手塚治虫記念館は、地上2階、地下1階の三層建てであるが、階段の壁には日本の漫画の歴史を紹介するパネルが貼られている。
我が国の漫画の歴史の中で、漫画の始祖とされているのは、平安時代に鳥羽僧正が描いた「鳥獣人物戯画」である。
日本では昔から絵巻物がよく描かれた。絵巻物は、一巻の絵巻の中に、ストーリーを盛り込んだ絵を描いたものである。
ストーリー性のある絵巻物には、漫画の萌芽があるのではないか。
江戸時代中期に、大坂で鳥羽絵本と呼ばれる木版刷りの漫画本が登場した。
鳥羽絵本の鳥羽は、「鳥獣人物戯画」の作者鳥羽僧正から来ている。
鳥羽絵は、世相を面白おかしく描いた戯画や風刺画がメインであった。
享保五年(1720年)に竹原春潮斎が描いた「てんぐのたまご」などは、一コマの中に、木こりが木を伐ると卵が落ちて、卵から天狗が生まれるというストーリーが描かれている。
ストーリーを一コマで表現するのは難しい。後世コマ割りをした漫画が出現することを予告する作品である。
文政二年(1819年)に葛飾北斎が描いた「百面相」では、コマ割りした構図の中に、様々な顔をした人物が描かれている。
これなどは、コマ漫画の祖と言ってもいいだろう。
明治時代に入ると、明治10年に漫画を売り物にした近代印刷による週刊誌、「団団珍聞」が創刊され、全国民が同時期に同じ漫画を読むことが出来るようになった。
日清日露戦役の時代には、戯画錦絵を描いていた浮世絵師らが、石板刷小型漫画本の「ポンチ本」を多数刊行する。これが近代漫画本の始まりとなる。
明治34年に宮武外骨が創刊した「滑稽新聞」のヒットに刺激され、明治38年に北沢楽天が漫画雑誌「東京パック」を創刊する。
北沢楽天は、発行部数に応じて執筆料を得る印税方式を導入した。そのため、楽天は「東京パック」のヒットに伴って大金持ちになった。
かくして楽天は、日本の職業漫画家第一号になった。
明治時代後半になると、新聞社は新聞に漫画を描く漫画記者を複数雇うようになる。
大正4年、朝日新聞漫画記者の岡本一平は、東京の新聞社の漫画記者を集めて東京漫画会を発足させた。
岡本一平は、大正13年から昭和4年まで、雑誌「婦女界」にストーリー漫画「人の一生」を連載する。
この作品は、本格的なストーリー漫画の出発点で、コミックのルーツとなった。
ちなみに岡本一平の妻は、小説家の岡本かの子であり、その子供が芸術家の岡本太郎である。
昭和前期は、子供向け漫画が発展した時代である。
昭和6年から「少年倶楽部」に連載された田河水泡の「のらくろ」は大ヒットした。
横山隆一の「フクちゃん」のように、新聞に四コマ漫画が連載されることも、この時代に始まっていた。
記念館の2階には、手塚が子供の頃に描いた漫画が展示してある。
最も古いものは、昭和12年頃、手塚がまだ8歳の頃に描かれた「ピンピン生(せい)ちゃん」という漫画である。
主人公の生ちゃんと友達のフクちゃんが織りなす奇想天外な出来事を描いた漫画であるそうだ。
とても8歳頃の子供の作とは思えない。
手塚が10歳頃に描いた紙芝居「火星人来る‼」などは、これだけで芸術作品として部屋に飾りたい出来栄えだ。
藁半紙にクレヨンで描かれた作品である。
手塚が14歳頃に描いた「オヤヂ探偵」は、現存する手塚のペン書き漫画としては、最も古いものである。
戦後の昭和21年に手塚が初めて公表したデビュー作が、四コマ漫画の「マアチャンの日記帳」である。
昭和25年の「ジャングル大帝」に至ると、もはや現代の漫画に何ら遜色のないコマ割りと絵である。
こうして手塚の初期作品を見ると、手塚の漫画が、日本の戯画、漫画の歴史に連なり、それを更に発展させていったものであることが分かる。
手塚の描いた多数のキャラクターは、玩具としても売り出された。
キャラクター玩具の走りも手塚作品からではないだろうか。
世の中には数多くの漫画家がいるが、1~2作のヒットに恵まれればいい方である。
その作者名から、複数の作品名を思い浮かべることが出来る漫画家は数少ない。
そう考えれば、複数の作品名を思い浮かべることが出来る手塚治虫は、やはり並大抵の漫画家ではなかったと言えよう。
日本だけでなく、世界の漫画アニメ界にとって、手塚治虫がいたことは、僥倖と言うべきではないか。