生野神社の参拝を終えて、国道9号線を東進し、京都府道9号線に入る。しばらく進むと京都府船井郡京丹波町に入る。
京丹波町三ノ宮にあるのが、酒治志(しゅじし)神社である。
酒治志神社の境内には、丈高い杉が林立している。
最近私は山に入って、木々が林立するのを見ると、これこそ自然界の神殿だと思うようになってきた。
人間が作った神殿よりも、自然界の神殿の方がスケールが大きい。神道は、元々建物を建てずに自然を神として崇拝した。私の考えも、本来の神道の信仰に近づいたようだ。
神社の古記録が往古の火災で失われているので、創建時期は分からない。ただ、酒治志神社の名は、「延喜式」神名帳に載っているので、10世紀初めには祀られていたようだ。
天保四年(1834年)に鎮座千年祭を執行したという記録があるそうなので、9世紀に創建された可能性がある。
境内に入ると、銅板葺の拝殿がある。その奥に、本殿への石段があるが、石段の両脇に杉の巨木が生えている。両方紙垂が垂れている。御神木である。
そして石段を登ると、元治元年(1864年)に建てられた本殿がある。
本殿向拝は、生野神社同様、前方に長く伸びている。
ところで、酒治志神社とは変わった名だが、昔は質志大明神と呼ばれていたという。
アイヌ語で山麓を意味する「シュチシ」という言葉から神名が来ているという説もあるそうだ。
日本の内地のあちこちに、アイヌ由来の地名が残っている。アイヌ文化は、実は日本文化の最古層である。
本殿は三間社流造である。かつては檜皮葺だったようだが、現在は銅板葺である。
本殿の脇障子の彫刻は、元々は見事なものだったのだろうが、今は破損が甚だしい。
本殿の西側には、摂社蛭子神社がある。
蛭子神社は、小さな神社だが、不思議と神威を感じた。
今日は、アイヌ由来の名前の可能性のある神社を紹介した。
アイヌの人々は、現在は北海道の一部に居住しているが、過去には日本列島北部にも居住していた。
アイヌが西日本に居住していたかどうかは分からないが、可能性がないことはないだろう。
アイヌの文化も、日本の歴史の一部である。日本内地の地名や祭儀や風習の中にも、未だ知られていないアイヌ由来のものがあるかも知れない。
日本の文化は、重層的な文化である。最も古くから日本列島に居住していたアイヌの文化は、その中でも基盤に当たるものかも知れない。