名塩の見学を終えて、西宮市生瀬(なまぜ)町2丁目にある浄土宗の寺院、十方山浄橋寺を訪れた。
この寺院は、浄土宗西山派の開祖証空上人が、仁治二年(1241年)に開いた寺である。
寺院の縁起によると、上人がこの地を訪れた際、この地を荒らす山賊に出会った。上人は山賊に仏の道を教えると同時に、武庫川に浄橋と名付けた橋をかけ、橋の通行料を山賊に与えて生活を正した。
その橋を守るために建てたのが、浄橋寺とされている。
証空上人が開いた西山派は、私が興味を抱く一遍上人を輩出した浄土宗の一派である。全ての仏教の教えを南無阿弥陀仏の念仏に集約した、一種の念仏原理主義のような宗派である。
浄橋寺は、中世に入り、文明五年(1473年)の火災や、天正六年(1578年)の信長と荒木村重との戦乱で焼亡した。
現在の伽藍は、明治になって再建されたものである。
本堂には、正面の襖を開けて入ることが出来た。
浄橋寺の本尊は、鎌倉時代前半に作られたと思しき木造阿弥陀如来坐像である。
襖を開けると、木造阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の両脇侍像がある。
どれも檜の一木造りで、表面には金箔が貼られている。
一見して平安時代末期の作のように見えるが、衣の襞に新時代の特徴が見られるようだ。
この寺には、寛元二年(1244年)銘の銅鐘があるが、こちらも国指定重要文化財である。
銅鍾の実物は、宝物館に収蔵されているが、精巧なレプリカが鐘楼にかけてある。
銅鍾は、四区に分かれ、「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の浄土三部経の経文と証空上人の文が陽刻されている。
寛元二年の銘も見える。
また、寺院の境内には、様々な石造品がある。
最も古いものは、応永十六年(1409年)の銘がある石造五輪卒塔婆である。西宮市指定重要有形文化財である。
東側の舟形の中には、定印を結んだ阿弥陀如来像が陽刻されている。
石造五輪卒塔婆の背後にある二基の石造五輪塔は、鎌倉時代から南北朝時代に制作されたものである。
こちらも西宮市指定重要有形文化財である。
その隣には、石造露盤がある。
露盤は宝形造の屋根の頂点に置かれる相輪の土台である。通常は金属製や瓦製のものが多い。
石造の露盤は、兵庫県下でこれ以外に2例が知られるのみである。これも西宮市指定重要有形文化財である。
また、南北朝期の14世紀半ばの制作と目される石造五輪塔がある。
地輪の舟形の中に地蔵尊を刻んでいる。
その他の文化財として、室町時代に筆写された紙本著色善恵(証空)上人伝絵(兵庫県指定文化財)や浄橋寺文書と呼ばれる古文書がある。
浄橋寺のある生瀬は、江戸時代には宿場町であった。
寺を出て、北に歩くと、東西に延びる有馬街道がある。
街道の左右の民家は、現代の建築であるが、狭い道幅と道の雰囲気は、江戸時代の宿場町のものである。
有馬街道を東に行くと、道はカーブする。生瀬橋に通じる生瀬通である。
浄橋寺の縁起に見られるように、武庫川に架けられた橋が通じるこの地は、交通の要衝であった。
加古川市の教信寺もそうだが、街道沿いには、浄土系の寺が建てられていることが多い。
山寺には密教系寺院が多いが、身分の低いものが往来した街道沿いは、庶民的な浄土系の寺院が多いような気がする。