正福寺の参拝を終え、次なる目的地である豊岡市下宮の久々比(くくひ)神社に赴いた。
久々比(くくひ)とは、鵠(こう、くぐい)のことで、コウノトリの古名である。
久々比神社の創建年代は分かっていない。
「日本書紀」の垂仁天皇二十三年冬十月の条にはこのような説話が書いてある。
垂仁天皇の皇子であった誉津別(ほむつわけ)皇子は、30歳になるまで言葉を発することがなかった。
垂仁天皇二十三年冬十月、天皇が皇子を伴って宮殿の前に立つと、上空を一羽の鵠が飛んでいるのが見えた。
皇子は天皇の前で、「あれは何という鳥ですか」と言葉を発した。
皇子が言葉を発したことに天皇は喜び、「誰かあの鳥を捕えて献上せよ」と命じた。
それを聞いた家臣の天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が、「私が必ず捕えて献上します」と言い、鵠を追いかけた。
天湯河板挙は鵠を追いかけ、出雲か但馬でこれを捕え、天皇に献上した。その日以降、皇子は人並みに話し始めたという。
久々比神社とこの説話の関連は分からない。
久々比の地は、古くから鵠すなわちコウノトリが棲む場所であった。地元では、天湯河板挙がコウノトリを捕えたのはこの地であると伝承されている。
そしていつしかコウノトリが多く棲むこの地に、木の神久々能智命(くくのちのみこと)を祀る久々比神社が建てられたという。
久々比神社の本殿は、発見された墨書から、永正四年(1507年)に再建されたものだと分かっている。
本殿は、三間社流造、杮葺きで、地元住人小畠勘右衛門の作であるという。
本殿は、元禄十五年(1702年)に向拝と縁回りの修復がなされたそうだが、室町時代中期の古式を残している。確かに木材も古く、いい色合いを出している。
本殿は国指定重要文化財である。
また、久々比神社は、古くは胸形(むなかた)大明神と呼ばれていたそうだ。
ある時に、祭神に変遷があったのかも知れない。
本殿の向かって右手に丈高いご神木の杉があり、その傍に摂社の八幡神社があった。
八幡神社の本殿は、緑色の屋根の覆屋に覆われている。
本殿の彫刻は、新しいが立派なものであった。
私が覆屋の中の本殿を拝見していると、境内で清掃作業をしておられた男性が、「その彫刻いいでしょう。明治時代の作ですよ」と声をかけて下さった。
確かに見とれるほど確りした彫刻だ。
私は男性に、「そうですね。いいものですね」とお答えした。
ここにきて、永正と明治の名作を拝ませてもらった気分である。私は充実した気持ちで神社を後にした。
次に、久々比神社から南下し、北近畿タンゴ鉄道宮津線の高架を潜って、豊岡市鎌田にある真言宗の寺院、文常寺を訪れた。
文常寺本堂の厨子の中には、秘仏である二体の木造聖観音立像がある。一体は平安時代末期から鎌倉時代にかけての作で、国指定重要文化財となっている。
もう一体は、ヒノキの一木造りの像で、平安時代の作と伝えられている。兵庫県指定文化財になっている。
秘仏なので、当然拝観できない。
本堂の蟇股には、コウノトリの彫刻があった。
また何故か本堂前に金毘羅大権現の扁額があった。
この本堂に金毘羅大権現を祀っているようには見えない。近くの豊岡市野上に金刀比羅神社があるが、そこと何か関連があるのだろうか。よく分からない。
古くから霊鳥とされるコウノトリは、絶滅の危機に瀕したが、今は国の特別天然記念物として保護され、この豊岡の地で、放鳥されて大空を舞うようになるほど復活してきている。
久々比神社と文常寺の神仏も、有難くもコウノトリを見守って下さっている気がする。