芦田均記念館 前編

 鎌倉山清薗寺を参拝したことで、「兵庫県の歴史散歩」下巻に載る兵庫県側の丹波国の史跡は全て訪問し終えた。

 これからは、京都府側の丹波国の史跡巡りが続くことになる。丹波国の面積の2/3は現在の京都府の領域になるので、丹波の史跡巡りはこれからもまだまだ続くことになる。

 清薗寺から国道175号線を北上し、京都府福知山市に入る。

 舞鶴若狭自動車道六人部(むとべ)PAの近くにある芦田均記念館を訪れた。地名で言えば、京都府福知山市大内になる。

芦田均記念館

芦田均の胸像

 芦田均は、戦前は法学博士、外交官、帝国議会議員として活躍し、戦後は引き続き国会議員を務め、閣僚を経験し、日本国憲法の制定に携わり、昭和23年に第47代内閣総理大臣になった人物である。

 いわゆるリベラリストとして知られ、昭和30年の自由民主党の設立にも参加した。

 芦田は明治20年(1887年)に京都府天田郡中六人部村の村長芦田鹿之助の五男として生まれ、幼いときはガキ大将で有名であった。

芦田均が実家で愛用した机

 学業成績は優秀で、柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)を首席で卒業し、東京の第一高等学校に進学した。

 当時の第一高等学校の校長は新渡戸稲造で、教員に夏目漱石がおり、後輩に谷崎潤一郎和辻哲郎がいるなど、文学的な雰囲気のある環境であった。

 明治40年、芦田は東京帝国大学法学部に進学した。

 大正元年、芦田は25歳で外務省に入省し、大正3年、ロシアのペテルブルクに赴任した。1917年のロシア革命を現地で目の当たりにする。

 第一次世界大戦中の1918年にフランス・パリに赴任した。ベルサイユ講和条約に際しては、日本の全権委員である西園寺公望牧野伸顕随行する。

芦田の外交に関する著作

 芦田は、大正12年に外務省情報部第二課勤務を命ぜられ、帰国した。

 芦田は欧州での豊富な外交経験から得た知見を著作にまとめて出版したり、講演することで公表した。

 昭和4年には、東大から法学博士の学位を授けられる。

東京帝大から授けられた法学博士の学位

 外交官、法学博士だった芦田が政治家への道を歩み始めたきっかけになったのは、昭和6年に発生した満州事変であった。

 満州に駐留する関東軍が、政府や陸軍中央の意向を無視して勝手に軍事行動を起こし、瞬く間に満州一円を制圧した。

 政府は関東軍の独走を止めようとしたが、結果的に満州が日本の勢力圏に入ったので、関東軍の独自の軍事行動を事後追認した。

 昭和7年には、関東軍満州に隣接する熱河省に進出し、北京に迫った。

 欧米を中心とする国際社会は、日本の中国大陸進出を非難した。

 欧州で外交経験を積んでいた芦田は、日本が国際社会で孤立していくことに危機感を抱き、政治家になって軍部の専横を止めようとした。

 昭和7年、芦田は衆議院議員に立候補して見事当選し、議会議員になる。

 議員になった芦田は、議会で政府や軍部の大陸政策を批判した。

 しかし一議員の力では、如何ともしがたかった。日本は世界を相手にする戦争に突き進んで行った。昭和20年8月9日のソ連参戦により、日本はアメリカ、ソ連、中国、イギリスを同時に相手にすることになった。最終的に日本と戦争状態になった国は世界100ヶ国を超えた。

 世界史上、米中露の三大国を同時に相手にした国は日本だけだし、今後もそんな国は出てこないだろう。

 昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託して降伏した。大日本帝国陸海軍は武装解除し、日本は連合国軍の占領下に置かれた。

 昭和20年10月、親英米派の幣原喜重郎内閣が成立し、芦田は厚生大臣になった。

幣原喜重郎内閣

 芦田は、幣原内閣の閣議で、大日本帝国憲法改正の必要性を唱えた。

 昭和21年2月、GHQ憲法草案(マッカーサー草案)が日本政府に示された。

 同年5月、自由党吉田茂内閣が成立し、憲法改正の議論が進められた。

 同年6月、第90回帝国議会に帝国憲法改正案が提出される。帝国憲法改正案委員会が設けられ、芦田が委員長になった。

 同年7月から、芦田委員長以下の小委員会で、各会派が出した修正案を調整した。

 同年8月、修正案が衆議院で可決され、同年10月、貴族院でも可決する。

 同年11月3日、日本国憲法が公布された。

 昭和22年5月3日、日本国憲法が施行された。

日本国憲法施行の日、芦田が昭和天皇を先導した時に被った山高帽

 こうして見ると、現憲法の大枠はアメリカが示し、その後日本側が議論して一部修正して成立したことが分る。

 ところで、芦田均と言えば、アメリカ案を元に出来た憲法第9条に修正を加えた(いわゆる芦田修正)ことで知られる。

 憲法第9条には、こう書かれている。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 芦田は、憲法草案の第9条第1項に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を追加し、第2項に「前項の目的を達するため」の文言を追加した。

 第1項は、いわゆる戦争放棄と言われる項目だが、憲法解釈では、第1項は侵略戦争を放棄しているのであって、国際法上認められている自衛権を否定するものではないとしている。

 第2項は戦力不保持と交戦権の否認について書いているが、「前項の目的を達するため」という文言を追加することにより、第1項で放棄した侵略戦争を行うための戦力は保持しないが、自衛のための戦力は保持できる、という解釈が可能になった。

 芦田修正による解釈に従えば、日本は自衛のための戦力、つまり軍隊を保持できることになる。現憲法を改正せずとも、軍隊を持てるのだ。

 ところが戦後の歴代内閣は、この解釈を取らなかった。戦後の日本の世論では、いかに自衛のためとは言え、日本軍を復活させることは不可能だったからだ。

 戦後の歴代内閣は、芦田修正による解釈を取らず、次のような解釈を取っている。勿論現岸田内閣もそうだ。

 簡単に言うと、日本は自衛のための戦力(軍隊)も持てない。しかし、憲法は自衛のための必要最小限の「実力」を持つことは禁じていない、というものである。

 現憲法解釈上、今の自衛隊は、「自衛のための必要最小限の実力組織」という位置づけになり、「戦力」(軍隊)ではないので憲法違反にはならない、ということになる。

 そして、自衛隊が「戦力」ではない「実力組織」だという解釈を基盤に、今の自衛隊法や各安全保障関連法が成り立っている。

 私は現憲法に対して個人的な意見を持ってはいるが、当ブログでは触れない。

 ただ、自衛隊憲法解釈上の「戦力」でないことから、「いざ有事」になった時に、様々な不都合が生じてくることは容易に想定できる。自衛隊法に自衛隊が防衛出動できる要件が書いているが、かなり制約があるからである。

 昭和22年、芦田は自由党を離脱し、民主党を結成する。

 憲法改正案を修正して成立させた芦田は、昭和23年3月、第47代内閣総理大臣になる。

芦田均内閣

 芦田内閣は、民主党社会党国民協同党の三党連立内閣であり、リベラル色の強い内閣であった。

 芦田内閣は、建設省中小企業庁の設置法案、教育委員会法案、地方財政法案、軽犯罪法警察官職務執行法海上保安庁法、検察審査会法案などの行政組織や治安関連の法案を成立させ、戦後日本復興の礎を成した。

 こうして、戦前から戦後を通して政治家を務めた人物の履歴を見ると、昭和20年で断絶したように見える歴史が、脈々とつながっていることを実感する。

 いつの時代も、国を良くしようという有意の人物が時代を切り拓いていくのである。