恩澤の碑 平井兵左衛門氏政終焉の地

 2月18日に小豆島の史跡巡りを行った。小豆島に上陸するのは、これで2度目である。

 前回レンタサイクルで小豆島を巡って、かなり疲弊したので、今回は電動自転車を借りようと思ったが、あいにく電動自転車を貸し出す店が閉まっていた。

 仕方なく、今回も通常の自転車で島内を巡った。

 土庄港から上陸して、自転車で国道436号線を東に向かう。小豆郡小豆島町に入る。

 しばらく行くと、蒲生の集落に入る。

 蒲生には、香川県立小豆島中央高等学校があるが、学校の西側に、旧金刀比羅神社境内がある。

金刀比羅神社境内

 この境内に中に、恩澤の碑という石碑が建っている。

 金刀比羅神社の社殿は既になく、境内には幾株かの蘇鉄が生えている。

恩澤の碑

 元治元年(1864年)八月五日、尊王攘夷の思想に基づいて、外国船を砲撃した長州藩に懲罰を与えるため、米英仏蘭四ヶ国の艦隊が下関を砲撃し、長州藩の砲台を占拠した。下関戦争である。

 長州藩は、この敗北によって攘夷が事実上不可能であることを悟り、西洋式の軍備を整えて幕府を倒すことに方針を変えた。

恩澤の碑

恩澤の碑の説明板

 同月23日、四ヶ国艦隊の内、英国の艦が小豆島の池田湾に停泊していた。

 英艦を見学していた蒲生村の幾太郎に、たまたま暴発した英艦の弾丸が当たった。幾太郎は即死した。

 津山藩士鞍懸寅次郎が英国との交渉に奔走したお陰で、幾太郎の不慮の死に対して、英国から洋銀200枚の賠償金が支払われた。

恩澤の碑

 当時は、日本側が欧米に賠償することは多々あったが、欧米側が日本に賠償した例は稀であった。

 この事を後世に伝えるため、蒲生村庄屋岡井尚寛が明治12年に建立したのが、この碑である。

 先人の苦労が偲ばれる。

 ここから自転車で更に東に行く。国道436号線から県道250号線に入る。

 しばらく行くと、小豆島町池田平木に入る。右手に平井兵左衛門氏政終焉の地が見えてくる。

平井兵左衛門氏政終焉の地

 小豆島は、延宝五年(1677年)から2年間、備中足守藩木下家により徹底した検地が行われ、島の年貢は倍になった。

 また、小豆島は幕府から加子浦に指定され、有事の際は水主(かこ)と船を差し出す代わりに、年貢を減免される特典を有していたが、元禄二年(1689年)からは加子浦指定を解除されていた。そのため、島民の生活は逼迫した。

平井兵左衛門氏政終焉の地

 正徳元年(1711年)、池田村の庄屋平井兵左衛門氏政は、村民の窮状を見かねて、村民を代表して江戸に向かい、勘定奉行平岩若狭守に訴状を提出した。

 当時小豆島は幕府直轄領だったが、預かり地として高松藩が支配していた。

 その高松藩を差し置いて、幕府に直訴した兵左衛門の行為は、極刑に値した。

 兵左衛門は投獄されて、正徳二年(1712年)二月に高松に送られ、同年三月十一日に池田村に連行され、斬首獄門を言い渡された。

平井兵左衛門氏政の供養塔

 兵左衛門は、見せしめのように村内を引き回され、衆人環視の中、この地で斬首され、七日間首を晒された。

 この件に協力した福田村庄屋湊九左衛門は投獄・欠所(お家取り潰し、財産没収)となり、その他島内の年寄りは追放となった。

兵左衛門三百回忌に建立された記念碑

 村民は、村のために命を懸けて幕府に直訴した兵左衛門の遺徳を偲び、兵左衛門終焉の地に五輪塔を建て、その後も祭祀を絶やさなかった。

 私が訪れた時も、五輪塔の前には新しい花が供えられていた。

 奥には、平沼麒一郎が題字を書いた義人頌徳之碑が建っている。

義人頌徳之碑

 それにしても、村人たちの窮状を為政者に訴えただけで斬首されるという理不尽さは、現代においては考えられない。

 当時の支配階級の武士たちは、自ら田畑を耕すことをせず、庶民のための政治もせず、ただ庶民が作った食料を徴収して、自分達の都合ばかり考えて生活していた。

 武士が百姓を支配する正当性は全くなく、ただ武力で押さえつけていただけである。百姓が武士に従っていたのは、ただ武士の武力を恐れていたからである。

 私は若いころ、日本の歴史の中で武士の時代が最も好きだった。

 日本の歴史物のドラマでも、最も取り上げられるのは武士たちである。

 武士と言えば、潔いとか勇敢であるというイメージがあって、日本人には好まれる。

 だが、私は武士が武力をちらつかせて庶民から食料金品を巻き上げていただけだったことに気づいてから、武士による支配が暴力団によるシマの囲い込みと何ら径庭がないと思うようになり、武士が好きではなくなった。

 統治には正当性が必要である。国民が政権の統治の正当性に納得しなければ、争乱が起こる。

 民主的な選挙で選ばれた政権は、統治の正当性を有していることを、国民がそれなりに納得している。

 そうでない政権は、自分たちの正当性を粉飾するために、神話や宗教を持ち出したり、歴史の美化を行う。だが最終的に頼るところは武力である。

 武士政権は、宗教的基盤もなく、美化すべき歴史もなく、ただ武力に基づいて日本を統治した。

 武士政権が最終的に崩壊したのは、歴史の必然であった。