衆楽園内の散策を続ける。余芳閣の近くには、池に臨んで枝垂桜が咲いている。
明治の廃藩によって、津山藩は廃絶となったが、その際園内の建物の多くは解体された。
明暦年間の創園当時から残っているのは、藩主の休憩所であり、客人と対面した建物であった余芳閣である。
余芳閣は、茅葺入母屋造り二階建ての建物と、広大な瓦葺き平屋建ての建物で成り立っている。
二階建ての方は、二階に手摺を巡らしている。今は雨戸に覆われているが、雨戸を開け放てば、二階からの園の眺めはかなり良いものだろう。江戸時代には、遠く津山城天守も遠望出来たろう。
余芳閣の前に立つと、南北に長い園池の北側が目に入る。
余芳閣から北に歩くと、丈高い松が生えていて、その下に山口誓子の句碑がある。
「絲桜 水にも地にも 枝を垂れ」とあるが、先ほどの枝垂桜(絲桜)のことを指しているのだろうか。
ここから北に歩くと、衆楽園北側の出入口に至る。北側の出入口の脇から水が園内に導き入れられている。
衆楽園を巡る水は、最初細い溝を流れているに過ぎないが、それが園内の広大な池を形作り、池の周辺の様々な景色を生み出している。
土地に合わせていかようにでも形を変える水の柔軟なあり方は、生き方の参考になるような気がする。
さてこの細い流れが、南下するにつれて徐々に広がって来る。
途中、園が出来た当初からあると思われる石橋を潜り、楓の下を巡り、池に注いでいく。
稲妻形の木橋を越えると、園で最も北側にある人工島に渡ることが出来る。北側の人工島には、桜が美しく咲いていた。
北側の人口島からは、その南側にある北から二番目の人工島を眺めることが出来る。二番目の人工島には、最近再建された清涼軒がある。
木橋を渡って、北側の人口島から出て、二番目の人口島に向かう。
二番目の人口島に渡る橋からは、その南側にある北から三番目の小さな人口島を眺めることが出来る。三番目の人工島は、渡ることの出来ない小さな島である。
このように、衆楽園では、色んな形の橋を渡りながら、人口島を散策することが出来る。なかなか贅沢な散歩である。
北から二番目の人口島には、茶室清涼軒がある。
粗末な茶室で池を眺めながら客人と茶を喫するのは、客人に対する当時最高のもてなしであろう。
北から二番目の人口島からは、余芳閣方面に向けて橋が架かっていて、そちらに渡ることも出来る。
さて、北から二番目の人工島から南に歩くと、小さな石橋がある。小さな石橋を渡ると、衆楽園を代表する景観である、茶室風月軒の前に至る。
風月軒は、龍野藩の庭園聚遠亭の茶室ほどではないが、池に少しだけせり出している。
風月軒の隣に枝垂桜があるが、少し枯れているように見える。この桜が満開であれば、さぞ美しかったであろう。
風月軒のある辺りからは、北から四番目の人工島、つまり昨日紹介した一番南側の人口島を眺めることが出来る。
風月軒は閉まっているが、茶室から眺める景色もこれと同じであろう。
この景色の上に月が輝くと、幻想的に見えることだろう。
池泉回遊式庭園という名称を耳にするが、池を経めぐり散策する庭園の楽しさを今回味わうことが出来た。
この日本の庭園の眺めは、和歌や茶、禅といった日本文化と通じるものがあると思う。日本庭園は、昔の日本人の精神生活を地上に形として表したものであると考えられる。これが、当時の人たちの最高の贅沢なのだ。
もし、日本人とはどういう人たちかということを、日本語を理解しない外国人に知ってもらうのに、どうすればいいかという問いがあるとすれば、日本庭園を見せるというのが最良の答えだと考えられる。
季節と植生と風景の変化に富んだ日本列島に住んでいるということは、とてもありがたいことである。