隆平城跡

 花集落の諏訪神社の辺りから南側を望むと、城山という標高約300メートルの山が目に映る。地名で言うと、鳥取県八頭郡八頭町日下部にある。

城山

 城山の山上には、因幡国八上郡の地頭・波多野氏の居城だった隆平城跡がある。

 波多野氏は、応仁の乱で東軍に属し、戦功を上げたことから、丹波国多紀郡を与えられた。

 波多野氏は丹波に移ってからも因幡国八上郡のことを忘れず、居城を八上城と名付けた。丹波篠山市八上城のことは、以前当ブログでも紹介した。

 波多野氏は、天正七年(1579年)に明智光秀に攻め滅ぼされた。

 因幡の一豪族が、応仁の乱に乗じて丹波に移り、そこで戦国大名になったが、新時代の英雄織田信長に攻め滅ぼされたという物語には、ドラマ性を感じる。

 隆平城跡へは、山麓東側の集落に登山口がある。

隆平城跡への案内板

 城山東側集落の道沿いにある案内板に従って、墓地の南側の道を山に向かって歩く。

隆平城跡への道

 この写真の道を道なりに真っすぐ進むと、果樹園に入り込んで道がなくなってしまう。

 Uターンして来た道を戻ると、途中山に上がっていく細い道があるのに気付いた。道なりに進んでも、この道には気づきにくい。

山に上がる細い道

 細い道を上がっていくと、沢に向かう道と尾根に上がる道に分岐する。左側の尾根に上がる道を行くのが正解だ。

尾根への道の分岐

 尾根の上に登ると、城跡に向かって東西の尾根道を西に進む。

尾根道

 東西の尾根道を歩くと、途中堀切と土橋があった。

土橋

堀切

 堀切はそれほど深いものではない。相当古い城で、風化したのであろうか。

 土橋を越えて進むと、今度は南北の尾根道に突き当たる。突き当りは、広い曲輪である。

突き当りの曲輪

 突き当りを左に曲がり南下すると、南側の曲輪がある。

南北の尾根道を南に行く

南側の曲輪

 元の突き当りの曲輪に戻り、そこから北に歩く。城山山頂への道だ。

尾根道を北に向かう

 北に向かって歩いていくと、山頂付近の本丸跡が見えてきた。

山頂付近を望む

 山頂の本丸跡の曲輪には、青々とした羊歯が一面に生えていた。

本丸跡の曲輪

 本丸跡からは、北から東にかけて眺望が開けている。東側の眼下には、安井宿一帯がある。

東側の眺望

 北側からは、花集落一帯が見下ろせる。

北側の眺望

 本丸跡の西側には、切岸の下に、尾根上の曲輪が続いているが、そちらには行かなかった。

本丸跡西側の曲輪

 この日は、朝から鷹山城跡の登山で疲労困憊していて、流石に2つ目の山城の登山は厳しかった。

 下山すると、麓に広い曲輪のような削平地があり、古い墓石があった。

麓の削平地

古い墓石

 梵字と共に、天保や慶応といった、江戸時代後期の年号が刻まれていた。どういういわれの墓石かは分からない。

 説明板によると、隆平城は、永禄二年(1559年)に鷹山城の丹比氏の謀略により落城したという。

 永禄二年(1559年)には、波多野氏はとうに丹波に移っている。地元に残った波多野氏の一部が丹比氏に滅ぼされたのだろうか。

 最近になって気づいたが、山城跡というものは、地方に行くと幾らでもある。室町時代の建造物で今に残るものは少ないが、山城跡は今でも形をとどめているものが多い。

 石垣は年が経つと崩れていくが、土の城は古墳と同じでなかなか風化しない。

 現代の高層ビルよりも、土の山城の方が後世に残っているだろう。山城を作った人たちも、自分たちの築いた城の機構が、後世になって登山客によって喜ばれるとは思いもしなかっただろう。