中河原の集落の東側に聳える標高約242メートルの山上にあるのが、山崎城跡である。
山崎城跡は、鳥取県下最大のロックフィルダム、殿ダムのすぐ南西側にある。
殿ダムは、高さ約75メートルの堰堤の一面が石で覆われた、なかなか壮大な建造物である。
この殿ダムの駐車場から南に歩いていくと、山崎城跡の登山口がある。
しかし御覧のとおり登山口は雑草に塞がれ、先が見えない。登山道自体は舗装されているので、足元が見えなくても、足を踏み外すことはない。
雑草をかき分けながら前に進んでいく。
しばらく行くと、雑草はなくなり、視界が開ける。
あとは尾根沿いに山頂を目指すだけだ。
山崎城跡は、元暦年間(1184~1185年)に因幡守だった大江広元の子孫の因幡毛利氏の一族が居城としていた。
天文年間(1533~1555年)には、毛利中将が城主だったが、私都(きさいち)城主で同族だった毛利豊元の騙し討ちに遭い、落城したそうだ。
登山道を歩くと、堀切がある。
堀切から下方を覗くと、雑草に覆われて分かりにくいが、竪堀が見える。
途中曲輪があり、城の西側がよく眺められる場所があった。
途中堀切と土橋があったが、土橋の側面を石積みが固めていた。
この石積みの場所から歩くとすぐに主郭の切岸が見える。
主郭に登ると、東屋が建っている。山崎城址の石碑もある。
主郭は東西に細長い曲輪である。東屋がなければ、真っ平な広い曲輪を実感することが出来ただろう。
東屋の傍に礎石のようなものがあるが、山崎城跡の遺構かどうか分からない。
山崎城跡の斜面には、畝状竪堀なども残っているようだ。
中世には無数の山城が日本中に出来た。小さな山城であっても、そこに立て籠もって戦った人々がいる。
私たちの職場にも、その時の任務でたまたま集まって時間を共にした仲間というものがある。その仲間たちの場というものには、その仲間たちにしか醸し出せない空気がある。
この城に集まった人たちも、今では歴史の隅に埋もれてしまったが、きっと他にない
空気を醸し出していたことだろう。