いずし古代学習館

 出石神社の参拝を終えて、出石神社の北側にある此隅山の山麓を巡り、山の北側にあるいずし古代学習館に赴いた。いずし古代学習館は、兵庫県豊岡市出石町袴狭(はかざ)にある出石川防災センターの建物内にある。

出石川防災センター

 この袴狭周辺には、弥生時代から平安時代にかけての遺跡や古墳が散在しているが、中でも古代出石郡衙の遺跡と見られる袴狭遺跡からは、建物跡や、役所で使用されていたと思われる文具や祭祀用具が多数見つかった。

発掘中の袴狭遺跡

 いずし古代学習館には、袴狭遺跡等の出石町内の遺跡の出土品を展示している。館の入る出石川防災センターの建物自体も、袴狭遺跡の跡地内に建っている。建物の東側に、遺跡の跡地があるが、今は遺跡の上に盛り土されていて、かつての面影はない。

袴狭遺跡の跡

 出石川防災センターに入ると、奥にいずし古代学習館の入口がある。入館無料である。

いずし古代学習館の入口

 今の豊岡市の市街地や出石の町並みのある豊岡平野は、山に囲まれた盆地になっている。

 今よりも気温が高く、海水面が高かった縄文時代には、豊岡平野は海底に没していたらしい。縄文海進と呼ばれた時代である。

縄文海進時代の豊岡平野

 現在地球温暖化で海水面の上昇が危惧されているが、恐竜の時代は今よりも遥かに温暖だった。

 縄文時代の前の時代は氷河期である。我々が住む今の時代は、これから100回は繰り返される氷河期と間氷期の中で、比較的温かい間氷期である。

 その間氷期の中でも、温かい時期と寒い時期があるようだ。縄文海進の時代は、今よりもかなり温かかった。縄文時代の遺跡が、北海道、東北地方や長野県に多いのは、現在比較的寒冷な地域が、縄文時代には過ごしやすかったことを示しているのだろう。

 但馬に伝わる伝説では、新羅から渡来した天日槍(あめのひぼこ)命が、円山川河口を塞いでいた岩を除去して、豊岡平野を覆っていた泥水を日本海に流し、肥沃な耕作地を造ったという。

 但馬で農業が開始される前に、豊岡平野が湿地だったという伝承である。縄文海進の影響は、当時まだ残っていたようだ。

農耕が開始されたころの豊岡平野の集落

当時の農作業の様子

 天日槍命の伝説がどこまで史実を伝えているかは分からぬが、縄文海進の後、地球の気温が低下して海水面が下がり、入江から湿地になった豊岡平野を、弥生時代の人々が開墾して田んぼにしていったのは事実だろう。

 付近の宮内黒田遺跡や袴狭遺跡から、当時の農作業に使われていた木製の道具が出土している。

木製の農具

火きり臼

 鍬や穂摘み具が木製なので、鉄器がまだまだ貴重品だった時代の農具である。畔塗りコテや「えぶり」といった田や畔をならす道具もここで初めて見た。

 当時の木製の道具が腐食せずに残っていたのは、これらの道具が埋まっていた地中が真空に近い状態だったからだろう。

 また、袴狭遺跡から出土した木板には、当時の木造船団の線刻画が描かれていた。

木造船団が描かれた板の複製

当時の木造船の模型

 天日槍命新羅から渡来した伝説から見て分かるように、当時には既に日本列島と半島を行き来する船があったようだ。

 農作物が豊富に取れる地域には村が出来、その村の長は豪族になった。豪族は村人が築いた古墳に埋葬された。

 館内に古墳時代中期の石棺が復元展示されている。播州高砂の竜山石が使用された石棺が出石からも出土している。また、被埋葬者が頭を載せていた朱色の石枕も古墳から出土している。

復元された竜山石製の石棺

被埋葬者が頭を載せた石枕

 袴狭遺跡は、古代出石郡衙の跡とされている。郡衙は郡の政庁があった場所のことである。

 古代の国司は都の貴族が任命されたが、郡司(郡の長官)には古墳時代に古墳に埋葬されたような地元の豪族が任命された。

古代出石郡衙の模型

郡衙で仕事をする役人の図

 郡衙の役人は、都に送る租税の管理や計算を行っていたことだろう。筆や墨、硯や水差しといった文具を使用し、木簡や紙に文字を書いて記録した。

 袴狭遺跡からは、これらの仕事道具などが出土している。

墨書土器

国府から出石郡司に宛てた木簡(裏に天平勝宝七年五月五日文と記載)

巻物を巻いた題籤

役人が使用した木靴や腰帯装飾品などの出土品

 また古代の宮廷や地方の役所では、木製の人形を川に流して災いを祓う祓の儀式が行われていた。
 このような宗教的な行事が役所の仕事だったというのも面白いが、古代の日本は祭政一致の国家だった。

祓の儀式に使われた人形の板

 袴狭遺跡からは、祓の儀式に使われた人形も出土している。

 国司の仕事として、国内の神社に参拝することもあったそうだ。郡司も郡内の神社には参拝したことだろう。
 また、袴狭周辺の遺跡からは、古代の楽器類が出土している。中でも琵琶は、全国で唯一の出土例であるらしい。

古代の楽器の出土品

 これらの楽器も、娯楽のためというより、宗教的な祭儀に使用するためのものだったのではないか。

 古代人の生活は、今よりも自然の影響を受けていた。気候が悪く農作物が不作になれば、国の税収が落ちて餓死者が出た。気候が人々の生死に直結していた。

 そんな時代には、人々は神々に祈るしかなかっただろう。

 考えてみれば人間は、こんな薄い皮膚1枚で外界と接しているのだ。そう思えば、神々に祈った古代人の気持ちも分る気がする。