福知山城下の北端の、由良川堤防沿いには寺が多数建てられた。
今では、寺院の多い一角は、寺町と呼ばれている。
今日は寺町にある曹洞宗の寺院を2つ紹介する。福知山周辺には、曹洞宗の寺院が多い。
地理的に、永平寺のある越前に近いからであろうか。
一つ目の寺院は、明鏡山正眼寺である。
正眼寺の山門は、かつて福知山城の城門として使用されていたものである。
福知山城二の丸登城口にあった門で、門の金具が銅製であったため、銅(あかがね)門と呼ばれていた。
古い城門らしい風格のある門である。
福知山城は、明治6年の廃城令により廃城となったが、二の丸の建物は、明治20年まで豊岡県福知山支庁舎などとして使用された。
明治31年に、銅門が正眼寺に移築された。山門に掲げられた扁額の額材は、福知山城内南居間の天井板である。
今の福知山城の天守は昭和61年に復元されたものである。築城時の建物は、ほとんど残っていない。
この山門は、後世の補修を経ているが、今に残る福知山城築城時の貴重な建造物の一つである。
大宝元年(701年)に、諸国に疫病が流行した時、四天王寺の洪範という僧侶が、衆生の救済を天に祈ったところ、庚申尊天像が降下するのを感得したという。
洪範が庚申尊天を祀ると、疫病は治まったという。
これを伝え聞いた人々が、日本各地に庚申尊天を祀った。正眼寺の源流は、この時に山陰地方に祀られた庚申堂であるという。山陰最古の庚申霊場と言われている。
庚申堂は、元々は近辺の箕越という地に祀られていたが、明智光秀が福知山城下を整備し、京街道を敷いた際、今の場所に移されたという。
慶長十八年(1613年)に久昌寺三世の道華元達和尚が、当寺を創建して明鏡山正眼寺と称した。
境内の庚申堂の中には、庚申尊天像が祀られているが、新しい像であった。大宝時代に祀られた庚申像はとうの昔に失われてしまったようだ。
境内には、牡丹や藤が美しく咲いていた。
いい季節にこの寺に来たと思った。
庚申尊天に手を合わせ、次の目的地の補巖山久昌寺に向かった。
久昌寺の山門は立派であるが、福知山城の城門ではない。新しい山門である。
久昌寺は、文禄元年(1592年)に威雲宗虎大和尚により開山された曹洞宗の寺院である。
貞享二年(1685年)、寛政七年(1795年)、明治16年(1883年)と、大体100年毎に火災に遭っている。
今の伽藍は、明治19年に再建されたものである。だがその後も明治40年の水害で大破するなど、災害に見舞われている。
本尊は釈迦如来である。
ここに牛頭天王が祀られたのは、久昌寺の開山よりも古いのではないかと思った。
また、境内の開山堂には、毘沙門天が祀られている。
この毘沙門天像も、新しいものである。
久昌寺の境内にも、美しい牡丹が咲いていた。
武将が城下町を整備する際、寺院や神社をどこに置くかは重要な事であった。特に寺院は、戦時には砦のような役割を果たすことが求められた。
明智光秀が福知山城下を整備した天正年間から、建物は建て替えられたが当時と変わらぬ様子で建っているのは、これら寺院群である。
日本の城下町の寺院は、安土桃山時代や江戸時代初期の町の雰囲気を今に伝えている。