巡礼街道の散策を一旦終えて、宝塚市武庫川町にある手塚治虫記念館を訪問した。
手塚治虫は、言わずと知れた昭和を代表する漫画家だが、その手塚の出身地である宝塚市に平成6年に建てられたのが、この記念館である。
記念館の前には、漫画「火の鳥」に登場する火の鳥を象った宝塚市平和モニュメントがある。
火の鳥は、ロシアの民話の中で、自らの体を炎で焼き、その炎の中から復活し永遠に再生し続ける生命の象徴として登場するという。
私が中学1年生だった昭和61年に、「火の鳥 鳳凰編」というアニメが公開されたのを思い出した。
館内に入ると、エントランスで大きなリボンの騎士の像が出迎えてくれる。
これを見ると、一挙に手塚ワールドに入って行くような気がする。
さて、手塚治虫は、昭和3年に大阪府豊能郡豊中町(現豊中市)に生まれた。
5歳の時に兵庫県川辺郡小浜村(現宝塚市)に転居し、上京までの20年間をここで過ごした。
小学校5年生の時に、友人に見せてもらった「原色千種昆虫図譜」という図鑑がきっかけで、その友人と昆虫採集に出かけるようになった。
昆虫好きが高じた手塚は、昆虫学者になることを夢見た時もあった。
ある日手塚は、オサムシという甲虫の存在を知って、すっかり好きになり、自分のペンネームを治虫とした。
手塚は昭和21年に、「少国民新聞 大阪版」に掲載された四コマ漫画「マアチャンの日記帳」で、商業漫画家デビューを果たした。
翌昭和22年には、酒井七馬原作、手塚治虫作画の合作で、手塚最初の単行本である「新宝島」が刊行され、40万部を超えるベストセラーになった。
昭和23年には「ロストワールド」、昭和24年には「メトロポリス」、昭和26年には「来るべき世界」という、後にSF3部作と呼ばれるようになった作品を刊行する。
この当時に、1冊100ページを超える漫画の単行本を前後編2冊刊行することは異例のことであった。
ストーリー性のある漫画を単行本として発表するという、今に至る漫画文化を確立したのは手塚の功績だろう。
手塚はこうして漫画家として地歩を固めながら、一方で大阪大学医学専門部にも通い、昭和26年に卒業、医師国家試験にも合格し、医学博士の学位も取得した。
手塚は戦時中に受けた不衛生な予防注射が原因で、両腕がひどい皮膚病になり、あわや両腕切断となるところだったが、ある優秀な医師のおかげで助かった。
元々先祖が医家だった手塚は、それがきっかけで今度は自分が医師になって人々を助けたいと考えたそうだ。
漫画「ブラックジャック」は、医学を知る手塚ならではの作品である。
昭和25年春に上京した手塚は、学童社「漫画少年」の編集長に、宝塚の自宅で書き溜めた「ジャングル大帝」の原稿を見せた。
編集長は、「ぜひこの作品をうちに連載してほしい」と持ち掛けた。
「ジャングル大帝」の連載がきっかけで、手塚は東京に進出することが出来た。
昭和26年から連載された「アトム大使」の第4話に、鉄腕アトムが登場する。最初は原子力を平和利用する未来都市を描く漫画として見切り発車したが、途中からアトムを主役とするロボット漫画になった。即ち「鉄腕アトム」である。
「鉄腕アトム」の連載は18年に渡って続けられた。昭和38年には、国産初の長編テレビアニメーションとして毎週放映された。
この毎週30分のアニメを作り続ける虫プロの試みは、現在では当たり前になっているが、これはアニメ「鉄腕アトム」が切り拓いたものである。
アニメ「鉄腕アトム」は、今に続くテレビアニメ文化の濫觴である。
アニメ放映をきっかけに、「鉄腕アトム」は、国民テクキャラクターになった。
「鉄腕アトム」は、日本漫画初のロボット漫画でもある。私は子供の頃、ロボットアニメが好きだったが、私もアトムの恩恵を受けていたことになる。
宝塚出身の手塚は、宝塚歌劇に対しても思い入れがあった。
宝塚歌劇の影響を受けて創作され、昭和28年から連載されたのが、「リボンの騎士」である。
「リボンの騎士」は、日本のストーリー少女漫画第1号と言われており、その後の少女漫画に大きな影響を与えた。
こうして見ると、手塚は、漫画を連載して単行本化して売り出し、更にアニメ化して、毎週テレビで放映するという、現在では当たり前になった漫画・アニメ文化の創始者ということが分かる。
例えてみれば、ロックの世界のビートルズのような存在である。
漫画・アニメは、今でも子供達に大きな夢を与え続けている。