小豆島町 亀山八幡宮 後編

 亀山八幡宮の参道を海に向かって降りていくと、亀山八幡宮の御旅所でもあり、秋季大祭の舞台ともなる池田の桟敷がある。

 秋季大祭を見物する客のために、石積の見学席を何段にも積み重ねた桟敷である。

池田の桟敷の鳥居

 海に面して鳥居があり、鳥居の奥に石垣を積み重ねた桟敷がある。

 秋季大祭では、太鼓台と呼ばれる屋台が桟敷前で練るが、桟敷前の馬場の中央に、その太鼓台を安置する場所と思われる台がある。

 台の周囲には、地域名が刻まれた標柱が建っていて、「輪番腰付」と刻まれた標柱もある。

桟敷と輪番腰付

輪番腰付

 この台の名称なのだろう。

 それにしても、池田の桟敷は雄大な建造物である。まるでギリシアの野外演劇場のようだ。

 昭和45年に大阪で開催された万国博覧会の「お祭り広場」は、この池田の桟敷をモデルに設計された。

池田の桟敷

 桟敷の石積みは、小豆島産の花崗岩安山岩で築かれている。

 小豆島は、石が豊富に産出される地である。大坂城の石垣もここから多く切り出された。

 小豆島には、石積みの桟敷が多数あるが、石材が豊富なのもその原因であろう。

池田の桟敷

 桟敷の間を細い道が通い、階段を上って上の段に行くことが出来る。

 上から眺める桟敷の段も興味深い。

桟敷の段

 最上段からは、眼下の馬場と、池田湾が一望出来る。

馬場

池田湾

 石段を降りて馬場に戻ってから桟敷を見上げると、やはり重厚感のある独特の風景である。

桟敷

 亀山八幡宮の秋季大祭には、この桟敷がぎっしり人で埋まり、桟敷の上には即席のテントが設けられる。

秋季大祭時の池田の桟敷

 このような石積みの桟敷は、小豆島だけでしか見ることが出来ないのだろうか。小豆島独自の文化のように思える。

 池田の桟敷は、国指定重要有形民俗文化財である。

 桟敷に向かって右手には、小さなお社が並んでいる。

桟敷手前のお社

 海に向いたお社は、きっと航海や漁に関係する神様を祀っていることだろう。

 中央のお社は、彫刻も立派であった。

桟敷前のお社

蟇股の彫刻

桟敷のお社

木鼻と手挟みの彫刻

軒下の彫刻

 海に向かって翼を広げたように広がる池田の桟敷は、開放的な空間である。

 このような場所で祭事を執行できて、見学できる池田郷の人々を羨ましいと思う。

小豆島町 亀山八幡宮 前編

 小豆島町池田の鎮守が、丘の上にある亀山八幡宮である。

亀山八幡宮鳥居

 祭神は、品陀和気(ほんだわけ)命こと第15代応神天皇である。

 この神社の由来はよく分からないが、応神天皇が小豆島に立ち寄ったという伝承に関連があることだろう。

 鳥居を潜ってすぐ左手に護国神社がある。

護国神社

 明治以降、池田郷から戦地に出征した戦没者を祀るお社である。

 境内には、戦没者の名前を刻んだ銘碑がある。

 私は、史跡巡りで訪れた神社に戦没者を祀るお社があると、必ず参拝することにしている。

戦没者の銘碑

 かつて様々な思いを胸に抱いて、国のために戦った人たちは、丁重に弔うべきである。

 鳥居の先の緩やかな坂道を登っていくと、随神門がある。その向こうの拝殿までは、広い空間がある。

随神門

随神門前の狛犬

随神像

亀山八幡宮境内

 亀山八幡宮の秋季大祭では、太鼓台と呼ばれる布団屋根を持つ屋台が社頭や御旅所で練り合わされる。この広い空間も、祭りのときは太鼓台を練る氏子たちで埋まるのだ。

拝殿

拝殿の棟瓦

拝殿唐破風下の彫刻

拝殿の扁額

 亀山八幡宮の拝殿は瓦葺である。瓦は古びているが、豪勢なものであった。棟瓦の意匠もいいものである。

 一方の本殿は銅板葺だ。

本殿

 本殿は、ほとんど装飾のない簡素な三間社流造である。

 八幡宮の本殿には、簡素なものが多い。私は雄勁な八幡さんの社殿が好きである。

 亀山八幡宮の本殿の脇には、古くから池田郷の人々から御神木として崇められてきた亀山八幡宮のシンパクがある。

亀山八幡宮のシンパク

 このシンパク(真柏)は、樹齢400年以上、樹高19メートルで、西方に約80度傾斜している。

 枝張りは東西に約10メートル、南北に約6メートル伸張している。

 以前紹介した国の特別天然記念物である宝生院のシンパクは別格にしても、このシンパクの樹勢も大したものである。

 亀山八幡宮のシンパクは、天然記念物で小豆島町指定文化財である。

 地方に行くと、その村を象徴する樹木があったりする。それは、村の鎮守と同様に村人から尊重されている。

 自然を尊重する素朴な信仰は、我が国の文化の基底にあるものである。

恩澤の碑 平井兵左衛門氏政終焉の地

 2月18日に小豆島の史跡巡りを行った。小豆島に上陸するのは、これで2度目である。

 前回レンタサイクルで小豆島を巡って、かなり疲弊したので、今回は電動自転車を借りようと思ったが、あいにく電動自転車を貸し出す店が閉まっていた。

 仕方なく、今回も通常の自転車で島内を巡った。

 土庄港から上陸して、自転車で国道436号線を東に向かう。小豆郡小豆島町に入る。

 しばらく行くと、蒲生の集落に入る。

 蒲生には、香川県立小豆島中央高等学校があるが、学校の西側に、旧金刀比羅神社境内がある。

金刀比羅神社境内

 この境内に中に、恩澤の碑という石碑が建っている。

 金刀比羅神社の社殿は既になく、境内には幾株かの蘇鉄が生えている。

恩澤の碑

 元治元年(1864年)八月五日、尊王攘夷の思想に基づいて、外国船を砲撃した長州藩に懲罰を与えるため、米英仏蘭四ヶ国の艦隊が下関を砲撃し、長州藩の砲台を占拠した。下関戦争である。

 長州藩は、この敗北によって攘夷が事実上不可能であることを悟り、西洋式の軍備を整えて幕府を倒すことに方針を変えた。

恩澤の碑

恩澤の碑の説明板

 同月23日、四ヶ国艦隊の内、英国の艦が小豆島の池田湾に停泊していた。

 英艦を見学していた蒲生村の幾太郎に、たまたま暴発した英艦の弾丸が当たった。幾太郎は即死した。

 津山藩士鞍懸寅次郎が英国との交渉に奔走したお陰で、幾太郎の不慮の死に対して、英国から洋銀200枚の賠償金が支払われた。

恩澤の碑

 当時は、日本側が欧米に賠償することは多々あったが、欧米側が日本に賠償した例は稀であった。

 この事を後世に伝えるため、蒲生村庄屋岡井尚寛が明治12年に建立したのが、この碑である。

 先人の苦労が偲ばれる。

 ここから自転車で更に東に行く。国道436号線から県道250号線に入る。

 しばらく行くと、小豆島町池田平木に入る。右手に平井兵左衛門氏政終焉の地が見えてくる。

平井兵左衛門氏政終焉の地

 小豆島は、延宝五年(1677年)から2年間、備中足守藩木下家により徹底した検地が行われ、島の年貢は倍になった。

 また、小豆島は幕府から加子浦に指定され、有事の際は水主(かこ)と船を差し出す代わりに、年貢を減免される特典を有していたが、元禄二年(1689年)からは加子浦指定を解除されていた。そのため、島民の生活は逼迫した。

平井兵左衛門氏政終焉の地

 正徳元年(1711年)、池田村の庄屋平井兵左衛門氏政は、村民の窮状を見かねて、村民を代表して江戸に向かい、勘定奉行平岩若狭守に訴状を提出した。

 当時小豆島は幕府直轄領だったが、預かり地として高松藩が支配していた。

 その高松藩を差し置いて、幕府に直訴した兵左衛門の行為は、極刑に値した。

 兵左衛門は投獄されて、正徳二年(1712年)二月に高松に送られ、同年三月十一日に池田村に連行され、斬首獄門を言い渡された。

平井兵左衛門氏政の供養塔

 兵左衛門は、見せしめのように村内を引き回され、衆人環視の中、この地で斬首され、七日間首を晒された。

 この件に協力した福田村庄屋湊九左衛門は投獄・欠所(お家取り潰し、財産没収)となり、その他島内の年寄りは追放となった。

兵左衛門三百回忌に建立された記念碑

 村民は、村のために命を懸けて幕府に直訴した兵左衛門の遺徳を偲び、兵左衛門終焉の地に五輪塔を建て、その後も祭祀を絶やさなかった。

 私が訪れた時も、五輪塔の前には新しい花が供えられていた。

 奥には、平沼麒一郎が題字を書いた義人頌徳之碑が建っている。

義人頌徳之碑

 それにしても、村人たちの窮状を為政者に訴えただけで斬首されるという理不尽さは、現代においては考えられない。

 当時の支配階級の武士たちは、自ら田畑を耕すことをせず、庶民のための政治もせず、ただ庶民が作った食料を徴収して、自分達の都合ばかり考えて生活していた。

 武士が百姓を支配する正当性は全くなく、ただ武力で押さえつけていただけである。百姓が武士に従っていたのは、ただ武士の武力を恐れていたからである。

 私は若いころ、日本の歴史の中で武士の時代が最も好きだった。

 日本の歴史物のドラマでも、最も取り上げられるのは武士たちである。

 武士と言えば、潔いとか勇敢であるというイメージがあって、日本人には好まれる。

 だが、私は武士が武力をちらつかせて庶民から食料金品を巻き上げていただけだったことに気づいてから、武士による支配が暴力団によるシマの囲い込みと何ら径庭がないと思うようになり、武士が好きではなくなった。

 統治には正当性が必要である。国民が政権の統治の正当性に納得しなければ、争乱が起こる。

 民主的な選挙で選ばれた政権は、統治の正当性を有していることを、国民がそれなりに納得している。

 そうでない政権は、自分たちの正当性を粉飾するために、神話や宗教を持ち出したり、歴史の美化を行う。だが最終的に頼るところは武力である。

 武士政権は、宗教的基盤もなく、美化すべき歴史もなく、ただ武力に基づいて日本を統治した。

 武士政権が最終的に崩壊したのは、歴史の必然であった。

宝塚温泉 宝塚大劇場

 宝塚と言えば宝塚歌劇が有名である。

 だが宝塚が、温泉街であることを知る人は少ないのかも知れない。

 S字を描く宝来橋の南詰にある宝塚市湯本町は、今でも温泉旅館が並んでいて、かつての温泉街の面影を残すエリアである。

宝来橋と湯本町の町並み

宝塚温泉の施設

 宝塚市伊孑志(いそし)にある塩尾(えんべい)寺の伝説によれば、室町時代中期に悪瘡に悩んだ女性が、観音菩薩の導きで、武庫川鳩ヶ淵近くの柳の根元に湧く酸(す)い水、鹹(から)い水で湯あみをしたところ、病が癒えたという。これが宝塚温泉の始まりとされる。

 この温泉は、江戸時代には様々な名で呼ばれたが、明治20年に宝塚温泉と命名された。

 湯本町にあるホテル若水の北側、宝来橋の南詰には、かつて酸い水と呼ばれた炭酸水の鉱泉がある。

ホテル若水

宝塚温泉の碑

 この鉱泉上には、明治20年に建てられた宝塚温泉の石碑がある。

 明治22年にこの地を訪れたイギリス人ジョン・クリフォード・ウィルキンソンは、酸い水と呼ばれる優良な炭酸鉱泉を発見した。

 ウィルキンソンは、鉱泉から湧き出す酸い水を瓶詰にして、炭酸水として販売することを考えた。そして販路は世界中に拡大した。

 ウィルキンソン炭酸は、カクテルやウィスキーの割り材として売り出されたが、直接飲むというスタイルも提供した。

ウィルキンソン炭酸の自動販売

 宝塚温泉の石碑の向かいには、ウィルキンソン炭酸を販売する自販機がある。

 ちょっと飲んでみたくなった。

 宝塚市栄町1丁目には、宝塚歌劇の専門劇場である宝塚大劇場がある。

宝塚大劇場

 宝塚歌劇を創始したのは、阪急電鉄の創業者である小林一三(いちぞう)である。

 今回私は、この小林一三という人が成し遂げたことを知って、その巨大さに圧倒された。

 小林は、明治43年に、大阪梅田と宝塚の間に、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄宝塚線)を開設した。

 だが当時の梅田ー宝塚沿線は、人口が少なく、利用客が少なかった。

小林一三銅像

 小林は、鉄道の利用客を増やすため、明治43年箕面動物園、明治44年に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を開設し、大正2年に宝塚歌劇団の前身の宝塚唱歌隊を結成した。

 更に小林は、沿線の人口を増やすため、不動産業にも手を出し、沿線の宅地開発を行って、住宅の分譲を行った。

 当時珍しかった割賦販売(ローン)による住宅販売を始めたのも小林である。

 お陰で郊外の住宅は、庶民の手に届くものになった。

 大正7年には社名を阪急電鉄に変え、大正9年には梅田ー神戸間、塚口ー伊丹間が開通、大正11年には西宮北口ー宝塚間の路線が開通した。

宝塚大劇場入口

 大正9年には、阪急梅田駅に隣接して阪急百貨店を開いて、世界で初めて鉄道会社がデパートを直営することになった。

 昭和4年には関西学院を神戸から阪急沿線に誘致した。

 こうして阪急沿線の開発が進み、阪神間はモダンな郊外都市圏となった。

 今でも関西人にとって阪急沿線と言えば、高級住宅街のイメージがある。

宝塚大劇場

 言うなれば、大阪府の北側、宝塚市伊丹市の全域、尼崎市や西宮市、神戸市の阪急沿線の市街地は、小林一三によって作り出されたと言っていいのである。「阪神間」の生みの親と言ってよい。

 そして、百貨店や住宅街、レジャー施設を開発して、鉄道の利用客を増やすという経営手法は、小林が始めたもので、この後西武鉄道やJRが模倣したものである。

 さて、その小林が大正2年に創始した宝塚唱歌隊は、翌年には宝塚少女歌劇として第一回公演を行った。

宝塚歌劇の舞台ポスター

 宝塚歌劇は、男装の麗人や女性達が、歌と踊りと劇を披露するものである。

 大正7年には小林一三を校長とする宝塚音楽学校が設立された。今でもこの学校の卒業生でなければ、宝塚歌劇の舞台を踏むことは出来ない。

 大正13年には、4000人収容の宝塚大劇場が竣工した。

 昭和2年には、歌と踊りを組み合わせたレビュー「モン・パリ」を上演して、爆発的な人気を呼んだ。

宝塚大劇場フロアマップ

 宝塚歌劇名物のラインダンスが登場したのもこの年である。

 昭和15年には、宝塚少女歌劇団宝塚歌劇団と改称した。

 私は過去に一度だけ宝塚歌劇を観たことがある。あまり私の趣味ではなかったが、歌と演技の技術の高さは相当なもので、感心したものである。

 宝塚大劇場内は、豪華なシャンデリアが天井から下がる宮殿のような造りである。

宝塚大劇場

 宝塚大劇場の中は、土産物店や飲食店が多数あって、観劇客以外でも楽しめる。

土産物店

 ホールの中は、チケットを持った客しか入れないが、ホール外は、ホテルのロビーのように、観劇客以外でも自由に入ることが出来る。

 私が来たときは、ホール内では公演中であった。

宝塚大劇場ホール入口

公園予定

ホール案内

 昭和49年に初演された「ベルサイユのばら」は、日本芸能史上空前の大ブームを巻き起こした。

 宝塚出身の私の同僚も、子供の頃大地真央さん主演の「ベルサイユのばら」を観劇した時の劇場内のどよめきと興奮を語っていた。

 宝塚歌劇は、現在は花・月・雪・星・宙の5組により演じられている。

 宝塚大劇場の2階、3階には、宝塚歌劇団の歴史などを紹介する宝塚歌劇の殿堂がある。

宝塚歌劇の殿堂

 宝塚歌劇の殿堂は、宝塚歌劇団歴代卒業生の業績を、ゆかりの品と共に紹介する「殿堂ゾーン」、宝塚歌劇の歴史などを紹介する「企画展ゾーン」、現役の宝塚歌劇トップスターや、最近の公演の舞台衣装や小道具などを紹介する「現在の宝塚歌劇ゾーン」に分かれているそうだ。

宝塚歌劇の殿堂

 私が訪れた時間帯は、既に閉館となっていた。

 宝塚歌劇には、熱狂的なファンが多い。私が宝塚大劇場を歩いていると、どう見てもタカラジェンヌに見えるような恰好をした女性ファンたちが練り歩いていた。

 宝塚歌劇創始者小林一三も、宝塚歌劇がここまで長い間人々に愛されるようになると想像しただろうか。

手塚治虫記念館 後編

 手塚治虫記念館は、地上2階、地下1階の三層建てであるが、階段の壁には日本の漫画の歴史を紹介するパネルが貼られている。

 我が国の漫画の歴史の中で、漫画の始祖とされているのは、平安時代に鳥羽僧正が描いた「鳥獣人物戯画」である。

鳥獣人物戯画

 日本では昔から絵巻物がよく描かれた。絵巻物は、一巻の絵巻の中に、ストーリーを盛り込んだ絵を描いたものである。

 ストーリー性のある絵巻物には、漫画の萌芽があるのではないか。

 江戸時代中期に、大坂で鳥羽絵本と呼ばれる木版刷りの漫画本が登場した。

 鳥羽絵本の鳥羽は、「鳥獣人物戯画」の作者鳥羽僧正から来ている。

享保五年(1720年)の竹原春潮斎作「大酒」

 鳥羽絵は、世相を面白おかしく描いた戯画や風刺画がメインであった。

 葛飾北斎河鍋暁斎といった浮世絵師も戯画に手を染めた。

享保五年(1720年)の竹原春潮斎作「てんぐのたまご」

 享保五年(1720年)に竹原春潮斎が描いた「てんぐのたまご」などは、一コマの中に、木こりが木を伐ると卵が落ちて、卵から天狗が生まれるというストーリーが描かれている。

 ストーリーを一コマで表現するのは難しい。後世コマ割りをした漫画が出現することを予告する作品である。

 文政二年(1819年)に葛飾北斎が描いた「百面相」では、コマ割りした構図の中に、様々な顔をした人物が描かれている。

葛飾北斎作「百面相」

 これなどは、コマ漫画の祖と言ってもいいだろう。

 明治時代に入ると、明治10年に漫画を売り物にした近代印刷による週刊誌、「団団珍聞」が創刊され、全国民が同時期に同じ漫画を読むことが出来るようになった。

 日清日露戦役の時代には、戯画錦絵を描いていた浮世絵師らが、石板刷小型漫画本の「ポンチ本」を多数刊行する。これが近代漫画本の始まりとなる。

 明治34年宮武外骨が創刊した「滑稽新聞」のヒットに刺激され、明治38年北沢楽天が漫画雑誌「東京パック」を創刊する。

北沢楽天作「暑中の乗合馬車

 北沢楽天は、発行部数に応じて執筆料を得る印税方式を導入した。そのため、楽天は「東京パック」のヒットに伴って大金持ちになった。

 かくして楽天は、日本の職業漫画家第一号になった。

 明治時代後半になると、新聞社は新聞に漫画を描く漫画記者を複数雇うようになる。

 大正4年、朝日新聞漫画記者の岡本一平は、東京の新聞社の漫画記者を集めて東京漫画会を発足させた。

岡本一平作「映画小説・女百面相」

 岡本一平は、大正13年から昭和4年まで、雑誌「婦女界」にストーリー漫画「人の一生」を連載する。

 この作品は、本格的なストーリー漫画の出発点で、コミックのルーツとなった。

 ちなみに岡本一平の妻は、小説家の岡本かの子であり、その子供が芸術家の岡本太郎である。

 昭和前期は、子供向け漫画が発展した時代である。

 昭和6年から「少年倶楽部」に連載された田河水泡の「のらくろ」は大ヒットした。

田河水泡作「のらくろ

横山隆一作「フクちゃん」

 横山隆一の「フクちゃん」のように、新聞に四コマ漫画が連載されることも、この時代に始まっていた。

 記念館の2階には、手塚が子供の頃に描いた漫画が展示してある。

手塚の子供の頃の作品の展示スペース

 最も古いものは、昭和12年頃、手塚がまだ8歳の頃に描かれた「ピンピン生(せい)ちゃん」という漫画である。

ピンピン生ちゃん

 主人公の生ちゃんと友達のフクちゃんが織りなす奇想天外な出来事を描いた漫画であるそうだ。

 とても8歳頃の子供の作とは思えない。

 手塚が10歳頃に描いた紙芝居「火星人来る‼」などは、これだけで芸術作品として部屋に飾りたい出来栄えだ。

火星人来る‼

 藁半紙にクレヨンで描かれた作品である。

 手塚が14歳頃に描いた「オヤヂ探偵」は、現存する手塚のペン書き漫画としては、最も古いものである。

オヤヂ探偵

 戦後の昭和21年に手塚が初めて公表したデビュー作が、四コマ漫画の「マアチャンの日記帳」である。

マアチャンの日記帳

 昭和25年の「ジャングル大帝」に至ると、もはや現代の漫画に何ら遜色のないコマ割りと絵である。

ジャングル大帝

 こうして手塚の初期作品を見ると、手塚の漫画が、日本の戯画、漫画の歴史に連なり、それを更に発展させていったものであることが分かる。

 手塚の描いた多数のキャラクターは、玩具としても売り出された。

手塚作品のキャラクター玩具

 キャラクター玩具の走りも手塚作品からではないだろうか。

 世の中には数多くの漫画家がいるが、1~2作のヒットに恵まれればいい方である。

 その作者名から、複数の作品名を思い浮かべることが出来る漫画家は数少ない。

 そう考えれば、複数の作品名を思い浮かべることが出来る手塚治虫は、やはり並大抵の漫画家ではなかったと言えよう。

 日本だけでなく、世界の漫画アニメ界にとって、手塚治虫がいたことは、僥倖と言うべきではないか。

手塚治虫記念館 中編

 1960年代に入ると、高度経済成長の中で、漫画の世界では、妖怪などが出てくる暗い描写のものが流行り始める。

 また、昭和41年には、「ウルトラマン」が放映され、怪獣や特撮ものがテレビを賑わし始めた。

 そんな時代の昭和40年に、手塚は、「マグマ大使」の連載を開始する。

マグマ大使

 怪獣ものとSF要素を取り入れた本作は、翌年から全編カラーでテレビ放映された。

 更に手塚は、昭和41年から「バンパイヤ」、昭和42年から「どろろ」の連載を開始する。

 手塚がライフワークとして描き続け、ついに未完成に終わったのが、「火の鳥」である。

火の鳥

 「火の鳥」は、古代から現代、未来まで、あらゆる場所、時間を巡る12の物語から構成される予定だった。永遠の命を象徴する火の鳥を、各時代の人々が追い求めるというストーリーである。

 昭和42年に雑誌「COM」に「火の鳥 黎明編」の連載が始まったが、「COM」の休刊により中断を余儀なくされた。

 その後、媒体を変えながら21年に渡って発表され続けたが、手塚の病没のために未完成に終わった。手塚の予定では、死ぬ直前に「火の鳥 現代編」を描いて、作品を完結させるつもりだったらしい。

 手塚は60年代後半から70年代初頭にかけて、スランプに陥る。昭和48年から「週刊少年チャンピオン」に連載されて、久々のヒット作になったのが「ブラックジャック」である。

ブラックジャック

 天才医師ブラックジャックこと間黒男が、様々な患者を手術し、治療していくという話である。

 「ブラックジャック」は、回を追うごとに人気が高まり、手塚作品の中で最も長く連載された作品になった。

 最近では、AIが「ブラックジャック」の続編を描いたことで話題になった。

 昭和58年に連載が開始された「アドルフに告ぐ」は、昭和61年には単行本化され、一般文芸書と並んでベストセラーになった。

 ヒトラーの出自に関する秘密を巡る物語である。

アドルフに告ぐ

 私も中学1年生の時に、死んで今はいない従兄弟の家にあったこの作品を読んでみた。

 しかし大人向きのストーリーで、当時の私には面白さが分からず、途中で読むのをやめてしまったのを憶えている。

 さて、記念館の2階では、特別展の「プルートゥ展」が開かれていた。 

 手塚治虫記念館は、基本的に写真撮影OKだが、特別展の展示物も、背景に壁が入る構図ならば撮影OKであった。 

プルートゥ

 アニメ「プルートゥ」は、令和5年に公開された。この作品は、「鉄腕アトム」の中で最も人気の高い回である「地上最大のロボット」を、浦沢直樹氏が平成15年にリメイクして連載したものをアニメ化したものである。

鉄腕アトム」に出てくるプルートゥ

 プルートゥは、世界最高水準のロボット7体を倒すことで、自分が世界最強のロボットであることを証明するよう、開発者からプログラミングされて誕生したロボットである。

鉄腕アトム「地上最大のロボット」

 プルートゥは、次々と7体のロボットに挑み、倒していくが、7体の内の1体、日本のアトムと何度も戦う中で、アトムとの間に友情が芽生える。

 そしてプルートゥは戦いの中で、自身の存在に疑問を感じ始める・・・。

浦沢直樹氏「PLUTO」に出てくるプルートゥ

 手塚の作品には、戦いの虚しさや、生命の尊さを説くものが多い。手塚が幼いころ、昆虫に触れたり、戦争体験をしたことや、戦後に医学の勉強をしたことなどが、その考えの根底にあるのだろう。

鉄腕アトム」の「地上最大のロボット」最終シーン

PLUTO」最終シーン

 手塚治虫は、平成元年2月に病没した。

 昭和天皇崩御して年号が変わったこの年は、昭和を代表する歌手の美空ひばりが亡くなった年でもある。昭和は終わった。

 この年は、ベルリンの壁が崩壊し、ブッシューゴルバチョフの「マルタ会談」で、冷戦終結が宣言された年でもある。

 昭和を代表する「漫画の神様」が亡くなった平成元年は、色々な意味で一つの時代が終わったことを人々に知らせた年であった。

手塚治虫記念館 前編

 巡礼街道の散策を一旦終えて、宝塚市武庫川町にある手塚治虫記念館を訪問した。

 手塚治虫は、言わずと知れた昭和を代表する漫画家だが、その手塚の出身地である宝塚市に平成6年に建てられたのが、この記念館である。

手塚治虫記念館

 記念館の前には、漫画「火の鳥」に登場する火の鳥を象った宝塚市平和モニュメントがある。

火の鳥のモニュメント

 火の鳥は、ロシアの民話の中で、自らの体を炎で焼き、その炎の中から復活し永遠に再生し続ける生命の象徴として登場するという。

 私が中学1年生だった昭和61年に、「火の鳥 鳳凰編」というアニメが公開されたのを思い出した。

 館内に入ると、エントランスで大きなリボンの騎士の像が出迎えてくれる。

リボンの騎士

 これを見ると、一挙に手塚ワールドに入って行くような気がする。

 さて、手塚治虫は、昭和3年に大阪府豊能郡豊中町(現豊中市)に生まれた。

手塚治虫

 5歳の時に兵庫県川辺郡小浜村(現宝塚市)に転居し、上京までの20年間をここで過ごした。

 小学校5年生の時に、友人に見せてもらった「原色千種昆虫図譜」という図鑑がきっかけで、その友人と昆虫採集に出かけるようになった。

手塚の昆虫標本の写生帖

 昆虫好きが高じた手塚は、昆虫学者になることを夢見た時もあった。

 ある日手塚は、オサムシという甲虫の存在を知って、すっかり好きになり、自分のペンネームを治虫とした。

 手塚は昭和21年に、「少国民新聞 大阪版」に掲載された四コマ漫画「マアチャンの日記帳」で、商業漫画家デビューを果たした。

マアチャンの日記帳

 翌昭和22年には、酒井七馬原作、手塚治虫作画の合作で、手塚最初の単行本である「新宝島」が刊行され、40万部を超えるベストセラーになった。

新宝島

 昭和23年には「ロストワールド」、昭和24年には「メトロポリス」、昭和26年には「来るべき世界」という、後にSF3部作と呼ばれるようになった作品を刊行する。

ロストワールド

 この当時に、1冊100ページを超える漫画の単行本を前後編2冊刊行することは異例のことであった。

 ストーリー性のある漫画を単行本として発表するという、今に至る漫画文化を確立したのは手塚の功績だろう。

 手塚はこうして漫画家として地歩を固めながら、一方で大阪大学医学専門部にも通い、昭和26年に卒業、医師国家試験にも合格し、医学博士の学位も取得した。

医学生時代のノート

医師免許証

 手塚は戦時中に受けた不衛生な予防注射が原因で、両腕がひどい皮膚病になり、あわや両腕切断となるところだったが、ある優秀な医師のおかげで助かった。

 元々先祖が医家だった手塚は、それがきっかけで今度は自分が医師になって人々を助けたいと考えたそうだ。

 漫画「ブラックジャック」は、医学を知る手塚ならではの作品である。

 昭和25年春に上京した手塚は、学童社「漫画少年」の編集長に、宝塚の自宅で書き溜めた「ジャングル大帝」の原稿を見せた。

ジャングル大帝

 編集長は、「ぜひこの作品をうちに連載してほしい」と持ち掛けた。

 「ジャングル大帝」の連載がきっかけで、手塚は東京に進出することが出来た。

 昭和26年から連載された「アトム大使」の第4話に、鉄腕アトムが登場する。最初は原子力を平和利用する未来都市を描く漫画として見切り発車したが、途中からアトムを主役とするロボット漫画になった。即ち「鉄腕アトム」である。

鉄腕アトム

 「鉄腕アトム」の連載は18年に渡って続けられた。昭和38年には、国産初の長編テレビアニメーションとして毎週放映された。

 この毎週30分のアニメを作り続ける虫プロの試みは、現在では当たり前になっているが、これはアニメ「鉄腕アトム」が切り拓いたものである。

 アニメ「鉄腕アトム」は、今に続くテレビアニメ文化の濫觴である。

アニメ「鉄腕アトム

 アニメ放映をきっかけに、「鉄腕アトム」は、国民テクキャラクターになった。

 「鉄腕アトム」は、日本漫画初のロボット漫画でもある。私は子供の頃、ロボットアニメが好きだったが、私もアトムの恩恵を受けていたことになる。

 宝塚出身の手塚は、宝塚歌劇に対しても思い入れがあった。

 宝塚歌劇の影響を受けて創作され、昭和28年から連載されたのが、「リボンの騎士」である。

リボンの騎士

 「リボンの騎士」は、日本のストーリー少女漫画第1号と言われており、その後の少女漫画に大きな影響を与えた。

 こうして見ると、手塚は、漫画を連載して単行本化して売り出し、更にアニメ化して、毎週テレビで放映するという、現在では当たり前になった漫画・アニメ文化の創始者ということが分かる。

 例えてみれば、ロックの世界のビートルズのような存在である。

 漫画・アニメは、今でも子供達に大きな夢を与え続けている。

 漫画・アニメも日本文化の一部だとすれば、手塚は新文化創始者として、歴史に残ることだろう。