清水寺の参拝を終え、岡山県真庭市鹿田(かつた)にある真言宗の寺院、大寺山勇山寺(いさやまじ)に赴いた。
勇山寺は、神亀三年(726年)に聖武天皇の勅願により創建された。
行基菩薩が、六尺五寸の薬師如来坐像を自ら彫って本尊として安置したという。
その後、弘仁六年(815年)に弘法大師空海が来錫し、不動明王像と制多迦(せいたか)童子、矜羯羅(こんがら)童子の二童子像を彫刻して安置したという。
国指定重要文化財の木造薬師如来坐像を祀る本堂は、赤松円心の兵火に罹ってから再建されたものである。
勇山寺は、平安時代に衰退したが、建久元年(1190年)に源頼朝の命を受けた梶原景時が再建したそうだ。
鎌倉時代には、九条関白家の祈願所となったが、美作、備前、備中の国境に位置していたため、戦国時代には、付近での争いが絶えなかったという。
肘舟木が赤色に彩色された本堂は、桃山時代に再建されたものだろうか。
特に本堂正面の欄間の彫刻が面白い。
鮮やかに彩色された彫刻群は、やはり桃山時代のものだろう。
国指定重要文化財の木造薬師如来坐像は、室町時代の作で、どうやら行基菩薩が彫ったものではなさそうだ。秘仏である。
伝弘法大師作の木造不動二童子像は、本堂の隣の客殿の奥に設置された鉄筋コンクリート製の宝物殿に祀られている。
弘法大師作とされる木造不動二童子像は、平安時代後期の作だそうだ。弘法大師作というのも伝説であろう。
勇山寺の裏山を見上げると、頂上に二重塔が建っている。
何の塔だろうと思って登ってみると、庚申堂であった。
庚申堂には、青面金剛を本尊として祀ってある。
人間の体に住み着き、人の寿命を左右する三尸(さんし)という虫が、庚申の日に人が寝ている間に体を抜け出して、天帝にその人の悪事を報告して、寿命を縮めると信じられていた。
中国では、庚申の日に三尸が体から抜け出さないように一晩中起きて見張るということが行われていた。
この習慣が、平安時代に日本に伝来し、貴族の間で庚申の日に酒宴や遊戯をして、寝ずに過ごすということが行われるようになったらしい。
日本では、いつしか庚申信仰は、青面金剛への信仰になっていた。青面金剛が人の長寿や無病息災、厄除けといったご利益を与えてくれると思われるようになった。
この庚申堂も、青面金剛を祀っている。昔の庚申信仰の名残だろう。
さて、庚申堂のある山から北側を見ると、備中川の左岸の沖積地が見える。
この沖積地からは、奈良時代から平安時代のものと思われる掘立柱の建物10棟、総柱の建物7棟の建物跡が発掘された。
また、軒丸瓦や軒平瓦、円面硯、鉄滓を伴う工房の跡が発掘された。郡遺跡と呼ばれている。
発掘された遺物の内容からして、郡遺跡は、この辺りに存在した真島郡衙跡と考えられている。
真島郡衙が形成された時代と勇山寺が建立された時代は重なる。
日本各地の郡衙の近くには、その地域を代表する寺院が建立されたことだろう。
ここでは郡衙が無くなって、寺院だけが残った。
そう考えると、人間社会で後世に長く伝わるものは、芸術的価値が高いものと、信仰の対象になるものと言えるだろう。