岡山市 七曲神社

 妙覚寺の裏手にある臥龍山の麓にあるのが七曲(ななまがり)神社である。

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七曲神社

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参道の狛犬

 臥龍山頂の玉松城を拠点とした松田氏は、元々相模国御家人であった。
 承久の乱までは、鎌倉幕府の勢力は西日本には及んでいなかった。まだ西日本は朝廷の勢力下にあった。

 承久の乱に勝利した後、幕府は関東から御家人を西日本各地に送り込み、地頭職に任命することで西日本にも根を張った。

 松田氏も、承久の乱後に相模国からこの地に派遣され、地頭となった武家であるらしい。

 松田氏は、応仁の乱の際は赤松氏の配下となったが、その後赤松氏から独立して備前西部を勢力範囲とする国人となった。

 七曲神社は、長禄元年(1457年)ころに、松田氏の出身地である相模国七曲山から勧請され、創建されたと伝わっている。関東からやってきた神様だ。

 七曲神社の参道沿いには、難波抱節の碑や瀧善三郎義烈碑があった。

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難波先生碑

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瀧善三郎義烈碑

 瀧善三郎義烈碑は、昭和15年岡山藩池田家の後裔である侯爵池田宣政が書いた文を刻んだものである。
 私が義烈碑に参る前に、車から降りた参拝客が走って義烈碑に近寄り、紙に包んだ何かを奉納して、石碑に手を合わせて立ち去った。

 私が何が奉納されたのかと思って近づくと、蕾が出始めた梅の枝であった。

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奉納された梅の枝

 この時丁度空には雪が舞っていたが、知らず知らず、春は忍び寄ってきているのだ。

 また、参道脇には、日置氏の家臣で、七曲神社の神官だった小神冨春の歌碑があった。

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小神冨春の歌碑

 小神冨春は、天明四年(1784年)から安政四年(1858年)までを生きた人物で、国学者であると共に桂園派の歌人でもあった。

 歌碑には、「ことぢをも うづむばかりに うめちりぬ いづれのをより しらべそめてむ」という小神の歌が刻んである。

 「ことぢ」は、琴柱と書くそうだ。琴柱は、琴の糸の高さを調節するために、各糸の下に置かれる具のことである。

 歌意は、「琴柱を埋めるばかりに琴の上に梅の花が散り落ちている。どの緒(お、糸の事)から弾き始めたらいいのだろう」といったところか。

 さて、七曲神社の社殿は、長い石段を登った先の山麓の削平地にある。

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石段

 石段を登り切り、左に曲がると神門がある。

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神門

 神門の先には拝殿があり、その奥に本殿がある。

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拝殿

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本殿

 本殿は、オーソドックスな三間社流造で、杮葺きの屋根の上に今は銅板が葺かれている。

 本殿前に一対の備前焼狛犬がある。

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蟇股の彫刻

 この神社の祭神はよくわからない。

 備前松田氏は、関東御家人の末裔であったが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、関東の武家が西日本にやってきて在地領主となり、その後国人となって、戦国の世に離合集散した例は数多くある。

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拝殿の扁額

 私の出身地の兵庫県相生市も、平安時代末期に相模国海老名郷の武家であった海老名氏がやってきて領主となった地である。

 相生の地名は、海老名氏が相州生まれであることからつけられたという。

 相生市にある親盛寺という真言宗の寺院は、海老名氏が出身地の海老名郷から持ってきた守り本尊の観音菩薩立像を祀った寺だが、そこが私の父の菩提寺である。

 鎌倉時代に関東の武家が西日本各地に移住して根を張ったのは、歴史上の一転機だったと思うが、案外中世に移住してきた武家の記憶を伝えるものが、今も身近に残っているものである。