売布神社

 清荒神清澄寺の参拝を終え、門前町の坂道を下っていくと、途中道が二股に分かれる場所がある。

 ここを左に行くと、中山寺の巡礼街道を行くことになる。

巡礼街道への分かれ道

中山寺巡礼街道案内図

 中山寺は、真言宗十八本山の一つだが、西国三十三所観音霊場の二十四番霊場でもある。

 西国三十三所観音霊場を巡る道は、巡礼街道と呼ばれている。

 この巡礼街道は、中山寺から二十五番霊場播州清水寺へと巡礼する道である。

 さて、巡礼街道を東に歩いていくと、石塀に囲まれ、鬱蒼とした林に覆われた敷地が見えてくる。

 明治時代から昭和初期に活躍した日本画家、橋本関雪別邸の跡である。

橋本関雪別邸

 地名で言うと、宝塚市売布(めふ)3丁目にある。

 橋本関雪は、明石藩儒者橋本海関の子として生まれた。

 竹内栖鳳に師事し、帝室技芸員にまでなった当代一流の画家である。

 絵だけでなく、建築や造園にも造詣が深く、3つの別荘を建てた。宝塚市にある別邸も、その内の一つである。

橋本関雪別邸の標柱

 この別邸は、阪神淡路大震災で大きな被害を受け、現在立ち入りが出来なくなっている。

 かつてはこの別邸の庭は、冬華園と名付けられた名園であった。

橋本関雪別邸

 橋本関雪別邸から東に歩くと、売布(めふ)神社がある。

売布神社

 売布神社の創建は、第33代推古天皇十八年(610年)である。

 祭神は、大国主神姫神である下照姫(したてるひめ)神と、その夫の天稚彦(あまつわかひこ)神である。

 下照姫神は、かつて当地を訪れ、飢えと寒さで困窮する住民を助けるため、稲を植え、麻を紡ぎ、布を織ることを教えた。

売布神社参道

石段

 これらの技術によって豊かな生活を送れるようになった住民は、下照姫神の御神徳を偲び、姫神を祀る社を建てた。即ち売布神社であるという。

 下照姫神の父神の大国主神も、住民に医療や農業などを教えた神様であるとされている。

拝殿

 出雲系の神話の神様には、日本列島に様々な技術を教えた弥生時代の渡来人の姿が投影されているような気がする。

本殿覆屋

 売布神社は、平安時代の「延喜式」にも記載のある式内社である。

 ところが後年、売布神社貴船大明神とされ、「延喜式」に載る売布神社の所在が分からなくなった。

 江戸時代中期の学者、並河誠所は、当時所在が分からなくなっていた畿内の「延喜式式内社を探索した。

売布神社社号標識

 そして考証の結果、当時貴船大明神とされていたこの神社が、「延喜式式内社売布神社であると特定し、元文元年(1736年)に売布神社と刻んだ社号標石を社頭に建てた。

 社号標石の裏側には、「菅廣房建」と刻まれているが、建碑の費用の一部を負担した菅広房に感謝した誠所が刻ませたものである。

「菅廣房建」の文字

 売布神社の境内には、稲荷大明神があった。

稲荷大明神

 私はここで、ある仕事の成功を祈った。すると、数日後にあったその仕事は、思いもかけぬほどスムーズに事が運んだ。これ以降私は、お稲荷さんの御利益は、実際にあるのではないかと思うようになった。

 稲荷神も、下照姫神と同じく、衣食住の神様である。特に稲作に深く関わる神様である。

稲荷大明神

 東アジアや東南アジアは、世界で有数の人口密度を誇る地域であるが、これには間違いなく、収穫される土地面積当たりの栄養価が穀物の中で一番高い米作が影響している。

 稲作という技術が日本に伝わってから、日本の人口は増えて、日本社会は急速に発展した。

 古代の日本人が、稲や稲作、それに関係する太陽や水を神格化したのは尤もである。

 現代日本の田舎や都会に何気なく佇む神社やお稲荷さんは、遠い過去に日本人が稲作に感じた驚異の念を、今に伝えるものである。

清荒神清澄寺 その4

 龍王滝に向かう途中に、仏足石が祀られている。

仏足石

 仏足石は、釈迦の足型を石面に刻んだものである。

 初期仏教では、釈迦の像を作ることは恐れ多いこととされていた。仏教徒は、仏足石や菩提樹、仏塔、法輪などを拝んでいた。

 この仏足石の中央にも、法輪が刻まれている。

 ここから先に進むと、別名聖光殿と呼ばれる鉄斎美術館がある。

鉄斎美術館

 鉄斎美術館は、江戸時代後期から大正時代までを生きた南画家・富岡鉄斎の作品を収蔵展示する美術館である。

 清澄寺第37代法主光浄和上は、大正11年に87歳の鉄斎に出会った。鉄斎の作品に流れる深い宗教心と芸術的香気に打たれた光浄和上は、鉄斎の作品の研究と収集に生涯を捧げた。

 この遺業を継承した第38代法主光聰和上は、昭和45年に鉄斎作品を収蔵する蓬莱庫を建て、一般公開のために昭和50年に鉄斎美術館を建てた。

 コロナ禍以降、鉄斎美術館は閉館している。

 更に進むと、滝の水音が聞こえてくる。龍王滝である。

龍王

 荒神川に掛かる小さな滝である。

 左側の岩壁をくり抜いた所に不動明王が祀られているというが、角度的によく見えなかった。

 滝の手前には、十三重塔があって、燈明や線香が上げられている。

十三重塔と燈明

 思い返してみれば、寺院があるところの近くには、川が流れていることが多い。昔の日本では、川や池には龍神が棲むと言われていた。

 ここにも、龍神の気配を感じる。

 さて、清荒神清澄寺がこの地に再建されたのは、江戸時代後期である。

 元々の清荒神は、宝塚市売布きよしガ丘の、現在売布きよしガ丘中央公園がある場所にあった。

旧清遺跡金堂跡の標柱

きよしガ丘中央公園

 昭和45年の発掘調査により、この場所が清荒神清澄寺の旧寺地であると判明した。それ以来、旧清遺跡と呼ばれるようになった。

 旧清荒神清澄寺は、金堂の前面の東側に法華堂、西側に常行堂を配する天台系の伽藍配置となっていた。

金堂跡に復元された土壇

金堂の再現図

 この伽藍配置は、川西市の法華三昧寺、加古川市鶴林寺の伽藍の系統を引くものである。

 旧清遺跡は、平安時代後期に建てられ、その後源平合戦の兵火で焼けて、鎌倉時代になって再建された伽藍の跡である。

 公園には、当時の金堂のあった位置に土壇が復元されている。

金堂跡の土壇


 旧清荒神清澄寺は、戦国時代の兵火で焼けてしまった。江戸時代初期には、旧清荒神清澄寺は廃され、江戸時代後期に現在地に移った。

 旧金堂跡周辺からは、瓦片や塑像の指先片、白磁片等が出土し、宝塚市指定文化財となっている。

土壇の上

 清荒神清澄寺の参拝客の多さを見ると、この寺院が、大阪から阪神間、神戸までの広範囲の人々の信仰を集めていることを実感する。

 都会に住む人々も、このように古くから続く精神的支柱を身近に求めているのである。

清荒神清澄寺 その3

 拝殿と護法堂の参拝を終えて、宝稲荷大明神への石段を上がって行く。

稲荷大明神への石段

 ここを上がった先にある宝稲荷大明神の前にも、参拝客が列をなしている。

稲荷大明神

 私もお稲荷さんに何事をか祈った。お稲荷さんのご利益は、確かにあると最近感じ始めている。

 祈ったことが実現したことがあったのである。

 さて、次は本尊大日如来坐像を祀る本堂に向かうが、本堂の手前には、平成20年に開館した史料館がある。

史料館

 史料館は、鉄斎美術館別館でもある。清荒神清澄寺には、幕末から大正時代に活躍した南画家富岡鉄斎の美術館がある。史料館は、その別館である。

 史料館と本堂の間には、池苑がある。

池苑と本堂

池苑

 池苑には緋鯉が泳ぎ、その奥には石組みの滝口がある。

石組みの滝口

 池苑の向かいには、一願地蔵尊がある。

 金銅製の巨大な像で、明治24年に多くの信徒たちの寄付で建てられた。

一願地蔵尊

 柄杓を使って一願地蔵尊の頭上まで水をかけ、一つの願いを祈ると、それが叶うという。

 この一願地蔵尊の前にも行列が出来ていた。柄杓で一生懸命地蔵尊に水をかけている。私は願をかけなかった。

 本堂は、宝形造の新しい建物である。

本堂

本尊大日如来坐像

 本堂の前も参拝客でごった返している。本尊大日如来坐像は、黒光りする金剛界大日如来の像であった。この像は、国指定重要文化財である。

 参拝する衆生とこの本尊が、実は一体であるというのが、真言宗の教えである。その中では、祈るものと祈られるものとの間に差はない。人々は自分に祈っていることになる。

 また清荒神清澄寺には、他に絹本著色千手観音菩薩像、絹本著色釈迦三尊像といった国指定重要文化財がある。

 本堂の脇から、龍王滝への道が始まる。

龍王滝への道

 この道を進むと、左手に本堂の背面とその奥の練行堂が見える。

本堂背面

練行堂

 この奥は、清荒神清澄寺の聖域である。

 寺社には、その寺社の核心となる部分がある。清荒神清澄寺の核心は、この奥にあるような気がする。

ZC33S スイフトスポーツ 五年経過

 清荒神清澄寺の紹介記事の途中であるが、今回が3月最後の記事になりそうなので、定例の年1回の愛車ZC33Sスイフトスポーツに関する記事を書く。

 私が平成31年3月にスイスポを買ってから、この3月で5年が経過した。

 この1年間で変わったことと言えば、スイフト基準車がフルモデルチェンジしたことと、タイヤを付け換えたこと、2度目の車検を受けたことである。

 まずは5代目となったスイフトについてだが、この車は様々な紹介記事や動画で走りを絶賛されている。デザインも近未来的で独特だ。

 これをベースにした次期スイフトスポーツも楽しみではあるが、出るとしたら、恐らくマイルドハイブリッドが付いたものになるだろう。

 そうすると、ZC33Sが、最後の純ガソリンエンジンスイスポということになりそうだ。

 また、マイルドハイブリッドになると、当然車重が増える。次期スイスポは、重量1トンを超えるだろう。

 ZC33Sは、最初で最後の1トン切りのスイスポになりそうだ。どうやらこの車の価値は、不朽のものになりそうである。

 いよいよ大事に乗っていかなければならない。

 次に、今年2月に換えたタイヤについて書く。

 この車の純製タイヤは、コンチネンタル・スポーツコンタクト5であるが、私は2年少し前にブリヂストンPOTENZA・Adrenalin・RE004というタイヤに付け換えた。

 更に今回、ダンロップ・LE MANS Ⅴ+というタイヤに交換した。

ダンロップ LE MANS Ⅴ+

 今回は、AMAZONでタイヤを注文した。タイヤを注文して、家の近くのガソリンスタンドに配送してもらい、工賃もAMAZONで先払いして、予約した日時にガソリンスタンドに行ってタイヤを交換してもらった。

 タイヤはネットで買った方が、実店舗で買うより圧倒的に安上がりになる。ダンロップは元々コンチネンタルやブリヂストンよりも安い。それをネット注文したから、工賃を含んだ4本の価格は、前回よりも4万円ほど安くなった。

 さてこのタイヤ、ZC33S用のタイヤとしては、今まで履いたタイヤの中ではベストであると感じた。

 前回、コンチネンタルからブリヂストンに履き替えた際に、ハンドルが軽くなったと感じたが、ダンロップにして更に軽くなった。

 交差点での右左折でハンドルを切ると、少ない入力でスーっとスムーズに曲がっていく。また静粛性が高い。例えると「絹のように滑らかな」乗り心地である。

 町中を走る分には非常に気持ちのいいタイヤだ。

 転がり抵抗も少なそうで、燃費も良さそうである。

 その反面、ハンドルが軽い分、グリップ力が弱くて、ワインディングではよく滑るようになるのではないかと危惧した。

 ところが、遠出をしてワインディングを走ってみると、意外や意外、コーナーでこしのあるうどんのように粘るタイヤであった。

 コンチネンタルのように、高いグリップ力で道路をガチッと掴んで離さないというようなグリップではなく、餅のようにしなやかに粘るグリップである。

 コンチネンタルでは、ワインディングを気合を入れて走った後に、車を降りてタイヤを見ると、短時間の走行でも明らかに摩耗したのが分かり、タイヤから焦げ臭いにおいがしていた。

 ダンロップは、そのようなことがない。この分だと、摩耗も少なそうだ。

 正直言って、ダンロップLE MANS Ⅴ+は、軽快なハンドリングで乗りやすく、燃費もよく、耐久性もあり、更にグリップ力もある万能のタイヤのように感じる。しかも安い。

 納車から5年経って、また新たな運転感覚を味わわせてくれた。タイヤが車の走行感覚を大きく左右するのを改めて感じた。

 さて、車検についてだが、今回も今後2年間のオイル交換と法定点検料を先払いするメンテナンスパッケージに入った。

 前回はメンテナンスパッケージ+車検代で10万円を切ったが、今回は約12万円であった。交換したものはワイパーぐらいで、不具合は一切なかった。

 ディーラーに聞くと、メンテナンスパッケージの金額自体が、昨今のインフレで1万円ほど増額になったらしい。それでも、走行年数や走行性能に比較すれば、十分安いと言える。

 1年後には、スイスポもフルモデルチェンジして、ZC33Sは絶版モデルになっているかも知れない。

 そうなったらそうなったで、この車との歩みも、更に楽しいものになりそうだ。

清荒神清澄寺 その2

 清澄寺の鎮守である三宝荒神清荒神王)を祀る拝殿(天堂)に向かう。

拝殿への参道

 拝殿への参道の脇、上の写真では右側に、牛頭天王を祀る護牛神堂がある。

 ここは参拝客が列をなしていて、後で参拝しようと思って通過したが、そのまま忘れて参拝せずにしまった。残念である。

拝殿への参道

 拝殿の前は、錫杖を持った布袋さんが門番のように両側に立っている。

 拝殿には、三宝荒神大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩の他、福徳を授ける諸神諸仏が祀られている。

 ここも参拝客が引きも切らない。

拝殿(天堂)

 東面した拝殿から、浴油堂が棟つづきになっている。

 ここでは、三宝荒神歓喜天尊の合行如法浴油供(ごうぎょうにょほうよくゆく)という秘法が、毎日法主により厳かに行われているという。

浴油堂

 なお浴油堂は、秘密の戒壇として、法主と坦行事以外は足を踏み入れることが出来ないそうだ。

 この日は、初荒神三宝大祭の日で、拝殿で僧侶による大般若経転読法要が行われていた。

 三宝荒神大般若経を奉納する行事である。

大般若経転読法要の様子

 雅楽の演奏が行われ、その前に僧侶が並んで法要を行う様子は、まさに神仏習合の世界である。

 参拝客は拝殿前に集まって、その様子を一心に見つめている。一般的な日本人にとって、神事も仏事も有難さは変わらない。神仏習合している方が、一挙両得で、有難さが増すくらいの感覚しかないだろう。

 この日本人の宗教に対する大らかさが、日本本来の文化であると思う。ではこの大らかさは一体どこから来るのか。今後解くべき謎である。

 拝殿の奥には、護法堂がある。

護法堂

護法堂正面

 護法堂には、正面に大勝金剛転輪王如来荒神)、右に歓喜童子、左に弁才天がお祀りされている。ここでは荒神様も悟りを開いた如来になっているのだ。

護法堂

 護法堂の背後には、荒神影向(ようごう)の榊が植えられている。

荒神影向の榊

 影向とは、神仏が姿を現すことを指す言葉である。

 この榊の周囲にある賽銭を持ち帰り、使わないで大事に持っていると良運に恵まれるという。

 その代わり、次回参拝した時は、賽銭を倍にして返さなければならないという。

 拝殿の北側には、善女龍王を祀る龍王堂や、役小角を祀る神変大菩薩(行者洞)がある。どちらも参拝客が並んでいる。

龍王

神変大菩薩(行者洞)

 その間にあって一際目を引くのが、火箸を奉納した火箸納所である。

火箸納所

 三宝荒神は火の神様であり、火箸は厄を取り除くご利益があると言われている。

 清荒神では、古来から、厄年には火箸を授かって家庭にお祀りし、厄が開けるとお礼参りに新しい火箸を添えて、家庭に祀っていた火箸を奉納するという習慣があった。

奉納された巨大な火箸

奉納された火箸

 火箸納所には、沢山の火箸が奉納されている。

 こうして見ると、日本人にとっての信仰と日常生活とは、密接に関係しているように思えてくる。

 抽象的な教義や思想よりも、日々接する生活や自然の中に、神仏の姿を見るのが、日本人の古来からの宗教的態度であろう。

清荒神清澄寺 その1

 浄橋寺の参拝を終えて東に向かい、宝塚市に入る。

 次に訪れたのは、宝塚市米谷にある真言宗の寺院、清荒神清澄(きよしこうじんせいちょう)寺である。

 清荒神清澄寺は、真言宗十八本山の一つで、真言三宝宗という宗派の本山である。

 須磨寺に次いで、私が2番目に訪れた真言宗十八本山である。

 阪急清荒神駅から寺院までは、昔ながらの門前町が続いている。

門前町の入口

門前町のマップ

 門前町には、様々なお店が続いている。ここを散策するだけでも楽しいものである。

門前町の商店

 私が清荒神清澄寺を訪れた1月28日は、毎年行われる初三宝荒神大祭の日であった。

 そのため、普段よりも参拝客が多く、門前町も境内も人でごった返していた。

 以前備中の最上稲荷を紹介したが、ここも参拝客が多かった。清荒神清澄寺神仏習合の信仰形態が色濃く残る寺院だが、神仏習合の寺院の方が、通常の神社や寺院よりも参拝客が多いような気がする。

 しばらく参道を歩くと、一の鳥居が見えてくる。

一の鳥居

 寺院であるが参道に鳥居がある。

 清荒神清澄寺は、宇多天皇の勅願で建てられた寺院である。寛平八年(896年)に、讃岐の名工定円法眼に命じて、曼荼華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、比叡山から静観僧正を迎えて開山した。

三宝荒神様の大灯篭

 そして伊勢神宮の内宮、外宮など十五神を勧請し、竈の神様である三宝荒神を鎮守として祀った。

 清荒神清澄寺は、三宝荒神大日如来を祀る神仏習合の寺院なのである。

 参道の途中にある大灯篭は、この先が結界であることを示しているという。

 大灯篭を過ぎると、荒神川に架かる祓禊(みそぎ)橋がある。

祓禊橋

荒神

 昔の人が、荒神川の水で禊をしてから清荒神に参拝していたことから、橋の名前がついたらしい。

 ここからが現世と神聖な世界との境目とされている。

 祓禊橋を越えて進むと、露店が並ぶ道に出る。

露店のある参道

 ここを過ぎると、山門に至る。

 創建された当初の清澄寺は、元はここより東の宝塚市売布きよしガ丘の地に建っていた。寺号は、蓬莱山清澄寺であった。

 旧清澄寺は、源平の争乱や、戦国時代の争乱により焼失してしまった。

 江戸時代末期に浄界和上がこの地に伽藍を再建し、昭和22年に光浄和上が真言三宝宗を開いて、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として再出発した。

山門

「日本第一清三宝荒神王」「蓬莱山清澄寺」と刻まれた標柱

 山門を潜って境内に入ると、参拝客で一杯である。

境内

境内案内図

 参拝順路は、先ず清荒神王(三宝荒神)が祀られた拝殿(天堂)を参拝し、宝稲荷社社を経由して、本尊大日如来が祀られた本堂を参拝するのが正しいようだ。

 山門を潜ってすぐ右手に、講堂があり、その前に大きなイチョウが2本生えている。

講堂とイチョウ

 講堂の隣には、宗務所がある。どちらも立派な建物だが、それ程古い建物ではない。

宗務所

 境内の中央に、「右 大日如来」「左 清荒神王」と刻まれた標柱がある。

境内中央の標柱

 私は、参拝順路に従って、先ずは清荒神王が祀られた拝殿に向かった。

十方山浄橋寺 

 名塩の見学を終えて、西宮市生瀬(なまぜ)町2丁目にある浄土宗の寺院、十方山浄橋寺を訪れた。

浄橋寺

 この寺院は、浄土宗西山派の開祖証空上人が、仁治二年(1241年)に開いた寺である。

 寺院の縁起によると、上人がこの地を訪れた際、この地を荒らす山賊に出会った。上人は山賊に仏の道を教えると同時に、武庫川に浄橋と名付けた橋をかけ、橋の通行料を山賊に与えて生活を正した。

 その橋を守るために建てたのが、浄橋寺とされている。

庫裏

 証空上人が開いた西山派は、私が興味を抱く一遍上人を輩出した浄土宗の一派である。全ての仏教の教えを南無阿弥陀仏の念仏に集約した、一種の念仏原理主義のような宗派である。

 浄橋寺は、中世に入り、文明五年(1473年)の火災や、天正六年(1578年)の信長と荒木村重との戦乱で焼亡した。

本堂

 現在の伽藍は、明治になって再建されたものである。

 本堂には、正面の襖を開けて入ることが出来た。

 浄橋寺の本尊は、鎌倉時代前半に作られたと思しき木造阿弥陀如来坐像である。

 襖を開けると、木造阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の両脇侍像がある。

 どれも檜の一木造りで、表面には金箔が貼られている。

木造阿弥陀如来及両脇侍像

木造阿弥陀如来坐像

観音菩薩立像

勢至菩薩立像

 両脇侍像は、向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩である。

 一見して平安時代末期の作のように見えるが、衣の襞に新時代の特徴が見られるようだ。

 木造阿弥陀如来及両脇侍像は、国指定重要文化財である。

 この寺には、寛元二年(1244年)銘の銅鐘があるが、こちらも国指定重要文化財である。

 銅鍾の実物は、宝物館に収蔵されているが、精巧なレプリカが鐘楼にかけてある。

宝物館

鐘楼

銅鍾のレプリカ

 銅鍾は、四区に分かれ、「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の浄土三部経の経文と証空上人の文が陽刻されている。

 寛元二年の銘も見える。

寛元二年の銘

 また、寺院の境内には、様々な石造品がある。

 最も古いものは、応永十六年(1409年)の銘がある石造五輪卒塔婆である。西宮市指定重要有形文化財である。

石造五輪卒塔婆

 東側の舟形の中には、定印を結んだ阿弥陀如来像が陽刻されている。

舟形の中の阿弥陀如来

 石造五輪卒塔婆の背後にある二基の石造五輪塔は、鎌倉時代から南北朝時代に制作されたものである。

石造五輪塔

 こちらも西宮市指定重要有形文化財である。

 その隣には、石造露盤がある。

石造露盤

 露盤は宝形造の屋根の頂点に置かれる相輪の土台である。通常は金属製や瓦製のものが多い。

 石造の露盤は、兵庫県下でこれ以外に2例が知られるのみである。これも西宮市指定重要有形文化財である。

 また、南北朝期の14世紀半ばの制作と目される石造五輪塔がある。

石造五輪塔

地輪の地蔵菩薩

 地輪の舟形の中に地蔵尊を刻んでいる。 

 その他の文化財として、室町時代に筆写された紙本著色善恵(証空)上人伝絵(兵庫県指定文化財)や浄橋寺文書と呼ばれる古文書がある。

 浄橋寺のある生瀬は、江戸時代には宿場町であった。

 寺を出て、北に歩くと、東西に延びる有馬街道がある。

有馬街道

 街道の左右の民家は、現代の建築であるが、狭い道幅と道の雰囲気は、江戸時代の宿場町のものである。

 有馬街道を東に行くと、道はカーブする。生瀬橋に通じる生瀬通である。

生瀬通

 浄橋寺の縁起に見られるように、武庫川に架けられた橋が通じるこの地は、交通の要衝であった。

 加古川市の教信寺もそうだが、街道沿いには、浄土系の寺が建てられていることが多い。

 山寺には密教系寺院が多いが、身分の低いものが往来した街道沿いは、庶民的な浄土系の寺院が多いような気がする。