岡山県津山市二宮の路傍に、首なし地蔵と呼ばれる、首のない地蔵が五体祀られている場所がある。
ちょっと不気味な気もするが、この五体の地蔵は、享保十一年(1726年)から翌年にかけて発生した山中(さんちゅう)一揆の首謀者で、津山藩により処刑された者たちを供養するために建てられたものである。
ここに祀られた首謀者は、仲田村の池田徳右衛門、見尾村の樋口弥治郎、東茅部村の七右衛門とその子喜平治、土居村の忠左衛門、富東谷村の与七郎の6名である。
地蔵が一体足りないのは、遺族が一体持ち帰ったからだと言われている。
山中一揆は、当時津山藩領だった真嶋郡、大庭郡の二郡で発生した大規模な農民一揆である。
一揆の震源地となった二郡の村々が山に囲まれた地域であったため、山中一揆という名称が付いた。
一揆の発起人は、大将となった池田徳右衛門と副将となった樋口弥治郎である。
当時の津山藩の財政は、天候不順を原因とした凶作のため逼迫していた。
享保十一年(1726年)、藩は年貢米の四割増徴、納期の一か月繰り上げという布告を出した。
又、幼少の藩主松平浅五郎が死去したことから、幕府が津山藩領の真嶋郡、大庭郡を召し上げるという噂が流れ、藩は二郡の郷蔵米を売却しようとした。郷蔵米とは、飢饉に備えて貯蔵された村が管理する米である。
このような藩政に不満を持った山中の村人たちは、享保十一年(1726年)十二月四日に徳右衛門、弥治郎に率いられて久世に終結し、周辺の庄屋を打ち壊した。
徳右衛門らは、他の村々にも蜂起を促し、津山城下を目指した。
津山藩は、一揆の要求を受け入れ、年貢米四割増徴などの政策を撤回した。
だが、一揆勢の要求を受け入れて打撃を受けた津山藩は、翌享保十二年(1727年)正月、藩の存亡をかけて一揆の鎮圧に乗り出した。
藩兵を山中の村々に派遣して、一揆を鎮圧し、首謀者を逮捕した。
一揆の主要人物が逮捕された後も、見尾村出身の副将樋口弥治郎のみは行方が知れなかった。
弥治郎は、見尾村の裏にある聖ヶ岳の中腹にある岩の隙間の洞窟に隠れていた。
毎日弥治郎の愛犬が、弥治郎が潜む洞窟に食料を運んだという。
ある時、藩の役人が弥治郎の愛犬の跡をつけて、聖ヶ岳に潜む弥治郎を発見し、捕縛した。
真庭市見尾には、義民樋口弥治郎碑と忠犬塚が寄り添うように建っている。
弥治郎の生家跡からは、弥治郎が隠れた聖ヶ岳が見える。
弥治郎の処刑後、聖ヶ岳は弥治郎嶽と呼ばれるようになった。
私は弥治郎が隠れた洞窟を探すため、弥治郎嶽に登ってみた。
登っていくと、道の突き当りに小さな祠があった。
この祠は、岩壁の下にある。祠の先から道が途絶えた。その後は、岩壁沿いに急斜面を登った。
だが行けども行けども洞窟は見えない。残念ながら、洞窟を探り当てるのを諦めて途中で下山した。
真庭市見尾の集落から国道313号線を北上する。
真庭市中間字牧に差し掛かると、路傍に山中一揆の大将池田徳右衛門の墓である徳右衛門御前(みさき)がある。
享保十二年(1727年)三月十二日に、津山藩によって院庄河原で処刑された牧村の徳右衛門は、ここに葬られた。
私は今までの史跡巡りで、江戸時代の武士による過酷な支配に抵抗した、義民と呼ばれる一揆の首謀者の遺跡を数多く尋ねた。
私が住む地域にも、江戸時代に村の窮状を藩に訴えて罪人になった庄屋さんの墓があり、地域では未だにその人を供養する営みを続けている。
武士の歴史もいいが、このような百姓の歴史に人々はもう少し目を向けてもいいのではないか。