高田屋嘉兵衛 前編

 かつて司馬遼太郎が「菜の花の沖」という小説に書き、江戸時代を通して日本で一番偉かった人物と評した高田屋嘉兵衛

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高田屋嘉兵衛肖像画

 この人物は、兵庫県洲本市五色町都志出身の豪商で、航海術や商才に長けていた。その能力を幕府に見込まれて、蝦夷地や千島列島の開発を依頼され、当地を発展させた。

 そして日本とロシアの紛争に巻き込まれて、ロシア側に捕らえられたが、最終的には両国の紛争を解決に導いた。

 この波乱万丈の生涯を生きた男は、果たしてどんな人物なのか。

 都志の中心部には、広壮な嘉兵衛の邸跡が公園として整備されている。

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史跡 高田屋嘉兵衛旧邸跡

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高田屋嘉兵衛旧邸跡の石碑

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厩があったころの高田屋嘉兵衛旧邸跡

 高田屋嘉兵衛は、明和六年(1769年)に淡路国津名郡都志本村の百姓弥吉の長男として生まれた。幼名は菊弥という。

 7歳の時に、村の医師から読み書きを習ったが、そのころ都志川の河口で潮の干満時刻を調査し、周囲を驚かせた。

 13歳で家を出て、都志浦新在家の親類の家で漁業と商業を学んだ。

 若いころから、操船技術に卓抜した才能を見せた嘉兵衛は、22歳で兵庫に出て、堺屋喜兵衛方に身を寄せ、水主(かこ)として働いた。

 24歳で表師(船の進路を指揮する役)に出世し、25歳で沖船頭(雇われ船頭)になった。

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大正4年に建立された高田屋嘉兵衛顕彰碑

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 26歳の時に沖船頭を一時辞めて、紀州熊野沖で大規模なカツオ漁を行った。
 27歳で再び沖船頭になり、出羽国酒田まで航海した。

 寛政八年(1796年)、28歳の時、嘉兵衛は千石船・辰悦丸を建造する。

 寛政十年(1798年)、30歳の時に、嘉兵衛は和泉屋伊兵衛から辰悦丸を譲り受け、ついに船持ち船頭として独立した。屋号を高田屋と称して廻船業を営むことになった。

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辰悦丸の1/30の模型

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高田屋顕彰館・歴史文化資料館の1/2の辰悦丸模型

 辰悦丸は、瀬戸内海から日本海を通り、蝦夷地(北海道)まで航海した船で、尖った船首に幅広い胴を持ち、船尾に大きな舵を下げていた。長い帆柱に大きな一枚帆を張った大型船であった。また帆だけで推進することが可能だったため、少数の船員で運航できて経済的な船だった。

 嘉兵衛はこの船を使って兵庫津を拠点に蝦夷地と交易し、函館に高田屋の支店を構えた。

 現在の函館や根室の町を開いた功労者は、高田屋嘉兵衛なのである。

 高田屋嘉兵衛旧邸跡には、高田屋嘉兵衛翁記念館があるが、閉館していた。

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高田屋嘉兵衛翁記念館

 私は高田屋嘉兵衛旧邸跡から、都志の町を見下ろす丘上にあるウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)に向かった。

 ここには、高田屋嘉兵衛に関する様々な資料を展示公開している高田屋顕彰館・歴史文化資料館がある。

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高田屋顕彰館・歴史文化資料館

 この館の前には、高田屋嘉兵衛ロシア海軍の提督ゴローニンの銅像「日露友好の像」がある。この像は、ロシア芸術会会員の彫刻家が造ったものである。

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日露友好の像

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 樺太蝦夷地、択捉島の日本人集落をロシア艦が襲撃し、日露間に緊張が高まっていた文化八年(1811年)、幕府は国後島沖でロシアの軍艦ディアナ号を拿捕し、艦長ゴローニンを捕えた。

 その翌年、ディアナ号副艦長だったリコルドは、ゴローニンを解放する交渉手段として、国後島沖を航行していた高田屋嘉兵衛を捕えた。

 カムチャッカ半島に連れていかれ、抑留された嘉兵衛は、リコルドに対し、日露間に横たわる誤解を解き、幕府を説き伏せてゴローニンを釈放させる方法があるから自分を解放して日本に戻すよう迫った。

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高田屋嘉兵衛とリコルドの議論の様子を刻んだブロンズ像

 リコルドは豪快で実直な嘉兵衛の人柄を信じて釈放した。蝦夷地に戻った嘉兵衛は幕府の役人に対し、日露間に存在する誤解を説明し、ゴローニンを釈放するよう説得した。

 結果、ゴローニンの解放と日露間の和解を実現した。

 釈放後、日本に抑留されていた間に見聞したことを「日本幽囚記」に書いたゴローニンは、高田屋嘉兵衛のことを、「この世で最も素晴らしい人物」と称えた。

 今ロシア軍のウクライナ侵攻のニュースが世界中を揺るがしている。

 世界でロシアバッシングが起きている今、日露間の友好を成し遂げた高田屋嘉兵衛のことを紹介するのは皮肉な巡り合わせである。

 戦争は、自分たちの共同体の利益を守りたいという気持ちと、共同体を侵そうとする他者への警戒心から発生する。

 今回のロシアーウクライナ戦争もまさにそこから発生している。

 この共同体による自己防衛本能と他者への警戒心は、人間が生き延びるために必要なものなので、無くなることはない。

 そのため人類社会から戦争がなくなることは今後もあり得ないが、高田屋嘉兵衛の行動は、人間同士の争いの原因である、他者への疑心や警戒心を解く方法を教えてくれるような気がする。