淡路巨石巡りを終えて、兵庫県洲本市五色町都志(つし)にある真言宗の寺院、平砂山浄土寺に参拝した。
浄土寺の創建の詳細については、よく分からない。
ただこの寺院には、大宰府配流途上の菅原道真公が立ち寄ったという伝承が残っている。そのころには浄土寺は開かれていたものと思われる。
境内に入ると、本堂、弥勒堂、稲荷大明神が並んでいるのが目に入る。
境内の西側には、兵庫県指定文化財の宝篋印塔がある。この宝篋印塔は、元々は近くの共同墓地にあったものだという。
この宝篋印塔は、花崗岩製である。基礎、塔身、笠、相輪が完存する高さ約291センチメートルの巨塔で、その風格、容姿の美しさは、淡路石造美術品中の優品と言える。
この宝篋印塔の基礎南面左と西面左右には、「為法界衆生往生 極楽造立趣如件 延文五年(1360年)庚子十月十日」と刻まれているそうだが、眼を凝らしても文字が風化していて読めなかった。
宝篋印塔の南側に、その銘文を刻んだ石碑が建っていた。
この宝篋印塔が珍しいのは、笠の隅飾りにも月輪で囲まれた種子が刻まれていることである。
確かに隅飾りに種子が刻まれた宝篋印塔は見たことがない。
宝篋印塔を見学した後は、真言宗寺院には必ずと言っていいほど祀られているお稲荷さんに詣でた。
弘法大師空海が、東寺の守護神として稲荷大神を勧請して以来、真言宗寺院と稲荷神は密接な関係がある。
今でも京都の伏見稲荷大社の大祭では、大社の神輿が東寺の通用門に立ち寄り、東寺の僧侶から御供と読経を受ける習わしになっている。
弥勒堂は、小さいながらも斗栱の組物と彫刻が見事なお堂であった。
弥勒堂の前で弥勒菩薩の真言を唱えて、今後の史跡巡りの無事を祈った。
弥勒堂の隣の本堂は、広壮な建物である。
本堂の厨子内には、十一面観世音菩薩立像が祀られている。これが御本尊である。
政敵藤原時平の讒言により失脚した道真は、延喜元年(901年)に、九州大宰府に左遷されることになり、瀬戸内海沿岸の各地に立ち寄りながら、水路九州を目指した。
都志は、播磨灘に面した淡路島西岸の港町である。しかし、九州行きの航路から大きく南に逸れるこの地に何故道真公が立ち寄ったかは謎である。
道真公が立ち寄った場所は、天満宮が建てられたり、遺跡として保存されたりと、現在までゆかりの地として伝承されている。
訪れた所が悉く聖地になるという人物は、日本の歴史上、神功皇后、菅原道真、弘法大師空海くらいしかいない。
この三者に共通するのは、天地を動かす霊力を発揮したところだろう。道真公が霊力を発揮したのは、没後の事だが。
本堂前には、道真公が自ら植えたとされる神愛の松がある。
今の神愛の松は、三代目の松だという。
境内の南東側には、道真公がそこから汲まれた水を賞美したという菊水井がある。
浄土寺に立ち寄った道真公に、地元の漁師が井戸から汲み上げた水を蛸壷に盛って奉った。
道真公は水の美味を賞美し、井戸の近くに菊が咲いていたのを見て菊水井と名付けたという。
今の井戸は、嘉永七年(1854年)に再興されたもので、20世紀後半には淡路名水の一つに数えられ、多くの人に愛飲されたという。
しかし、平成11年の道路拡張工事により、元の位置から北北西に9メートル動かされたという。それが現在の菊水井だ。
この寺のある淡路島西岸は、空が抜けるように青い。淡路島西岸は、播磨灘に面していて、畿内と九州を結ぶ瀬戸内海の東端に当る。
古代の人は、九州や中国大陸に向かうに当って、風待ち波除けのため、淡路島西岸に寄港したかも知れない。
今でも淡路島西岸から広々とした播磨灘を望むと、古代人が感じた期待に満ちた感情が、分かるような気がする。