青谿書院の見学を終え、国道312号線を北上すると、豊岡市に入る。豊岡市は、但馬地方の中心となる都市である。
豊岡には、奈良時代以降は国府や国分寺が置かれた。当時から但馬地方の中心だったようだ。
豊岡市日高町祢布(にょう)に、国道312号線の祢布交差点があるが、この交差点付近が、かつて但馬国府があった場所とされている。
祢布交差点付近からは、但馬国府跡の祢布ヶ森遺跡が発掘された。
「日本後記」延暦二十三年(804年)の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるそうだ。別の場所に国府があって、ここに移転したらしい。この移転後の国府跡が祢布ヶ森遺跡から発掘された。
祢布に遷った国府を、第二次但馬国府と言うが、第一次但馬国府がどこにあったかはまだ分かっていない。
祢布交差点から約100メートル東に行くと、祢布ヶ森遺跡公園がある。発掘された遺物を展示している訳ではないが、ここに国府があった記念として造られた公園だろう。
祢布交差点の北西には、豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」がある。
黒塗りの目立つ建物だ。
平成17年3月にオープンした博物館で、但馬国府、国分寺に関する発掘資料のみならず、縄文時代から明治時代までの豊岡市から発掘された歴史資料を展示している。
エントランスホールには、遣唐使船の模型が展示してある。第二次但馬国府の時代は、丁度遣唐使が派遣されていた時代である。
ところで第二次但馬国府が成立した延暦二十三年(804年)は、最澄、空海が遣唐使船に乗って唐に渡った年である。
二人もこんな小さな船で、東シナ海を渡ったことだろう。遣唐使船は、往復路でよく遭難したそうだ。
最澄・空海がその後の日本文化に齎した影響の大きさは、言葉で言い表せないほどである。
私は今まで数多くの天台宗や真言宗の寺院を訪れ、両宗派の影響を受けた寺社や信仰の山を見てきたが、もしこの二人を乗せた遣唐使船が途中で沈没していたら、それらの寺社どころか、比叡山も高野山もなかったわけで、比叡山から巣立った栄西、道元、法然、親鸞、日蓮といった鎌倉仏教の祖師たちも出て来なかったことになる。
二人の高僧が唐から無事に帰って来れたのは、まさに天運だったと思う。
歴史博物館の中は、定番のように縄文時代の遺物から展示されている。
上の写真の石皿、敲石は、今から約5000年前の神鍋高原の縄文時代の遺跡から発掘されたものである。
木の実を磨り潰すのに使われたのだろう。
神鍋高原は、兵庫県のスキー場として著名な高原である。
縄文時代の中頃は、気候が今よりも温暖で、今の豊岡盆地も海中に没していた。
そんな時代には、現代には冬になれば積雪する神鍋高原も、温暖な気候で、植生が豊富だったことだろう。
また西日本では出土が珍しい縄文土器もあった。豊岡市辻の辻遺跡から出土した約2500年前の土器である。
縄文土器を見て不思議なのは、1万年以上続いた縄文時代のどの時代の土器からも、日本列島のどこから出土する縄文土器からも、共通の精神性が窺われることである。当時の人達は、意外と広範囲に交流していたのかもしれない。その鍵となるのは、航海技術だと思う。
さて、祢布ヶ森遺跡や周辺の遺跡から出土した国府関係の遺物で珍しいのは、国府の役人が文字を書いた木簡や木片である。
中には、木の板に中国最古の詩集「詩経」の注釈書の内容を筆写したものがあった。
平安時代初期には、地方の官庁でも漢籍が受容されていた証である。
また、当時はまだまだ紙が貴重品だったことが分る。
面白いのは、当時の役人が九九の計算をしていたのが分る木板が展示してあったことである。
何だか一挙に当時の役人に親しみが湧いた。平安時代の人達も、九九八十一とやっていたわけだ。
館では、国府での役人の仕事ぶりを、絵で展示してあった。
当時の役人たちは、木の人形(ひとがた)に自分の罪悪や病気を移して、それを川に流して穢れや災厄を祓うという儀式を行っていたようだ。
付近の遺跡からは、これらの儀式に使われた人形の木片も出土している。
年末になれば、私の氏神の神社からも、氏子たちに人形の紙が配られる。その人形で体を撫でてから、神社にお返しする。
キリスト教のように、生まれてから死ぬまで人間は罪を背負っているというのではなく、毎年紙や木に罪を託して捨てればその都度リセットされるという神道のおおらかさが好きである。
また、祢布ヶ森遺跡から出土した、国府で使われた食器や、当時の国司の食事を再現したものが展示してあった。
国司と言えば、現代の知事のような立場だが、なかなかいい食事をしていたようだ。
朝廷の力の衰微と共に、国府は有名無実化し、室町時代には完全消滅する。地方は守護大名が支配するようになる。
展示品を見て、時代と共に、人々の生活水準は上がるし、社会制度も変化しているが、人が衣食住の快適を求めるという根幹は揺るがないと感じた。