伊部の町から国道2号線を西に行き、JR香登駅手前を右折北上する。
備前市大内にある真言宗の寺院、大瀧山福生寺(ふくしょうじ)を訪れる。
福生寺は、寺伝によれば、天平勝宝六年(754年)、唐から渡来した鑑真和上によって創建され、奈良時代の備前の高僧・報恩大師により備前四十八寺の一つとして整備された。
後に真言宗の寺院となったが、万寿元年(1024年)に火災により一山ほとんど焼失する。
その後観応年間(1350年ころ)に、足利尊氏の発願により再興された。
寺域の入り口にある仁王門は、応永四年(1398年)に、足利義満により建立されたものとされる。備前市重要文化財である。
仁王門に掲げられた「大瀧山」の文字は、江戸時代の高松藩の書家、佐々木文山の書と伝わる。
木目を生かした味のある扁額だ。また、仁王門内の仁王様も迫力ある姿である。
仁王門から本堂のある辺りまでは、自動車で行くことができる。
本堂は、天和二年(1682年)に池田綱政が再建したものである。
本堂には、ご本尊として、十一面観世音菩薩像をお祀りする。内陣内の拝観は出来なかった。
本堂は、備前市重要文化財である。方五間のどっしりした建物だ。
本堂の向かって右隣に建つ大師堂は、弘法大師をお祀りしている。
向拝の上の、通常なら蟇股の彫刻のある場所に、謎の人物の像が置かれている。
大師堂は、本堂と同じ年に建てられた。
経堂には、内部に八角形の書庫があり、その中に一切経(仏教聖典を集成したもの)を収蔵している。
経堂内部の書庫の前には、彩色鮮やかな比較的新しい木像がある。
6世紀の中国・梁の僧侶、傳大士と、俗に笑仏と呼んでいる二人の子、普成、普建の親子三人像であろう。
傳大士は、一切経を収める回転式の書庫、転輪蔵を発明した人で、転輪蔵を一回転させると、一切経を全て読んだのと同じ功徳があると説いた。
経堂の守護者として、傳大士を祀る寺院は多い。
さて、福生寺の象徴とも言えるのが、山中に聳える三重塔である。国指定重要文化財である。
この三重塔は、室町幕府6代将軍足利義教が、嘉吉元年(1441年)に願主となり、建立したものだと伝えられている。
高さ19.72メートル、和様の斗栱を三手先に組み、尾垂木を出し、各階軒下の四隅に銅製の風鐸を下げている。
私が史跡巡りを始めて今まで拝観した三重塔は、兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺、岡山県備前市の真光寺とこの福生寺の三つである。
備前市は、2棟の国指定重要文化財の三重塔を擁することになる。日本にはどれだけの三重塔があるのだろう。これから数えていこうか。
三重塔のご本尊は大日如来で、この塔身そのものが大日如来の御姿を表わしているという。
寺域には、実相院、西法院、福寿院という三つの塔頭がある。
一番奥の西法院の奥に、寺号の由来となった大瀧がある。訪れた日は水量が少なく、滝の岩肌ばかりが目立った。
この福生寺の北側には、熊山遺跡で有名な熊山があり、福生寺の寺域から自動車道が熊山遺跡まで続いているらしい。
熊山遺跡は以前から訪れたかった謎の遺跡だが、後日に回して、和気町に行くことにした。
備前屈指の霊山と言われる熊山の近くの福生寺は、言葉には言い表しがたいが、独特の空気感のある寺であった。
パワースポットというものを私は感じることは出来ないが、古い寺院というものは、訪れると不思議と心落ち着くものである。