新庄宿から北西に約3キロメートル走ると、谷深い山中に入る。
山道を走っていると、「後鳥羽上皇跡」と書かれた説明板が見えてくる。

ここは、承久三年(1221年)に発生した承久の乱に敗れ、隠岐に配流となった後鳥羽上皇が通過して、都を懐かしんで歌を詠んだ旧跡である。
後鳥羽上皇は、「新古今和歌集」を勅撰した、和歌に造詣の深い上皇であった。

上皇は、都から隠岐への道中、美作と伯耆の境であるこの場所を通過した際、しばし休憩した。
上皇の目には、はるか遠くの山を通る細い道が見えた。
従者が上皇に、「あれは都へ通る古い道で、今は誰も通りませぬ」と申し上げると、上皇は、「みやこ人 たれふみそめて 通ひけむ むかひの道の なつかしきかな」と歌った。



案内板の奥に向かって山道を歩いていくと、大正3年に時の宮内大臣渡邊千秋が先ほどの上皇の歌を書いた歌碑が建っている。
後鳥羽上皇は、隠岐に配流されてから18年後に配所で崩御した。上皇はついに懐かしんだ都の土を踏むことができなかった。
歌碑への道中に、清水が湧き出る泉があった。

御水池という。
後鳥羽上皇がここを通過してから112年後、元弘の乱に敗れて隠岐に配流されることになった後醍醐天皇が、道中この場所を通過した。
天皇は、後鳥羽上皇を偲んで、「伝へ聞く 昔語りぞ うかりけり そのへふりぬる みか月の森」という歌を詠み、この水を汲んだという。
後醍醐天皇は、後鳥羽上皇と異なって、隠岐を脱出し、再度都に君臨することが出来た。
近くには、岡山県天然記念物のしだれ栗がある。

後鳥羽上皇が栗の箸を使って食事をした後、箸を逆さに立てたものが成長したと伝えられている。
後鳥羽上皇の旧跡から新庄宿に戻り、そこから約2キロメートル北上すると、御鴨神社がある。



御鴨神社は、「六国史」の一つである「日本三代実録」の貞観十七年(875年)の条に、「御鴨神に従五位上を授く」という記事が見える国史見在社である。
祭神は、味遅鉗高日子根(あちしきたかひこね)神である。
この神は、大国主命と宗像三神の多紀理毘売(たきりびめ)命との間に生まれた神様で、「古事記」では別名を迦毛(かも)大御神と呼ばれている。



迦毛大御神は、古代葛城地方の豪族鴨氏の祖神とされている。
奈良県御所市の高鴨神社が全国の鴨(加茂、賀茂)神社の総本宮とされている。大国主が出雲の神であることを思えば、その息子の迦毛大御神が、出雲の近くのこの地に最初祀られていたことはあり得る話である。鴨神社の元宮は、この御鴨神社なのかも知れない。
神門を潜ると、急な石段がある。

石段を登りきると、拝殿が正面に見える。
この神社は、昔は神奈備山である宮座(みやくら)山を御神体として、その山中に拝殿があった。
応永二十六年(1419年)に宮座山の麓の神集(かづめ)に遷座し、延宝七年(1679年)に浦手の上の宮に遷座、宝永七年(1710年)に現在地に遷座した。



拝殿に近づいてみると、向拝の下に実に見事な彫刻が彫られている。



宝永七年(1710年)に建てられた建物ではないか。
本殿も雄勁な建物である。



「古事記」によれば、祭神の味遅鉗高日子根神は、天津神である天若日子(あめのわかひこ)命の葬儀に出た時に、天若日子と瓜二つであったことから、天若日子の父神から息子が蘇ったものと誤解されて抱き着かれた。
味遅鉗高日子根神は、死者と同一視されたことに怒って喪屋を蹴飛ばしてしまったという。
この説話は、農耕儀礼を象徴するものとも言われている。
いずれにしろ、暴れん坊の説話を残した味遅鉗高日子根神は、須佐之男命のような荒ぶる神のように思える。
最近私は、須佐之男命に象徴される出雲系の神々に、天津神の系統と異なる日本のもう一つの可能性を見出せるのではないかと考えている。