阿毘地神社から西に行き、福知山市石原2丁目にある曹洞宗の寺院、金光山洞玄寺に赴いた。
洞玄寺は、小高い丘の上に建っているが、この丘は元々は石原城という城であった。
天文年間(1532~1554年)に、安芸国からこの地に移ってきた大槻安芸守政治が、この丘の上に城館を築いた。
大槻安芸守は、やがて隠居して、洞玄という法名を名乗り、城館跡に草庵を建てた。
弘治元年(1555年)の洞玄の死後、ここは長らく廃墟になっていたが、石原の僧侶・華翁がここに寺を建て、大槻安芸守の法名に因んで洞玄寺と名付けた。
洞玄寺の南東西側には、今でも石原城跡の土塁と空堀が残っている。
丘の北側に、寺院に至る階段と山門がある。
石段を登り、山門を潜って右に曲がると、立派な二層の楼門がある。
その先には、大きな本堂がある。
日本において、他宗派の寺院にもまつられる宗派の祖師は、弘法大師空海しかいない。
弘法大師空海は、日本仏教界、いや日本人にとって、宗派を超えた普遍的な宗教家なのだろう。
洞玄寺の南側には、土塁と空堀が巡っていて、土塁の切れ目に境内への入口がある。
橋の西側には、横矢掛という少し高い土塁がある。
橋から西に歩くと、途中で土塁と空堀がS字に曲がっている。
更に歩くと、西端で土塁と空堀は途切れている。
今度は、橋から東に歩いてみる。
東側にも土塁と空堀が続いている。
境内東側の土塁には、途中で途切れている所がある。
この部分は、虎口の跡とされている。
虎口からは、城跡の東側に降りる階段が続いている。
丘の東側から見上げると、土塁がこの城の防御力を高めていたことが実感できる。
洞玄寺、石原城跡は、大槻安芸守が築いた城館の土塁と空堀と、安芸守が隠居後住んだ草庵の後継寺院が同居している史跡である。
大槻安芸守が晩年に建てた城と草庵の名残が、今に生きていると言える。
人が何気なく作ったものが、遥か後の世に伝わることもあるのである。