金心寺の参拝を終えてから北上し、三田市貴志にある御霊神社を訪れた。
御霊神社の創建については、詳細は分からない。
明治2年の神仏分離に際して、御霊神社を管理していた社坊金性院が廃寺となり、記録が散逸してしまったためである。
祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大比古(おおひこ)命、比売(ひめ)神、鎌倉権五郎景政であるという。
古老の話では、ここには古くから大比古命を祀っていて、昔は貴志神社と呼ばれていたという。
大比古命は、「古事記」に出てくる大毘古命のことであろう。大毘古命は、第8代孝元天皇の子で、第10代崇神天皇の伯父である。
崇神天皇が全国統一のために派遣した四道将軍の1人で、北陸から会津までを攻略したという。阿倍臣の祖とされている。
大比古命がなぜこの地に祀られているのかは分からない。
また鎌倉景政は、平安時代後期の武将で、後三年の役で活躍した。鎌倉に拠点を置いた武将である。
相模国鎌倉郡にある御霊神社は、そのほとんどが祭神を鎌倉景政とするらしい。
鎌倉時代に当地の豪族貴志氏が関東御家人となった縁により、鎌倉から武勇に優れた鎌倉景政の神霊をこの地に勧請して、それまでの祭神と合祀し、御霊神社と改称したのだという。
御霊神社の拝殿は、瓦葺の古い建物であるが、建立された年代は分からない。
拝殿の背後に建つ本殿は、延文四年(1359年)に焼失した本殿を再建したものである。
内陣厨子の扉裏に文明二年(1470年)の墨書があり、この年に再建されたものと分かっている。
本殿は、三間社春日造、檜皮葺で、神仏習合の痕跡を残す貴重な遺物で、国指定重要文化財となっている。
向拝や身舎(もや)正面や側面の蟇股の彫刻は、神仏習合の痕跡を残している。
上の写真の向拝蟇股には、十一面観世音菩薩を表す梵字のキャ字が彫られている。
観音菩薩を本地仏とするのは、伊弉冉尊である。伊弉冉尊は、御霊神社の祭神の一柱である。
本殿右側面の蟇股には、3つの宝珠が彫刻されている。真言宗では、三宝珠は稲荷神を表している。
お稲荷さんは、今の御霊神社の祭神にはいないが、この宝珠があるということは、過去に祀られていたことがあった証左であろう。
また本殿左側面の手前の蟇股には、大黒さんと戎さんの彫刻、奥の蟇股には獅子と牡丹の彫刻が為されている。
神仏が習合した中世日本の信仰の姿が目に浮かぶ彫刻群である。
境内には、昔から茶臼石と呼ばれている不思議な形をした石がある。
これらの不思議な形をした石は、奈良にある酒船石と同じ種類のものだろうと言われている。
江戸時代に、ある人がこの石を三田藩主九鬼氏に献上した。殿様はこれを庭石としたが、石が夜な夜な「貴志に帰りたい。貴志に帰りたい」と泣いたことから、殿様は困って石を元の御霊神社境内に戻したという。
御霊神社では、毎年10月の第二月曜日には、神輿を飾り、田楽の吉志舞が奉納される。吉志舞には、ホヤホヤ踊りとカエル踊りの二種類があるらしい。
木造建築物が大半を占める日本では、古代や中世の建物は僅かにしか残っていない。
そんな貴重な建物の中に、中世を感得することが出来るものが残っている。
古くから伝わるものを残すということは、時間の蓄積を残すということでもある。