塩谷古墳群の見学を終え、京丹波町市森滝見にある須知城跡を訪れた。

須知城跡は、標高384メートルの城山上にある。綺麗な円錐形の山である。
須知城は、地元豪族の須知氏の居城であった。
須知氏は南北朝期には南朝方に属していた。須知城は、観応三年(1352年)に落城したという記録がある。ところで日本の歴史に武士の拠点として城が登場してくるのは、鎌倉時代末期から南北朝期にかけてである。
鎌倉時代の御家人の主流だった関東武士は、平地での騎馬戦が得意であった。鎌倉時代には籠城戦は行われていなかった。


籠城戦をして関東武士が主体の鎌倉幕府軍を苦しめたのは、河内の楠木正成や、播磨の赤松円心など、悪党とも繋がりのある西国の武士たちであった。
楠木正成は、千早城の攻防戦で、城に攻め寄せる幕府軍に糞尿や石を落として、城を守り通した。
赤松円心は、摩耶山城の攻防戦で、弓矢を持たせた足軽を森林に隠して、馬に乗って城攻めしようとする幕府軍を山中の谷間におびき寄せ、散々に射殺した。

鎌倉幕府の主力だった関東の御家人達は、広大な関東平野で馬に乗ってお互い名乗りあって戦った誇り高い武士たちであった。
彼らは、楠木や赤松のような、一見姑息で卑怯とも言えるゲリラ戦を行う関西の武士たちに苦戦した。
籠城戦は、関西が生み出した戦法と言っていいだろう。

鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏側について今の兵庫県赤穂郡上郡町にある白旗城に籠城した赤松円心を、関東武士の新田義貞の大軍はついに破ることが出来なかった。
須知城が陥落した観応年間には、籠城戦は全国的にポピュラーなものになっていたことだろう。
そして赤松が始めた足軽や野伏によるゲリラ戦は、戦国乱世にはスタンダードな戦い方になっていった。
さて、須知城跡への登山口は、前回の丹波の旅で訪れた琴滝の近くにある。直登すると、尾根に出る。

尾根に出たら、左つまり西に進む。
登山路の木には、ピンク色のテープが貼ってあるので分かり易い。
進んでいくと、切岸が見えてくる。

切岸の上に登ると、次の切岸が見えてくる。

次の切岸の上に登って、下の曲輪を見下ろすと、曲輪の縁に沿って馬蹄状に土塁が築かれているのが分かる。

また、次の切岸の端も土が盛り上がっている。これも土塁であろう。

この切岸上の曲輪は、結構広い。

城の主郭の前の重要な防御拠点だったのだろう。
更に進むと、尾根が途切れた場所に出る。堀切である。



須知城跡は、観応三年の落城後、丹波守護細川氏に属したが、その後延徳元年(1489年)に発生した国人一揆の中心となって、細川政元から攻撃を受け、再度陥落した。
須知氏は、その後丹波守護代の松永氏や内藤氏の被官になって復活するが、明智光秀の丹波攻めに際して須知城は陥落する。
次回は明智氏が整備した須知城の遺構を紹介する。