楼門を潜って境内に入ると、すぐ目の前に豪華な拝殿がある。
この拝殿の彫刻は、なかなか見応えがある。
拝殿には、前に長く伸びた唐破風の向拝が付いている。その蟇股の龍の彫刻などが見事である。
拝殿に、皇紀2560年(西暦1900年、明治33年)の扁額が掛けられていた。
恐らく拝殿と本殿は、その当時に再建されたものだろう。
富丘八幡神社の祭神は、誉田別(ほむだわけ)天皇(第15代応神天皇)、息長足姫(おきながたらしひめ)命(応神天皇の生母・神功皇后)、仲比売(なかひめ)命である。
小豆島には、応神天皇二十二年に、天皇が小豆島に御幸したという伝説がある。
土庄の町の東側には、その時に応神天皇が登って国見をしたという皇踏山という岩山がある。
この山は、土庄の町からなら、どこからでも目に入る。
その当時から、小豆島は、応神天皇ゆかりの島というわけだ。
第60代醍醐天皇の御代である延長四年(926年)、八幡大菩薩(八幡大神=応神天皇)のご託宣により、土庄が石清水八幡宮の塩田たるべき地とされ、石清水八幡宮から祭神を勧請し、富丘八幡神社が創建された。
本殿は、銅板葺の三間社流造である。
それにしても、応神天皇=八幡大神は、なぜこうも尊崇されてきたのだろう。
第15代応神天皇の皇子だった第16代仁徳天皇から、第25代武烈天皇までは、皆仁徳天皇の子孫であった。
だが暴虐な天皇で有名な武烈天皇に子はなく、仁徳系の皇統は途絶えんとした。
日本最初の皇統維持の危機であった。
そこで、当時宮廷で力を持っていた大連(おおむらじ)の大伴金村と物部麁鹿火(あらかび)は、越の国(北陸)にいた応神天皇五世の孫、男大迹王(おおどのおう)を第26代継体天皇として推戴した。
継体天皇の登場により、継体天皇の五世の祖である応神天皇が、急速に崇拝されるようになったのだろう。
継体天皇の登場は、6世紀前半であるが、全国の八幡神社の総本宮である宇佐神宮が創建されたのも6世紀である。
継体天皇以降の天皇は、応神天皇を自分たちの実質的な祖として祀ったのではないか。
応神天皇を祀る石清水八幡宮は、長らく伊勢神宮に次ぐ「皇室第二の祖廟」と呼ばれていた。
さて、八幡神は、武士たちから弓矢の神すなわち武神として崇められてきた。
そのせいか、拝殿に向かって左手には、渕崎から大東亜戦争に従軍した兵士たちを祀る渕崎護国神社が鎮座している。
昨日紹介した血書を書いた兵士が所属していた、陸軍船舶特別幹部候補生以下、戦没者1407柱の英霊が祀られている。
また拝殿に向かって右側には、明治三十七八年役(日露戦争のこと)の従軍記念モニュメントがある。
台座には、地元からの従軍者の名前が彫られており、その上に赤色の日本列島を描いた球体の上に乗る猛禽類の像がある。
各地の神社を回ると気づくが、数多くの神社に日露戦争従軍記念の石碑や砲弾などのモニュメントがある。
大国ロシアに勝ったこの戦争は、日本中の人たちを高揚させたのだろう。そして、地元の神社に、記念碑を建てていったのだろう。
確かに、世界史上、ロシアに勝った国は日本しかない。
継体天皇の即位は、半ば伝説上の出来事だが、応神天皇が八幡神として祀られるようになった6世紀に、応神天皇を崇める必要が生じるなにがしかの出来事が起こったことは間違いないだろう。