福知山市 大原神社 前編

 酒治志神社の参拝を終え、国道173号線を西進すると、再び福知山市に入る。

 福知山市三和町大原にある大原神社を訪れた。

大原神社

 大原神社は、小高い丘の上にある。今はその小高い丘の側面が石積み擁壁に覆われている。

 大原神社の創建は詳らかではない。元は丹波国北桑田郡野々村樫原に鎮座していたそうだが、仁寿二年(852年)に現在地に遷座したという。

参道の階段

 天正年間(1573~1592年)に明智光秀丹波に攻め込んだ時に戦火に遭い焼失したが、明暦年間(1655~1658年)に旧態に復したという。

 九鬼氏が綾部藩の藩主になってからは、歴代藩主によって庇護された。今の社殿は寛政八年(1796年)に九鬼氏により再建されたものである。

拝殿

 大原神社の拝殿は、黒くくすんだ渋い色彩をしているが、彫刻が豪壮であり、見ると圧倒される。

拝殿

拝殿唐破風の彫刻

 この拝殿の神獣の彫刻は、中井権次一統の五代目中井丈五郎橘正忠と久須善兵衛正清の合作である。

 中央の巨大な龍の彫刻のみが、六代目中井権次橘正貞が天保三年(1832年)に彫ったものである。

 私は向拝の唐破風の周辺を回り、舐めるように中井権次一統の彫刻作品を堪能した。

唐破風の彫刻

兎毛通(うのけどおし)の鳳凰

木鼻の獅子と持ち送りの菊の彫刻

木鼻の獅子と獏の彫刻

虹梁の上の龍の彫刻

 それにしても見事な彫刻群だ。丹波に名彫物師中井権次一統あり、である。

拝殿前の銅製の狛犬

拝殿の側面

拝殿頭貫の彫刻

 大原神社の祭神は、伊弉冉尊天照大神、月弓尊の三柱の神である。安産の神様として有名で、江戸時代には近隣諸藩の身籠った女性は必ず参拝したという。

 本殿は桁行三間、梁間二間で檜皮葺の切妻造である。

本殿

 拝殿、幣殿、本殿は、揃って京都府指定文化財になっている。

 本殿から西には、摂社火神神社への参道が続いている。

火神神社への参道

 その途中、五社と七社という末社があった。

 七社は、七柱の神様を祀る祠だが、七社の左端にあるのが飛瀧峯社(ひろうほうしゃ)という祠であった。

七社 左端が飛瀧峯社

 伝説によると、大原神社がこの地に遷座された時、社前を流れる川の底から鮭が浮かび出てきた。鮭魚化神(さけのけしん)という神様であった。

 鮭魚化神は、「吾この水底に住みて山を守ること数千年。この山嶺に白和幣(にぎて)、青和幣ありて常に光を放つ。実に大神の鎮まり給うべき霊地なり。この地に悪しきことある時は鱒現れ、又不浄のことあれば鮭浮かび出る」と宣った。

 それ以来、ここ飛瀧峯社に鮭魚化神を斎き祀るようになったという。

 さて火神神社に祀られているのは、火之迦具土(ほのかぐつち)神である。

火神神社

 火之迦具土神は、日本列島や風、山川草木などの自然現象の神々を生み出した伊弉冉尊が最後に生んだ神様である。

 火の神を陰部から生んだことで、伊弉冉尊の陰部は焼けて、病にかかってしまう。病に倒れた伊弉冉尊の吐瀉物からは金属神が、糞尿からは肥料に関する神々が生まれた。これらは農業に関する神様である。

 「古事記」を読んでいると、伊弉諾尊伊弉冉尊が、日本の国土だけでなく、農業や漁業に関連する自然現象や日月星辰の神々を生み出していたことが分る。

 「古事記」という書物が編纂されたのは宮廷からだが、その書物の最初に日本の庶民の生業に直結する神々が書かれているのが面白い。

 「古事記」の神話は、古代日本人の精神世界を如実に写し出している。その神話の神々を祀る神社が現存することで、日本の古代人の精神世界は現代に生きていると言える。

 日本とは、本当に面白い国である。