和気神社の随神門を潜り、拝殿に対面する。
和気神社(旧猿目神社)が現在地に移転したのは、天正十九年(1591年)のことであるらしい。それまでは、神社はここから数町下手に鎮座していた。
拝殿は、瓦葺入母屋造りの清楚な印象を与える建物である。「狛いのしし」が社を守るように居座っている。
拝殿の向拝と木鼻の龍の彫刻は、目をカッと見開いて迫力がある。
本殿は、明治18年(1885年)に造営された。門弟60余人を擁し、関西随一と言われた名人・大棟梁、田淵勝義が手掛けたとされる。
田淵が手掛けた寺社建築は、近畿から備後地方まで、85棟に及ぶという。
屋根の形状は、唐破風と千鳥破風が組み合わされ、大げさだが、姫路城大天守の屋根を彷彿とさせる。
この建築で最も特徴的なのは、建物からにょきにょき生えているように見える尾垂木である。
小ぶりな本殿ながら、なかなか雄勁なデザインである。元々近衛将監という武人だった清麻呂公を祀るのに相応しい本殿である。
和気神社境内には、和気町歴史民俗資料館がある。
入館料は200円である。私が参拝した日は、なかなか参拝客が多かったが、歴史民俗資料館に入ると人影はまばらだった。
中には、和気町の遺跡や考古資料に関する展示もあるが、大半は和気清麻呂に関する展示だった。
明治23年から昭和21年まで使われた10円札には、和気清麻呂が印刷され、初代は紙幣の周りに猪がデザインされ、2代目は裏面に猪が印刷された。十円札は、当時「イノシシ」と称されたという。
また、戦前の尋常小学校の国史の教科書には、和気清麻呂のことが載せられていた。
かつては、和気清麻呂は、誰もが学校で教わる偉人だった。
館内には、人間国宝の伊勢崎陽山が制作した備前焼の「狛イノシシ」や、和気広虫の像があった。
伊勢崎陽山の作品は、滑らかで美しい。和気広虫の像など、僧衣の襞の表現が卓越していると感じる。
和気神社の社頭には、大きな清麻呂公の銅像が建っているが、その像の元となった石膏像が歴史民俗資料館で保存されている。
この像は、大正、昭和の彫塑界の重鎮、朝倉文夫が、昭和15年の紀元2600年奉祝展覧会に出品した石膏像である。
像は展覧会が終わった後、橿原神宮に献納され、大和国史館で展示されていた。
戦後は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に所蔵されていたが、昭和58年、和気清麻呂生誕1250年を記念して、奈良県から和気町に贈与された。
外の銅像は、昭和59年に、この石膏像を元にして作られたものである。
前を厳しい目で見据える清麻呂公の姿は、「宇佐八幡神託事件で、決意を内面に秘めた清麻呂」を表現しているという。
和気神社から少し南西に行ったところに、和気氏政庁之跡の石碑と和気清麻呂公顕彰碑がある。
この顕彰碑は、昭和15年の紀元2600年奉祝ムードの中で建立された。
和気郡の郡衙(ぐんが、郡の政庁)の遺跡は見つかっていないが、ここは古来から地名を大政(だいまん)と言い、大政所に因む地名であると見なされている。
周辺には、古代山陽道の駅家があったと思われる尺所(しゃくそ)という地名があったり、郡田の存在を示す地名があるため、顕彰碑の建つ地がかつての郡衙の跡地に比定された。
さて、顕彰碑の南約300メートルにある日蓮宗の寺院、福昌山実成寺は、和気氏の氏寺であった藤野寺の廃寺跡に建つと言われている。
藤野寺は、奈良時代に建立された和気氏の氏寺であるが、実成寺の境内からは、奈良時代の軒丸瓦片が出土することから、ここが藤野寺跡と認定されている。
実成寺の境内には、清麻呂公之塚や、和気氏経塚があり、和気氏と所縁のある地であることを示している。
それにしても、和気清麻呂や和気氏の史跡を訪れて感じるのは、和気氏の遺跡が地元住民たちによって大事に伝えられてきたことである。
おそらく和気郡の郡司を務めた歴代和気氏の棟梁は、善政を敷いたのであろう。
私が訪れた時、和気町藤野の地には、黄金色の稲穂が波打っていた。夕日が照らす稲穂の上に、一瞬飛鳥時代や奈良時代の郡衙の姿が目に浮かんだ。