちが研究に見えていまして。よければ中をご覧になりますか」と親切に言って下さった。

 私はご厚意に甘えて、入り口から中を覗かせてもらった。内部は書籍が堆く積まれた書庫である。男性は、「ただの書庫ですから」とおっしゃった。

 「岡山県の歴史散歩」に、正宗文庫に閑谷焼きが置いてあると書いてあったので、閑谷焼きについて質問すると、「2階にありますよ。破片があるだけですが」とのことだった。

 文庫内部は書棚が並び、手前に「万葉集」に関する古い書籍が積まれている。

 私は、書物のインクや紙の匂いのする薄暗い書庫が大好きだ。かつて江戸川乱歩の蔵書を収めている白壁の土蔵「幻影城」の写真を見た時に、こんな土蔵の中に1日中いたいと思ったものだ。

 大学生の時、大学図書館の書庫の中に1日いたことがある。古い書物や雑誌や新聞は、想像の翼を広げれば、無限に旅することが出来る宇宙のようなものである。文字通り、過去を生きることが出来る。

 私はしばし恍惚としたが、文庫の入り口から中を覗いただけで、男性に礼をして正宗文庫を写真に収めた。

 私はかつて、鷗外崇拝熱のあまり、「鷗外全集」に出てくる、鷗外が使った全ての用語の事典を作ろうかと思い立ったことがあるが、とてもではないが自分一人の手に負える仕事ではないと気づいたので、やめた。そして史跡巡りを始めた。

 「萬葉集總索引」を書き上げた正宗敦夫は、その点尊敬すべき学者である。

 家に帰って調べたら、正宗文庫の管理は、現在は正宗敦夫のお孫さんで、備前焼作家の正宗千春さんがされていることが分かった。

 私は、ひょっとしたら今日たまたま案内して下さった方が、正宗千春さんだったのではないかと気づいて、一人恐縮した。

 文庫から少し坂を下りると、正宗白鳥生家跡がある。

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正宗白鳥生家の碑

 正宗白鳥は、明治大正期に一世を風靡した自然主義文学の作家である。私は、白鳥の作品を1作も読んだことがないので、その作品を論じることはできない。

 石碑には、白鳥が片島湾の風景を描いた文章が刻まれていた。

西風の凪いだ後の入江は鏡のようで

漁船や肥舟は眠りを促すような艪の音を立てた

             「入江のほとり」 

 とある。

 正宗白鳥生家跡には、建物は何も残っていないが、かろうじて敷地内にかつての庭の痕跡があった。

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正宗家の庭の痕跡

 正宗家は、穂浪の網元の家で、かつては材木商もしていた財産家だったという。

 史跡巡りをしてきて分かったが、史跡の素材の中で、最も風化せずに残るものは石である。

 ここにも庭の石橋だけが残っていた。
 風光明媚な海の近くで生まれた正宗白鳥、敦夫という兄弟の文学への志を、この石橋を見ながら偲んだ。

ビートルズ

 最近諸事情で史跡巡りが出来ていない。今日も台風で出かけられなかった。

 なので今日も史跡と関係のない記事を書く。私の私生活の柱の一つである音楽について書く。

 音楽、と言っても、専ら聴くだけで、何かの楽器を演奏したり自分で歌ったりするわけではない。

 何を聴くかというと、今や死語に等しい「洋楽ロック」である。それもギターメインの古典的ロックを聴いている。

 ビートルズストーンズキンクスツェッペリン、ディープ・パープル、ジミヘン、クラプトン、アイアン・メイデンAC/DC、ガンズ、オアシス等々。大体これで嗜好が分かると言うものだ。私は、スイフトスポーツで史跡巡りをする間も車内で洋楽ロックを聴いている。これは私にとって至福の時間である。

 この中で、好きなバンドと言うとどれもだが、やはりビートルズは別格である。

 私は、20歳のころにビートルズを聴き始めた。最初は、初期のアルバムを退屈だと思っていたが、「ラバーソウル」や「リボルバー」を聴き始めて、「これは面白いぞ」と思い始めた。音楽については素人なので、何が面白いか言葉にし難いが、一言で書くと、ビートルズの音楽は、「ラフに作っているようで、ものすごく緻密に作ってある」ということである。

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ラバーソウル

 「ラバーソウル」は、私が最も好きなアルバムであるが、その中の「Nowhere Man」は凄く凝ったコーラスで織りなされている。

 ポール・マッカートニーが弾くベースは、ベースラインだけで一つのメロディになっている。「The Word」などは、1曲の中で、曲自体のメロディとベースラインのメロディと、2つのメロディが同時進行している。

 私は英語があまり得意ではなく、どちらかというと苦手だが、ビートルズの歌詞はシンプルで分かり易い。ビートルズの曲は、歌詞を読んで、歌詞の意味を理解しながら聴くと、より楽しめる。

 「ノルウェイの森」の歌詞は、英語が良く分からない私が、唯一「英語って美しい言葉だ」と感じた英語である。

 ジョン・レノンポール・マッカートニーという稀代の音楽家が一つのバンドにいたこと自体が奇跡だ。二人とも単独でもロック史に残る作曲家だが、その二人が共同して曲作りをしていたのだから。

 ビートルズの曲は、今まで数えきれないぐらい何度も聴いているが、聴くたびに新しい発見がある。それもこれも、この二人が、本当にいい曲を後世に残そうとしたからだろう。

 ジョンは生前、女子に嬌声をあげられるような表面上の人気などよりも、「レコードだよ、レコードが大事なんだ」と言ったらしいが、メンバーが精魂込めてレコーディングした曲は、いつまでたっても色褪せないという自信があったのだろう。

 私は、史上最高のロックシンガーは誰かと問われれば、ビートルズ時代のジョンだと答える。ソロ時代よりも、ビートルズ時代の、バンドの中で自分を抑えながら歌っている彼の方がいい。ジョンの枯れた声は、ひりひりする激しさと優しさと哀しさを同時に表現している。

 私は、25歳の時に、仕事のことで悩んでいて、固形物が喉を通らなくなった。栄養を取るために、とりあえず牛乳ばかり飲んでいたが、このままでは衰弱すると思い、深夜に独身寮を抜け出して、1人でファミレスに行ってみた。そこで料理を注文したが、出てきた料理に手をつけることが出来なかった。

 その時に、ふとセカンドアルバム「with the beatles」の2曲目、「All I've Got To Do」が頭の中に浮かんだ。ジョンの優しい哀しい激しい歌声が聞こえて来た。何故か心のつかえが取れて、ゆっくりだが料理を食べることが出来た。

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with the beatles

 当時の私の心に染みたのは、それ以外に漱石の「猫」があるが、当時の私には、漱石ビートルズも「あんた、それでいいよ」と言ってくれているような気がした。

 ビートルズと言えば、ジョンとポールと思われるかも知れないが、ジョージ・ハリスンの「下手うま」なギターも味がある。しかし、サウンド面でビートルズを支えているのは、何といってもリンゴ・スターのドラムだと思う。リンゴ加入前にピート・ベストがドラムを叩いている時の音源を聴いてみたが、「?」と感じる。リンゴのドラムは、私には上手いか下手か分からないが、ビートルズの曲に最もしっくりくるドラムだと思う。リンゴより上手いドラマーがビートルズで叩いたとしても、それでは「ビートルズ」のサウンドにはならなかっただろう。

 ビートルズのアルバムは、傑作揃いだが、彼らの才能が最も表れているのは、「ホワイト・アルバム」だと思う。

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ホワイト・アルバム

 このころには、ビートルズメンバー同士の共同制作は少なくなって、それぞれで曲作りをするようになってきたが、それ故の多様性がある。2枚組30曲の中に、様々な種類の音楽が揃っている。

 音作りはシンプルだが、それ故に彼らの曲の良さが際立って見える。「この1曲」という強い曲はないが、トータルで見て豊饒なアルバムである。

 最近「イエスタデイ」という、ビートルズが存在しなかった世界を描いた映画が作られたが、そんな映画が出来るほど、彼らが世界に与えた影響が多大だったということであろう。

 ビートルズの曲は、これからも世界中の人たちの人生を彩るBGMになるだろう。

 彼らのデビュー曲、「Love me do」は、「愛しておくれよ」という意味だが、彼らの最後のアルバム「Abbey Road」の最後の曲、「THE END」の最後の歌詞はこうである。

  And in the end

       the love you take

       is equal to the love

       you make

 ”そして結局”、君が得る愛は、君が与える愛に等しい”

 キャリア最初の曲と最後の曲の歌詞が照応しているのが面白い。

 ビートルズメンバー4人は、グループ内で仲違いをして解散してしまった。最後の歌詞と異なり、お互いを尊重し合わなかったから解散となったのだろう。

 解散は残念だったが、ジョンが言ったように、彼らが精魂込めて作ったレコードの中の曲は、人類の遺産として後世まで尊重されるだろう。

時計について

 ここのところ地味な史跡巡りの記事が続いたので、今日は趣向を変えてみる。

 男性が好きな物と言えば、車、カメラ、そして時計が定番である。それに万年筆が加わるか。

 私が使っている車、カメラについては既に書いたので、今日は時計について書きたい。と言っても、私は高級ブランド時計をしている訳ではない。

 私が今使っている腕時計は、セイコー・メカニカル(SARB035)である。 

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セイコー・メカニカル

 この時計は、セイコーが国内で販売する機械式時計の中では最安の時計である。販売実勢価格は、約38,000円である。

 私は元々機械式時計に憧れがあって、かつてはオメガ・スピードマスター・プロフェッショナルを使用していた。

 スピードマスター・プロフェッショナルは、1957年にスイスのオメガ社が販売し始めた機械式の手巻き時計である。発売されてから62年、モデルチェンジを重ねているが、ほとんどデザインが変わっていない時計である。NASAアポロ計画の宇宙飛行士用の腕時計として正式採用した時計としても有名だ。

 無重力の宇宙空間では、自動巻きの時計ではゼンマイが巻き上がってしまう。クオーツ時計では、宇宙線に曝されたら壊れてしまう。NASAが耐久性、耐磁性の試験をした数ある機械式の手巻き時計の中で、最も正確に時を刻み続けたのがスピマス・プロであった。

 結果、スピマスプロは、アポロ計画に採用され、人類史上初めて地球外の星の上で時を刻んだ腕時計となった。

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「下がりr」のスピマスプロ

 映画「アポロ13」でも有名だが、機器が故障して月の裏側で遭難しかかったアポロ13のクルーが、姿勢制御用のブースターを噴射して、アポロ13を地球に向かう軌道に戻す際に、9秒間という噴射時間を計るために使ったのがスピマスプロのストップウォッチ機能であった。この時計のおかげで、アポロ13のクルーは地球に生還できた。そんな伝説の腕時計を自分の腕にはめてみたいと思ったのである。

 私は、平成15年に、姫路のヤマトヤシキの質流れ市で写真のスピマスプロを買った。初めて腕にした時の感動は忘れられない。 

 機械式時計は、ネジとゼンマイと歯車で動く。定期的に油を差さなければ性能を維持できない。大体4年毎のオーバーホールが必要となる。1回のオーバーホールで、約4万円が必要となる。

 私のスピマスプロは、平成27年に、購入してから三度目のオーバーホールを依頼した際に、頼んだお店から、プッシュボタンが詰まって押せなくなっていたので、修理に約10万円かかると言われた。

 私はそれほど時計が命、というわけではないので、そんなにお金を出してまでオーバーホールをする気が起らなかった。私のスピマスプロは、ネジを巻いても動かなくなり、今は艸玄書屋の古机の引き出しの中で眠っている。

 スピマスプロは、1957年のデビュー以来、主なデザインはほとんど変わっていないが、時代時代で少しづつ変化している。

 私のスピマスプロは、製造番号で調べたら、1991年製であった。当時のスピマスプロは、文字盤の「speedmaster」のrの右側が下に伸びている。そして、Sの字が縦に長い。これが今は「下がりr」と呼ばれ、コレクターズアイテムになっているらしく、ネット上でも中古で50万円くらいで売っているのを見かけるようになった。

 さて、私はスピマスプロをお蔵入りさせたが、替わりの腕時計を何にするかを考えた。

 ソーラー電波時計が最も正確であるのは言うまでもないが、それでは味気ない。機械式時計を耳元に近づけた時の「コチコチ」という音が忘れがたい。

 かといって、オーバーホールをたびたびしなければいけない機械式腕時計はお金がかかり、面倒でもある。

 色々調べると、セイコー・メカニカルに積んでいる6R15というムーブメントが頑健であると分かった。セイコーは、セイコー5という、世界最安の機械式時計を海外で売っている。中東ではよく売れているらしい。このセイコー5は、機械式時計でありながら、ノーメンテでも壊れずに長いこと使えるそうだ。セイコー5のムーブメントを改良したのが、6R15である。

 私は、シンプルで信頼性が高い機械が好きだ。カメラならニコンF、F2、2輪車ならホンダ・スーパーカブ。4輪車ならハイラックス・サーフ(個人的にはトヨタ車はあまり好きではないが、ハイラックスサーフの頑健さは認める)。宇宙船ならソユーズ。兵器のことはあまり書きたくないが、自動小銃ならAK47、携帯式対戦車榴弾砲ならRPG-7

 この中で、ハイラックスサーフAK47RPG-7は、中東のテロリストグループが愛用している。使いやすく、壊れない。壊れても構造が単純なので、修理し易いというのが共通点である。中東の人たちに認められたセイコー5も、シンプルで壊れにくいことは共通している。

 スーパーカブの頑健さには様々な都市伝説が付随している。エンジンはオイル交換をしなくても半永久的に動く、エンジンオイルの替わりにてんぷら油を差したが動いたなど。

 私は、セイコー5のムーブメントを受け継いだセイコー・メカニカルなら、メンテをしなくても半永久的に動いてくれるのではないかと勝手な期待を抱いた。さながら、時計界のスーパーカブだろうと。しかもムーブメントは、安いながらも信頼の日本製である。これにしよう、と思い買った。

 購入してから4年以上経って、通常の機械式時計ならオーバーホールの時期だが、何の問題もなく動いている。

 セイコー・メカニカルには、様々なデザインのものがある。私は何となく「昭和の平凡なサラリーマンがしていたような時計」が欲しいと思っていた。そこで、それらしい文字盤がアイボリーの無個性なデザインのものを選んだ。

 少し前に実家に行ったら、親父が昔勤め人だった時にしていた時計を久々に見た。そんな時計を親父がしていたことをすっかり忘れていたが、それがアイボリーのセイコーの自動巻き時計だった。私は無意識に親父のしていた時計に似たものを選んでいた。

 親父がその時計をしなくなって、2~30年は経っていると思うが、腕時計を振ると、コチコチ動き出した。ノーメンテでもこれだ。私のセイコー・メカニカルも、ノーメンテで30年は動いてくれるだろう。

 ソーラー電波時計でも、ソーラーで発電した電力を貯める電池の能力が低下する時が来る。電池交換やオーバーホールの必要がない頑健な機械式時計こそ、本当の意味で「半永久機関」なのではないか。

 まあそれでも、「下がりr」のスピマスプロをもう一度使ってみたい気もする。気が向いてお金にゆとりがあれば、また直して使ってみるか。

多可町八千代区、加美区の寺院

 引き続き、兵庫県多可郡多可町八千代区の寺院を訪れる。

 楊柳寺の次に訪れたのは、八千代区中野間にある天台宗の寺院、極楽寺である。

 極楽寺は、白雉二年(651年)に、法道仙人が開基したと伝えられる。

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極楽寺仁王門

 極楽寺は、元々は、ここから1キロメートル北にあった道脇寺の飛地境内だった。道脇寺は、天正三年(1575年)に野間城主有田宗晴が秀吉に攻められた際の兵火で全焼し、道脇寺西ノ坊だけが生き残った。この西ノ坊が極楽寺の前身である。

 西ノ坊が所蔵する極楽浄土変相曼荼羅(當麻曼荼羅図)により、この地も弥陀の極楽であるとされ、極楽寺という名称となった。

 仁王門は、享保十三年(1728年)に建立されたもので、国登録有形文化財である。

 仁王門をすぎてすぐの場所にかかる石橋は、寛政四年(1792年)の銘があり、念仏橋と呼ばれている。

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念仏橋

 極楽寺は何度も火災に遭ってきたようで、境内に古い建物はほとんど残っていない。古そうなのは大日堂だが、それでも明治の建築のようだ。

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大日堂

 本堂は、平成27年に再建された。今にも新材の匂いが漂ってきそうな新しい建物である。

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本堂

 極楽寺には、国指定重要文化財の絹本着色六道絵の他、當麻曼荼羅、釈迦涅槃図、両界曼荼羅、千手観音二十八部衆像などの寺宝があるが、由来は分かっていない。野間城主の有田氏が寄進したとも伝えられる。ご本尊は千手観世音菩薩である。

 庫裏と塔頭妙寿院の前に石庭があり、そこに法道仙人と、恵便(えべん)法師、慧聰(えそう)法師の石碑が建っている。

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塔頭妙寿院と庫裏

 この塔頭は、天保年間の再建で、建築から約170年経っている。

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法道仙人の碑

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恵便法師、慧聰法師の碑

 恵便法師は、敏達天皇十三年(584年)に高句麗から来日した僧侶である。日本初の渡来僧であるという。

 当時の日本は、廃仏派の物部氏の勢いが強く、迫害された恵便は、無理に還俗させられて播磨に流された。そして現在の八千代区大屋笠形谷にあった稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられる。

 恵便は、その後、仏教の師を求める蘇我馬子に発見され、飛鳥に戻り、蘇我馬子の師となったという。

 慧聰法師は、推古天皇三年(595年)に百済から来日し、聖徳太子の仏教の師となったとされる人物である。

 この石庭には、仏教が日本に伝わった時代に功労のあった3人の僧の碑があるわけだ。

 次に訪れた八千代区中村の安海寺は、その恵便法師ゆかりの寺であるとされる。

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安海寺

 安海寺は、真言宗の寺院である。境内に恵便法師の碑がある。木像恵便法師坐像も安置されているという。

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恵便法師の碑

 安海寺も法道仙人開基の寺である。恵便法師は、法道仙人よりも50年以上前の時代の人で、安海寺開創前の人物である。安海寺が恵便法師とどのような所縁があるのかは分からないが、法師が軟禁されていた場所と安海寺は近いので、自然と日本仏教の恩人である恵便法師を偲ぶ寺になったのではないか。

 安海寺本堂には、木造阿弥陀如来坐像があるが、ちらりと見ただけで写真に納めることは出来なかった。

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安海寺本堂

 さて、安海寺から北上し、多可町加美区的場にある金蔵寺(こんぞうじ)に至る。金蔵寺は、金蔵山の山上にあるが、驚くほどの急こう配を登っていかなければならない。幸い狭いながらも自動車道が通じているが、車のない時代には、金蔵寺に行くだけでも苦行だっただろう。

 金蔵寺は、修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)の開山と伝えられる。笠形山に涌出した1寸8分の黄金薬師如来像が熊野権現の導きで金蔵山に移り、役小角が夢告によって当山を訪れ、白雉年間に開山したという。

 その後行基菩薩が堂宇を創建し、平安時代に慈覚大師が来山し再興したとされる。

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金蔵寺鐘楼堂

 本堂は、天保十三年(1842年)に焼失し、安政二年(1855年)に再建された。

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金蔵寺本堂

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本堂向拝の龍の彫刻

 金蔵山には、山中に修験者の行場、護摩場があり、毎年彼岸の中日には、修験者が集まり、柴灯大護摩供が行われている。

 ご本尊の薬師如来坐像は、天保十三年に金蔵寺が焼失した後、西宮の神呪寺(かんのんじ)から寄進されたものである。兵庫県指定文化財となっている。

 改めて驚くのは、東播磨飛鳥時代に開基した寺院が数多くあるということである。飛鳥時代東播磨は仏教の先進地域だったと言える。

 当時皇居のあった大和国に寺院が多く開かれたのは当然として、都のあった飛鳥から遠く離れた東播磨の山奥に、なぜ続々と寺院ができたのかは謎である。法道仙人と恵便法師が何らかの理由でこの地を選んだのだろうが、なぜ選ばれたのかが分からない。

 これからの史跡巡りで解き明かせたらいいなと思う。

柳山楊柳寺

 笠形神社を参拝し終わって、「兵庫県の歴史散歩」下巻の西播磨地域の史跡を踏破することが出来た。ブログを始めて4カ月にしてようやくである。今からはしばらくの間、東播磨地域と備前地域の史跡を交互に訪れることになるだろう。

 笠形山を下りて、車に乗り、県道34号線を東に走る。トンネルを越えると、兵庫県多可郡多可町八千代区である。

 今の多可町は、平成17年に多可郡中町、加美町、八千代町の3町が合併して出来た町である。今は旧町域は「区」の名称で呼ばれている。

 今日は八千代区の寺院、楊柳寺を紹介する。最初に訪れたのは、毘沙門堂である。

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毘沙門堂

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 毘沙門堂は、古くは西光寺毘沙門堂と呼ばれていた。今は天台宗の寺院である柳山楊柳寺の塔頭法持院に所属している。江戸時代初期に火災に遭い、元禄十四年(1701年)に再建された。

 鎌倉時代には、既に毘沙門天が祀られていたという。

 所蔵する絹本着色般若十六善神画像は、南北朝時代の作と伝わる。描線や彩色が巧緻で、兵庫県指定文化財となっている。

 毘沙門堂から南下し、八千代区大和の楊柳寺に行く。楊柳寺には、白雉年間(650~654年)に、法道仙人が、千手観音のお告げにより、山麓の柳の大木に自ら観世音菩薩を刻み、それをご本尊として安置して、伽藍を建立したという縁起が残されている。

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山門

 現在本堂には楊柳観世音菩薩立像がご本尊として安置されているが、平安時代前期の作と見られ、法道仙人が自ら彫ったものとは違うらしい。

 ところで、今後東播磨の寺院を巡る上で、しばしば目にすることになるであろう法道仙人について書いておきたい。

 法道仙人は、伝説上の人物である。インドの仙人で、7世紀半ばに紫雲に乗って播磨国法華山に降り立ったという。空鉢を飛ばして供料を受ける飛鉢の法を使うなど、奇行に富み、各地に寺院を建立したと伝えられる。

 東播磨には、法道仙人を開基とする寺院が77寺ある。法道仙人を開基とする寺は、兵庫県外にはほとんど見られない。

 そのほとんどが山岳寺院で、本尊には観音、毘沙門天が多く、観音信仰の拡大と法道伝説の拡大には関連があるものと見られている。

 さて、楊柳寺山門は、国登録有形文化財である。山門を潜ると石段があり、急な傾斜を登ることになる。

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山門

 楊柳寺は、天正三年(1575年)に、兵火により全山焼失したが、隆慶和尚により再興され、徳川家光から朱印地10石、山林8町を下付された。

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阿弥陀堂

 本堂には、ご本尊の楊柳観世音菩薩立像の他に、木造十一面観音立像が三体あり、いずれも兵庫県指定重要文化財である。

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本堂

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 本堂は、国登録有形文化財である。本堂の内陣を覗くが、厨子が閉ざされていて仏像の拝観は叶わなかった。

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本堂内部

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内陣

 本堂の前に善光寺如来という石仏があり、こちらの方は雰囲気が良かった。

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善光寺如来

 本堂の裏から、奥の院に至る山道に通じている。奥の院と言っても、本堂から約300メートル歩いたところにある。

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奥の院

 奥の院には、兵庫県指定重要文化財の木造千手観音立像、木造兜跋毘沙門天立像、木造毘沙門天立像があるが、拝観は出来ない。

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奥の院

 東播磨は、山岳や丘陵が豊富にある地域である。はるか昔、天竺から渡ってきた法道仙人が、この辺りの山を渡り歩いて、あちこちに観音や毘沙門天を祀り、寺院を建立していったのは何故だろうと考えてみた。答えは見つからない。

 今後東播磨の史跡巡りを続けるうちに答えが見つかるだろうか。それは分からないが、何かテーマを見つけて跋渉するのも、史跡巡りの醍醐味である。

笠形山

 兵庫県神崎郡市川町、同神河町多可郡多可町の3つの町にまたがる形で聳え立つのが名峰笠形山である。標高は939メートルである。登山道が整備されて、登りやすい山であるため、登山を趣味とする人たちには人気の山である。

 今日は、その笠形山にまつわる史跡を紹介する。

 笠形山に登るには、多数の登山口があるが、メジャーなのは市川町から登るコースである。市川町側の麓にあるのが、兵庫県指定文化財の、塩谷十三仏種子板碑である。

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塩谷十三仏種子板碑

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 十三仏板碑とは、初七日から三十三回忌までの十三回の供養を行うための石塔である。通常は一石に十三の梵字若しくは仏像と、造立の由来を刻むのが一般的である。

 塩谷からは、昭和37年に九つの板碑が発掘された。塩谷十三仏板碑のように、一石に一仏の梵字か像を刻んでいるのは珍しいらしい。この板碑の碑文には、応永二十年(1413年)に、常念という僧が、死後の幸福を祈念して築いたことが、書いているそうだ。

 周辺では丁度稲刈りの農作業が行われていた。その中を笠形山の登山口へ向かう。

 麓の駐車場はすでに登山客の車で一杯である。流石人気の山だ。

 笠形山には、笠形寺と笠形神社がある。今日の目的地はそこである。

 私は、笠形神社に至るコースを登り始めた。ちなみに目的は登山ではなく、史跡巡りであるため、笠形神社に着いたら折り返すことにした。

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笠形山登山コース案内板

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笠形神社コース

 登り始めてすぐに笠形神社の鳥居がある。

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笠形神社鳥居

 鳥居を抜けるとすぐに、獣を通さないためのゲートがあって、そこからが本格的な山道である。

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登山道を行く

 登山を始めて、30分くらいで、笠形寺に到着する。

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笠形寺

 笠形寺は、大化の改新のころに法道仙人が開いたと伝えられ、その後平安時代に慈覚大師円仁が再興し、天台宗の山岳密教の道場として栄えた。

 明治時代に大火があり、現在は蔵王堂を残すのみである。

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蔵王

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 仏像としては、木造毘沙門天像、木造聖観音像、木造不動明王像があり、その他に絹本着色不動明王像、笠形寺の鬼面を所蔵する。

 ここから更に40分登ると、笠形寺の鎮守社である笠形神社がある。江戸時代までは、神仏習合していたのであろうが、今は截然と分かれている。しかし、笠形神社の拝殿は、元々笠形寺の本堂だった建物であり、神仏習合の名残はある。

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笠形神社拝殿

 笠形神社の建物は、拝殿、中宮(2棟)、本殿と4つあるが、どれも彫刻が素晴らしい。

 拝殿から見て行こう。

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向拝の獅子の彫刻

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木鼻の麒麟

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手挟の天女

 中宮は、銅板葺きの春日造りで、祭神は須佐之男命である。中宮の彫刻は、丹波の彫刻家の一族、中井権次一統の6代目、中井権次正貞(1780~1855年)らの作品である。

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中宮

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向拝の麒麟

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獅子と兎

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木鼻の獅子

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脇障子の龍と天人

 それにしても見事な作品だ。山上にこんな宝物があるとは。

 本殿も、銅板葺きの春日造りである。祭神は大奈牟知命である。

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本殿

 本殿の彫刻は、中井権次一統5代目の中井権次正忠(1750~1818年)や久須善兵衛正精らの作である。

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向拝の龍

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木鼻の獏

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蟇股の鳳凰

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脇障子の獅子の滝落とし

 さて、名彫刻を堪能した後、本殿の脇を見ると、そこには現在姫路城大天守の西大柱として使われている檜が伐り出された跡があった。
 当ブログの今年8月17日の「姫路城その4」の記事でも紹介したように、姫路城の昭和の大修理の時に、大天守の西大柱を新材に交換するため、岐阜県の山奥から、1本の長大な檜が伐り出されたが、搬送作業中に折損してしまった。
 そのため、急遽接ぎ木のために、もう1本の檜が必要となった。そして選ばれたのが、笠形神社境内にあった御神木の檜である。

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姫路城心柱之跡

 ここから伐り出された檜は、長さ42メートル、周囲4メートルであった。

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伐り出される前の心柱

 伐り出された檜は、姫路の大手前通りを通って姫路城まで運ばれたが、姫路市民の大歓迎にあったようだ。

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姫路市大手前通りを運ばれる心柱

 大手前通りを曳かれる間は雨が降っていたそうだが、柱が姫路城に到着した途端に雨がぴたっと止んだという。
 かつての笠形神社の御神木は、今は姫路城西大柱として、岐阜県から伐り出された檜に継ぎ足され、姫路城大天守の3階から上を貫通している。
 木材は、伐り出されて建物の建築に使われてからも、年々強度を増したりして、生き続ける材料だという。笠形神社の御神木も、姫路城大天守の西大柱として今も生き続けていると思う。
 ここに来て、姫路城の故郷というか、心に会った気がした。