三條八幡神社から東に約200メートル歩いた南あわじ市市市(いちいち)の集落の中に、諾宮(わかみや)神社がある。
神社と言っても、鳥居もなく、小さな石の祠があるだけの場所である。目印は大きな石碑である。
諾宮神社のある場所は、かつて淡路の国司館があった場所とされている。
大化二年(646年)に、大化の改新の施策の一つとして、全国に国司、郡司が置かれることになった。
国司は、国の司法、行政、徴税を司る官で、今でいう知事と地方裁判所長と税務署長の役割を兼ね備えていた。
国司には中央の貴族が任命され、郡司には地元の豪族が任命された。
国司は、各国に置かれた国衙(こくが、国庁のこと)に赴任した。国衙は今でいう都道府県庁所在地のようなものだろう。
淡路国の国衙は、三原平野の市(いち)の辺りにあったという。そしてこの諾宮神社に国司の館があったと言い伝えられている。
今では、小さな石の祠があるばかりである。
さて、諾宮神社から北西に約300メートル歩くと、淡路国総社である十一大明神神社がある。南あわじ市市十一ヵ所にある。
各国には、総社と呼ばれる神社がある。その国の主な神様を集めて合祀した神社である。
国司は任地に赴任すると、先ず国中の神社に参拝した。そして年1回は国中の神社を参拝するのが仕事の一つであった。
だが、国中の神社を参拝するのはなかなかの重労働である。
いつしか国司は、国中の神様を集めた総社という神社を建て、そこに参拝することで国中の神社を参拝した代わりにするようになった。
そのため、総社は国司が参拝しやすいように、国衙の近くに建てられた。
今まで私が史跡巡りで訪れた場所で言えば、備前国総社宮と備前国庁跡は、すぐ近くにある。
美作総社宮と美作国府跡もほとんど隣同士と言っていい距離にあった。
播磨の国衙跡はまだ発掘されていないが、播磨国総社である姫路の射楯兵主神社の近くにあったのは間違いないだろう。
淡路国総社である十一大明神神社も、淡路国司館跡の諾宮神社の近くにある。
だが、永禄元年(1558年)に十一大明神神社の別当寺の社僧が書いたとされる記録によると、神功皇后が三韓出兵の成功を祈願するために同神社を創建したとのことである。
だがこれは伝説上のことで、実際は国司が登場する律令制度成立以降に建てられた神社だろう。
拝殿には、淡路島内の十一の神様の名前が刻まれた扁額が掛かっている。これら十一の神様を合祀し、統合した神名が、十一大明神である。
ここに参拝すれば、淡路島内の十一の神社に参拝したのと同じことになるのだろう。
境内には桜があり、3月21日にしては、早くも蕾がほころび始めていた。
国司制度は、室町時代に入るとその役割を終えてなくなってしまった。それと同時に、各国の総社は、特別な地位がなくなり、地元の神社の一つになった。
行政上の慣行も、信仰の形も、時代と共に変化していく。
大化の改新のころから変わらぬのは、この桜が咲く姿であろう。