夢中山幻住寺

 萩丸城跡を散策した後、山中の道を東に走り、岡山県久米郡美咲町北にある曹洞宗の寺院、夢中山幻住寺を訪れた。

幻住寺

 幻住寺の創建は、大同四年(809年)だという。その頃には、まだ日本には曹洞宗はなかったので、この寺は別の宗派の寺だったことだろう。

 幻住寺の山号は、元々は髻(もとどり)山と称していたらしい。

 元弘二年(1332年)、後醍醐天皇が元弘の変で敗北し、鎌倉幕府に捕らえられ、隠岐に配流される途中、美作国の院庄に立ち寄り、約1週間滞在した。

仁王門

仁王像

 院庄での天皇の夢に老僧が現れ、「私はここより西の髻山の僧です。ご落胆なさいますな。きっと救われることでしょう」と告げたという。

 後醍醐天皇が髻山に使いを派遣したところ、夢に出て来た老僧と同じ僧が古寺に住んでいた。

 老僧の予告通り、隠岐を脱出し、京に戻った後、天皇は髻山の僧を厚くもてなし、夢中山の山号と山林田畑、伽藍を下賜したという。

仁王門の二階

 仁王門の前に花が飾られている。よく見ると、大和尚が最近逝去したことを示す立て看板があった。

山門不幸の看板と花

 高僧と言えども、無常の風を避けることは出来ない。

 寺の中興の祖は、大叟樹元(たいそうじゅげん)で、寺は永享五年(1433年)に再度開山されたらしい。

石段

 仁王門を抜けると、境内まで長い石段が続く。石段の左右に並ぶのは、躑躅である。躑躅が咲く季節には、さぞ美しい景観を見せてくれることだろう。

幻住寺

 幻住寺は、室町時代には幻住庵と呼ばれていたらしい。芭蕉が旅の合間に住んだ庵と同じ名である。

 幻住寺は、当時は江原佐次(すけつぐ)、中村則久といった在地国人衆が信仰していたそうだ。

 幻住寺は2度の戦火と失火で伽藍が焼失した。現在の伽藍は、文政年間(1818~1829年)に再建されたものである。

 境内に入って左手には観音堂がある。

観音堂

 この観音堂は、曹洞宗美作観音霊場第三番であるらしい。

 本堂は銅板葺の均整が取れた美しい建物である。

 本堂には、禅寺のこと故、釈迦如来を祀っていることだろう。

本堂

本堂の唐破風と向拝

向拝の彫刻

 本堂からは、寺の関係者の声が聞こえる。中を覗くと、かなり広々とした空間である。

本堂内部

 本堂の襖絵は、新しいものと思われるが、立派な獅子の絵である。

獅子の襖絵

 その前には、どんな時に使うか分らぬが、巨大な木魚がある。

御本尊

 本堂奥には金色の釈迦如来坐像が祀られている。曹洞禅は、釈迦直系の座禅を継承しているとされている。

 只管打坐という、ひたすら座るという教えの潔さに魅かれ、大学時代には道元の著作を読んだり、研究書を読んだり、一人で座禅の真似事をしたりしたが、本来はしっかりした指導者の下で座らなければならないものである。

庫裡

庫裡の入口

庫裡の彫刻

 曹洞宗と言えば永平寺だが、私は25歳の時に仕事で悩んで、仕事を辞めて出家してみようかと考えたことがある。
 仕事を辞める前に、野々村馨氏の「食う寝る坐る 永平寺修行記」という本を読んでみた。
 野々村氏は仕事を辞めて出家して永平寺に入り、1年間雲水として修業した方である。山を降りてから、体験記を執筆された。

 この本を読んで、永平寺での修行が予想以上に厳しいものであると分かった。今の自分の仕事の方が、永平寺に比べればはるかに楽だなと思った。

 そして、やはり今の仕事を続けようと決心した。

 何事に対しても、真剣に向き合うということは、エネルギーを使うことである。当時の私には、それが出来ていなかった。

 曹洞宗の寺院に来るたびに、一筋の座禅という言葉の持つ妥協を許さぬ厳しさに、身が引き締まる思いがする。