1月22日に久々に淡路を訪れた。
最初に訪れたのは、兵庫県淡路市木曽下にある真言宗の寺院、恵日寺である。
この寺院は、江戸時代初期に造られた池泉式庭園を有している。
古くはないが、横長の堂々とした本堂を持つ寺院である。本堂前には、蘇鉄があり、枯山水の庭園のように意味ありげに石が点々と配置されている。
御本尊のことはよく分からぬが、本堂の厨子に向かって手を合わせた。
やはり建物が新しくては飽き足らない。境内に建つ古そうな地蔵像を見ると、心が落ち着いた。
お地蔵様というものは、街道沿いや街中にぽつんと置かれていることが多い。日本人にとって、最も身近な仏様である。
本堂の裏に回り、池泉庭園を見学する。
寺の裏山である行者山の山畔を利用して造られた庭園である。
ひょうたん型の池の中央に一枚の自然石が橋として架けられている。この橋は、此岸と彼岸を結ぶ夢の浮橋であり、ここを通って彼岸の世界に至るとされている。
夢の浮橋のやや右に、一段の枯滝がある。滝口の右には蓬莱石組、左には三尊石組があるという。
日本庭園には、必ずと言っていいほど枯滝や滝がある。日本人には、那智の滝のように、滝自体を神体として崇める習性があるが、滝には人を厳かな気持ちにさせる何かがあるのだろう。
ここから進路を北に取り、淡路市柳沢にある岩上神社に赴いた。
岩上神社は、淡路を代表する巨石信仰の神社である。
天文十年(1541年)に、柳沢城主柳沢隼人佐(はやとのすけ)直孝が、大和国の石上神宮から祭神布都御魂(ふつのみたま)神の分霊を勧請して創建した神社と伝えられる。
鳥居を潜り、急な坂を登った先に神社があるが、途中法輪山岩神寺という真言宗の寺院がある。
かつて岩神寺と岩上神社は、習合していたことだろう。
岩神寺の本尊は、聖徳太子御作と伝わる観音菩薩像である。岩上観音と呼ばれ、古くから信仰されてきたようだ。
本堂の向かって右手に絵馬が掲げられている。
頭上に宝冠を戴き、蓮の葉の上で智拳印を結ぶ僧侶が中央に描かれ、その周りを囲む殿上人や僧侶が中央の僧侶に向かって平伏している画である。
中央の僧侶は、弘法大師空海である。これは空海伝の中のクライマックスとも言うべき有名な場面を描いたものである。
唐で師の恵果和尚からインド直系の真言密教を授かった空海は、日本に戻って即身成仏の教えを唱えた。
真言密教では、身口意(しんくい)の働きを三密と呼んでいる。真言密教は、修行によって自己の三密の上に仏の三密を顕現させ、この世においてこの身このままで成仏する、即ち即身成仏することを目指す教えである。成仏とは、あの世に行く事ではないのである。
自らの手に身密としての仏の印を結び、口に仏心のほとばしりである真言を唱え、意(こころ)に仏を観想すれば、この身このままで仏に成るとしている。
桓武天皇の延暦二十一年(802年)より、毎年正月八日から十四日まで、天皇が宮中に南都六宗(倶舎、成実、律、法相、三論、華厳)の大徳を招いて、経典を読誦させて国家安泰を祈る最勝会が営まれていた。最勝会の後には、参加した各宗の大徳が、天皇の前で信奉する宗旨の教義を論議して互いに磨き合うことが為された。
延暦二十四年(805年)には、比叡山に天台宗が開かれ、最勝会に加わった。弘仁の初めに空海により真言宗が開かれ、これも最勝会に加わった。
弘仁四年(813年)正月、最勝会の後、皇居清涼殿にて、嵯峨天皇や公卿の前で、南都六宗と天台宗の大徳と空海が論議を行った。
空海の唱える即身成仏の教えに、他の七宗の大徳は疑問を感じ、非難の言葉を発した。
議論を眺めていた嵯峨天皇は、空海に対し、「それならば、この場において即身成仏の三昧に住する相を示してみよ」と宣った。
空海は、徐に南面して結跏趺座し、幾つかの秘密の印を結んだ後、大日如来の智拳印を手に結び、暫し真言を唱えた。するとみるみるうちに空海の身辺に霊光が輝きはじめ、大日如来はかくやと言うべき端厳の妙相を現じた。
嵯峨天皇は玉座を下りて空海を礼拝し、並み居る公卿、大徳たちは驚愕して空海に向かって平伏した。
これ以降、嵯峨天皇は空海と真言密教を信頼するようになった。以後明治維新まで皇室は真言宗を奉ずるようになる。
岩神寺の前には、古い梵鐘が掛かっている。
この鐘は、宝暦六年(1756年)に鋳造された、岩上神社の銅鍾である。
昭和18年、資源として国に供出されたが、溶かされることなく昭和22年まで神戸湊川にあった。
その後鐘は行方不明となったが、平成5年3月8日に、兵庫県宍粟郡一宮町の天台宗寺院・長陽山普門寺の鐘になっていることが判明し、50年ぶりに故郷に戻った。
鐘に彫られていた「岩上大明神」の文字は削られていたが、銘文に淡州津名郡柳澤村岩上大明神と彫られている。
前回の記事でも、梵鐘には数奇な運命を辿ったものが多いと書いたが、この梵鐘もその一つである。
それにしても、この梵鐘が、行方不明になっていた岩上神社の梵鐘だと判明した経緯を知りたいものだ。
いずれにしろ、故郷にこの梵鐘が戻って来て、ここに掛かっていることは、めでたい事である。