須磨寺 その3

 源平の庭を見下ろすように建つのが、仏教寺院風の装いをした鉄筋コンクリート製の建物、宝物館である。

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宝物館

 宝物館には、須磨寺ゆかりの品々が多数納められ、公開されている。

 宝物館の手前には、「ぶじかえる」という蛙のオブジェがある。

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ぶじかえる

 ユーモラスな置物だが、須磨寺にはこういう遊び半分の置物が他にもある。宇宙に存在するあらゆるものを大日如来の化身として肯定する教義を有する真言宗の寺院には、何でも受け入れる代わりに、一種のテーマパークのようになってしまうところがある。

 さて、宝物館に足を踏み入れる。

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宝物館内部

 宝物館の展示室入口に展示してあるのが、須磨琴である。

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須磨琴

 須磨琴は、在原行平が流謫の地須磨の浜辺で拾った板片に、自己の冠の紐を結び付けて作った一弦琴が起こりである。

 その後須磨琴の弾奏は廃れてしまったが、江戸時代に覚峰阿闍梨が須磨琴の弾奏法を復活させ、当時の文人墨客の間に須磨琴の演奏が流行した。

 展示された須磨琴は、この覚峰阿闍梨須磨寺に奉納したもので、我が国に残る最古の須磨琴である。

 背後の肖像画は、在原行平を描いたものだ。

 展示室の中央には、平敦盛が所持していた二本の笛が展示してある。

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敦盛の笛

 太い方が「青葉の笛」、細い方が「高麗笛」と呼ばれている。須磨琴といい笛といい、貴族も武人も、都の雅な文化を伝えるものとして音楽を嗜んだようだ。

 須磨寺は、国指定重要文化財の「絹本着色普賢十羅刹女像」を所有している。

 原本は、現在京都国立博物館に貸出中で、複製画が展示されていた。

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絹本着色普賢十羅刹女

 南北朝時代の作で、中央には白象に乗った普賢菩薩が描かれ、その周囲に法華経を護持する鬼神である十羅刹女が描かれている。

 十羅刹女は日本風に十二単を着ている。鮮やかな色彩の画である。

 運慶作と伝えられる鬼面は、正月8日の追儺の式に使用される。

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伝運慶作の鬼面

 また、賤ケ岳七本槍の一人、片桐且元が書いて奉納した「福祥寺」の扁額があった。

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片桐且元筆の扁額

 兵庫県指定重要有形文化財の鰐口は、貞治五年(1366年)に須磨寺に奉納されたものである。

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貞治五年奉納の鰐口

 須磨寺は、源平合戦で死んだ武士たちを弔う役割を果たしてきた。

 熊谷直実は、敦盛を討ち取って以降、お互い殺し合う武士の世に無常を感じ、浄土宗開祖法然上人に弟子入りし、名を蓮生と改めた。

 直実は、敦盛を弔うため、法然上人に頼んで平氏赤旗に「南無阿弥陀仏」の名号を書いてもらった。それが赤旗名号である。

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赤旗名号

 出家して僧侶となった直実は、敦盛の木像を自ら彫って奉納した。

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直実作と伝わる敦盛木像

 その敦盛が使ったとされる矢筒や陣笠、弓も展示してあった。

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敦盛使用の矢筒、陣笠、弓

 宝物館には、一の谷の合戦の時に、武蔵坊弁慶が陣鐘として使用したと伝わる「弁慶の鐘」が展示してある。

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弁慶の鐘

 この鐘は、元々摂津山田村(今の神戸市北区にあった村)の安養寺の梵鐘だったものだが、弁慶が長刀にこの鐘を吊るして、鵯越を行い、一の谷の合戦で陣鐘として使ったそうだ。

 弁慶の怪力を伝える品だが、さきの話が実話かどうかは分からない。弁慶の鐘は、約800年近く須磨寺の梵鐘として使われていたが、年月の経過によりひびが入ったため、今は宝物館に収められている。

 宝物館には、一の谷の合戦から800年経った昭和59年に奉納された、二科会会員木島武雄作の小石人形で表現された一の谷の合戦のジオラマが展示されている。

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小石人形による一の谷の合戦

 丁度敦盛が海に入り、直実に呼び止められるところが再現されている。

 一の谷の合戦は、平氏を水上に追い落とした戦いで、この戦いで平氏の没落は決定した。

 人間社会とは、ただの生き物である我々が、頭の中で造り出した仮構のものである。社長や専務というものは自然界には存在せず、人間の頭の中にだけある役割である。われわれがそれを「ある」と思うから、人間社会はこの世に仮構される。

 源氏の世も平氏の世も、結局は人間の頭の中にだけあったもので、いずれは滅んでしまう。人間が考えた虚構の役割を取り払えば、そこに残るのはただの生き物の生存活動と殺し合いである。直実はそれに気づいて出家した。

 日本人なら誰もが口ずさむ「平家物語」冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」のように、仮構の人間社会にこだわる虚しさを、須磨寺僧侶の読経を聞いて、死んだ武士たちは知っただろうか。