北向八幡神社 那須与一墓所

 妙法寺から南東に数百メートル車を走らせると、道を挟んで北向八幡神社那須与一墓所が向い合せで建っている。

 地名で言うと、ここもまだ神戸市須磨区妙法寺になる。

 那須与一は、下野国出身の武者で、源平合戦の折に、源義経軍に従軍した弓の名手として知られる。

 屋島の合戦の際に、平家側から出てきた船上の扇の的を、与一が見事に射抜いた話は、あまりにも有名である。

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北向八幡神社の鳥居

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北向八幡神社への階段

 北向八幡神社は、その名のとおり、社殿が北に向いている。北向きの社殿の神社に参拝するのは、兵庫県宍粟市一宮町の伊和神社以来である。

 祭神は、八幡大御神だが、北を向いているところを見ると、出雲系の神を祭っていた時期もあったのではないか。出雲に敬意を表して北向きに建てられたという社伝もある。

 この神社は、地元民から飛ぶ鳥も社の上を避けて飛ぶほど神威があると言われており、それを聞きつけた義経が、寿永三年(1184年)の一の谷の合戦の前に、那須与一に戦勝祈願の代参をさせたと言われている。

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北向八幡神社

 義経は、寿永三年二月七日未明に、多井畑厄除八幡宮を参拝し、その後一の谷に向ったとされる。多井畑厄除八幡宮は、昨年11月27日の当ブログ記事「多井畑厄除八幡宮」で紹介した。

 また、昨年1月26日の当ブログ記事「三草山」で紹介したが、義経軍は、その前に兵庫県加東市の三草山の平家の陣を攻略している。

 三草山から南下した義経軍は、一の谷の平家の陣の背後に回る前に、多井畑厄除八幡宮と北向八幡神社に参拝して戦勝祈願したのだろう。

 北向八幡宮の横には、地元民が那須与一を祀った那須神社がある。

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那須神社

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 また、北向八幡神社那須神社の間には、建武四年(1337年)に建立された石造笠塔婆がある。

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石造笠塔婆

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 この石造笠塔婆は、六甲山系の淡紅花崗岩で出来ており、正面に彫られているのは、像の形からして定印阿弥陀如来坐像と言われている。

 しかし地元ではこの像は薬師如来と見なされており、「いぼ薬師さん」と呼ばれている。

 那須与一は、数々の戦功を挙げたことから、那須家の十一男でありながら、源頼朝より那須家の惣領になることを許され、家督を継いだと言われている。

 与一は、北向八幡神社に御礼参りに訪れ、そのままこの地で亡くなったという伝承がある。

 那須与一墓所とされる石造五輪塔が、北向八幡神社の道路を挟んだ向かい側にある。

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那須与一墓所

 階段を登っていくと、廟所の建物がある。

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那須与一墓所

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 廟所の中を覗くと、奥に石造五輪塔が祀られているのが見える。

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那須与一の墓とされる石造五輪塔

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 この那須与一墓所を参拝すると、年老いても人様から下の世話にならないとされているそうだ。

 那須与一墓所は、京都にもあり、ここで亡くなったという伝承が本当かどうかは分からない。

 「平家物語」によれば、与一は源平合戦のころは18、9歳だったとされている。

 与一は若くして亡くなったそうだ。だが戦が終って一段落してから、与一が御礼参りにこの地を訪れたことはありそうなことである。

 真相は闇の中だが、弓の腕前だけで日本各地に伝説を残した那須与一のことを考えると、卓越した特殊技能は、それだけで歴史に波紋を広げるようである。

車大歳神社 妙法寺

 私が住む兵庫県には、現在コロナ特措法に基づく緊急事態宣言が発令されている。

 昨年もそうだったが、基本的に緊急事態宣言発令中は、不要不急の外出の際たるものである私の史跡巡りは自粛することにしている。

 兵庫県に緊急事態宣言が発令される直前の今年1月11日に、神戸市須磨区、長田区、兵庫区の史跡巡りをした。しばらくはこの日に巡った史跡を紹介したい。

 まず訪れたのは、神戸市須磨区車松ヶ原にある車大歳神社である。

 社伝によれば、車大歳神社の創建は大化二年(646年)で、祭神は須佐之男命の子息の大歳御祖(おおとしみおや)神である。

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車大歳神社

 車大歳神社は、神戸市須磨区の車と言う集落の奥にある。車も通れないような道を歩いて行った。

 この神社は、国指定重要無形民俗文化財の翁舞を伝承する神社である。

 社頭には、金網に囲まれて保護された、享保四年(1719年)の銘のある灯籠があった。

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享保四年の銘のある石灯篭

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 翁舞は、鎌倉時代末期から演じられた猿楽の演目の一つで、翁の面をつけた人物が神前で舞う神事である。

 車大歳神社の翁舞神事は、毎年1月14日に、車大歳神社の舞殿で行われる。

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舞殿

 現在の一般的な翁舞は、「露払い」「翁」「三番叟」の三部で構成されているが、車大歳神社の翁舞は、この後に「父尉」(ちちのじょう)が付加された四部構成になっている。

 「父尉」は、室町時代中期には翁舞から外されてしまったそうだ。車大歳神社の翁舞は、南北朝期以前の古式を残した貴重な神事であるとのことである。

 神社では、「翁」「三番叟」「父尉」の舞に用いられる三面を御神体として祀っている。

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三番叟

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父尉

 車大歳神社の翁舞の神事がいつから行われているかは分らないが、文久二年(1862年)の台本が残されていることから、少なくとも江戸時代末期には行われていたようだ。

 本殿には、その三面の翁の面が祀られている。

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本殿

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 車大歳神社の翁舞は、長い歴史の中で幾度か中断されたが、地元の人達の熱意で何度も復活し、今は車大歳神社翁舞保存会が伝承している。

 伝承することは大変だろうが、古態を残したこの神事には、いつまでも続いてほしいものだ。

 さて、車大歳神社から南下し、神戸市須磨区妙法寺にある真言宗の寺院、妙法寺を訪れた。

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妙法寺の石柱

 妙法寺には、国指定重要文化財毘沙門天立像がある。

 戦前の文化財制度では、現在の重要文化財級の文化財も国宝に指定されていた。妙法寺毘沙門天立像も、戦前は国宝であった。

 なので、妙法寺の参道入口に、「国宝毘沙門天妙法寺」と刻んだ昭和初期の石柱が建っている。

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妙法寺

 妙法寺は、寺伝によると、天平十年(738年)に聖武天皇の勅願により建てられたという。

 神護景雲二年(768年)と書かれた一切経84巻が保存されていることから、古くからあった寺であることは間違いなさそうだ。

 最盛期には、37坊の七堂伽藍を備えた大寺であったようだ。

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本堂

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 妙法寺は、平清盛福原京に遷都した際、平安京の乾の方角にある鞍馬寺と同じく、都の乾の方角にあったことから、平家から王城鎮護の霊場として新鞍馬という称号を与えられ、寺領千石を寄進された。

 しかし、南北朝時代には、足利尊氏が敗北して西国に落ちのびた際、高師直の兵火により全焼してしまった。

 御本尊の毘沙門天立像は、平安時代末期にクス材で作られたものである。ひょっとしたら、平家が妙法寺を新鞍馬とした際に奉納された像なのかも知れない。

 また、境内には、応安三年(1370年)に浄照という僧侶により建立された宝篋印塔がある。

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石造宝篋印塔

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応安三年の銘

 650年前の宝篋印塔だが、各部が綺麗に残っている。兵庫県指定文化財である。

 この宝篋印塔は、元々は字田中の路傍にあったものだが、道路拡張工事に伴い妙法寺境内に移された。

 妙法寺には、毎年1月3日に行われる追儺式も伝わっている。

 現在の神戸市須磨区妙法寺周辺は、神戸市営地下鉄妙法寺駅を中心に住宅街として開けているが、昔は山に挟まれた未舗装の三木街道が通る人気のほとんどない土地だったろう。

 車大歳神社と妙法寺を訪れて、江戸時代以前の静かな街道沿いの車村や妙法寺村の佇まいを心に思い浮かべた。

 

御太刀山妙勝寺

 植村文楽軒の供養塔のある勝福寺から南下し、淡路市釜口にある法華宗の寺院、妙勝寺を訪れる。

 ここは、足利尊氏ゆかりの寺である。

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妙勝寺

 足利尊氏が京都周辺での戦いに敗れ、再起のために一度九州に落ちる途中、淡路島に立ち寄った。

 尊氏は、「妙勝」という名を持つこの寺に立ち寄って戦勝を祈願した。

 寺院正面の脇には、その時に尊氏が詠んだとされる歌を刻んだ碑がある。

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尊氏の歌碑

 「今むかふ 方はあかしの浦ながら 未だ晴れやらぬ わが思ひかな」という歌である。

 中央で敗北して、西国に落ちていく尊氏だが、「まだ負けていないぞ」という気概を感じさせる歌だ。

 尊氏は九州で勢力を回復して、大軍を率いて上洛した。湊川の戦い楠木正成南朝勢を打ち破り、京都に入って足利幕府を開いた。

 勝った尊氏は妙勝寺を祈願所とし、寺領として釜口荘を寄進した。

 尊氏は、延文二年(1357年)に、妙勝寺に天下静謐の祈祷を命じた。寺には、その際に尊氏が認めた足利尊氏御判御教書が残されている。

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妙勝寺境内

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妙勝寺本堂

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本堂蟇股

 妙勝寺は淡路島内の法華宗の本山的位置づけの寺院で、本堂も立派なものである。18世紀初期の建築と言われている。

 妙勝寺の墓地には、天文、永禄、天正、慶長という、戦国時代真っ只中の時代の銘のある石造品が展示されている。

 淡路の他の寺院で、これだけ古い石造品を数多く有する寺院はないらしい。

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妙勝寺の石造品

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 一石五輪塔が多いが、中には変形したものもある。通常の五輪塔は、水輪部(下から二番目の部分)が球形であるが、この中には方形のものがある。なかなか珍しい。

 16世紀は日本中が戦乱の坩堝にあった時代で、ここ淡路でも数々の戦いがあった。それらの戦いの中で命を落とした武士を供養するために造られたものだろう。

 妙勝寺の墓地には、兵庫県指定の天然記念物である大くすの木がある。

 枝が大きく張り出した、まことに見事な大くすであった。

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妙勝寺の大くすの木

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 見事な巨木に出会うと、いつも畏敬の念に打たれる。

 さて、妙勝寺は、このように足利氏とゆかりが深く、足利氏の家紋である「丸に二つ引き」を寺紋としている。

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客殿

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丸に二つ引きの寺紋

 客殿の前には、俳人髙田蝶衣(ちょうい)の句碑がある。

 蝶衣は、明治19年に妙勝寺の近くで生まれた。

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髙田蝶衣の句碑

 丸い石に、「海のある 国うれしさよ 初日の出」という句が刻まれている。めでたい語感の句だ。
 妙勝寺は高台にあり、東に広がる大阪湾を見晴らせる。

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妙勝寺から東を望む

 妙勝寺の東側には、珍百景などで紹介されたことがある、高さ100メートルの観音像が立っている。蝶衣が生きた頃にはなかったものだ。
 私は海岸線が朝日に向かう地域に住んだことがない。海の方角から日が昇るというのは、確かに人を嬉しい気持にさせるように思う。

 妙勝寺には、兵庫県指定文化財の妙勝寺庭園がある。江戸時代初期に作られた池泉観賞式庭園で、淡路島最古の庭園である。

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妙勝寺庭園入口

 石で築かれた滝と、鶴島、亀島という二つの島が築かれた蓬莱式池泉がある。周囲を瓦葺の渡り廊下が巡っている。

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妙勝寺庭園

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 石は人を静かな気持ちにさせる。
 妙勝寺から出て、南東側を見ると、水平線上に遠く和泉の山々や友ヶ島などが見えた。

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和泉の方角

 当ブログの史跡巡りが和泉に到達するのは、数年後のことだろうが、いつか向う側から淡路島を眺めることがあるだろう。

伊勢久留麻神社 勝福寺

 松帆神社から更に南下し、淡路市久留麻に至る。

 ここにあるのが、伊勢久留麻神社である。

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伊勢久留麻神社

 伊勢久留麻神社の祭神は、大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと)である。大日孁貴尊は、天照大御神の別名である。

 相殿には、織物の神・漢織姫尊(あやはとりひめのみこと)を祀っているという。

 第30代敏達天皇のころ(572~585年)に、伊勢国久留真から勧請したと言われている。

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拝殿

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 昭和55年2月11日の建国記念の日に、NHKテレビが放送した特別番組「知られざる古代~謎の北緯三十四度三十二分」が、伊勢久留麻神社を「西の伊勢」として紹介し、注目を浴びるようになった。

 この番組は、北緯34度32分上に、太陽信仰に関連する寺社等が並んでいることを紹介したテレビ番組であるそうだ。

 東から順番に伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺箸墓古墳大鳥神社、伊勢久留麻神社、舟木石上神社が、概ね北緯34度32分上に並んでいるそうだが、これが何の意味を持っているのかはよく分からない。

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拝殿から見た本殿

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本殿

 「延喜式」には、淡路十三社の内、三番目に伊勢久留麻神社が記載されていることから、淡路島内では格式が高い神社とされていたのは間違いない。

 三重県鈴鹿市に久留真神社があるが、この久留真神社の社伝では、第21代雄略天皇の御代(458~479年)に、呉の国から我が国に渡来し、勅命に従って伊勢国に紡績や衣縫の技術を伝えた漢織姫とその一族の多大な功績を讃えるべく、漢織姫を相殿に合祀したとの事である。

 敏達天皇の御代に、伊勢から淡路島の東浦の地に、紡績・衣縫技術が伝えられた際に、伊勢の久留真神社に祀られた漢織姫尊が分祀されたのではないかと思われる。

 三重県の久留真神社の祭神は、大己貴命であり、伊勢久留麻神社の祭神・大日孁貴尊とは異なる。大日孁貴尊がここに祀られた由来は分らない。

 さて、伊勢久留麻神社から国道28号線を更に南下し、淡路市仮屋に至る。

 国道沿いにある真言宗の寺院、勝福寺には、大阪の文楽座の基礎を作った植村文楽軒の供養塔がある。

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勝福寺

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 植村文楽軒は、宝暦元年(1751年)に淡路市仮屋の地に生まれた。本名は正井与兵衛という。

 与兵衛は、この地で正井家の養子となり、妻と共に大坂に出て道具屋を始めた。

 少年時代から義太夫節の天分を発揮していた与兵衛は、大坂の高津橋南詰に浄瑠璃稽古所を開き、文化二年(1805年)には人形浄瑠璃座を組織した。

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植村文楽軒の供養塔

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梵字の銘文

 与兵衛は、晩年植村文楽軒を名乗った。彼の跡を継いだ三世の文楽翁が、座名を文楽座と称した。これが現在も大阪に存在する文楽座である。

 勝福寺は、恐らく正井家の菩提寺だったのだろう。植村文楽軒の墓は大阪にあるそうだが、出身地の仮屋に供養塔が建てられたのだろう。

 漢織姫にしろ、植村文楽軒にしろ、我が国の文化の発展に寄与した人物は、長く顕彰されるべきである。

淡路夢舞台 松帆神社

 江埼灯台の見学を終えて、県道31号線、国道28号線を東進し、淡路島の東岸にある淡路島国営明石海峡公園に行く。

 淡路島国営明石海峡公園は、史跡ではないが、私が史跡巡りのガイドにしている「兵庫県の歴史散歩」上巻に載っているので行く事にした。

 淡路島国営明石海峡公園のある場所は、以前は土砂の採取場であったが、平成に入ってから森林が削られたこの場所に、緑豊かな公園を造ることが計画された。

 阪神淡路大震災の発生により、計画が少し伸びたが、平成12年3月に公園は完成し、淡路花博ジャパンフローラの会場となった。

 公園は非常に広大で、園内に様々な花が植えられているが、私が訪れた12月末は花のシーズンではなく、園内にはほとんど色彩がなかった。

 公園に隣接して、建築家安藤忠雄氏が設計した淡路夢舞台という複合リゾート施設が建っている。

 この淡路夢舞台も、平成12年3月に完成した。

 淡路夢舞台は、安藤氏の建築の特徴であるコンクリート打ちっぱなしの建物だが、妙に魅かれる建物群であった。

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淡路島国営明石海峡公園の見取図

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明石海峡公園と淡路夢舞台の模型

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淡路夢舞台の模型

 淡路夢舞台は、国際会議場や、ホテルグランドニッコー淡路、貝の浜、展望テラス、百段苑、奇跡の星の植物園、野外劇場などで構成されているが、全て安藤忠雄氏の設計で作られている。

 私は建築には素人なので、この建物を論評することは出来ないが、無機質とも思えるコンクリート打ちっぱなしの建物だからこそ表現できる不思議な空間が現れているように思う。

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貝の浜

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貝の浜に流れ落ちる人口の滝

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ホテルグランドニッコー淡路

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貝の浜

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 貝の浜という水が湛えられた人口の池は、底一面に貝殻が敷き詰められている。

 安藤忠雄氏の建築は、日本はおろか、世界中に存在するが、この淡路夢舞台ほど広大な空間に建てられた作品はないのではないか。

 展望テラスは、楕円形で内部が吹き抜けとなった不思議な雰囲気を持った建物である。

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展望テラス

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展望テラス内の吹き抜け空間

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 この展望テラスには、淡路牛や淡路の海鮮料理を楽しむことができるレストランや土産物屋が入っている。

 また、最近のテレワーク推進の社会情勢に伴って、東京から本社機能を移転させたパソナグループのオフィスもこの建物の中にある。

 パソナグループは、淡路市にテーマパーク・ニジゲンノモリを開いている。国生み神話の宿る淡路島が、テレワークとオフィス移転の話題の場所となっている。

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奇跡の星の植物園

 淡路島は、淡路牛や海産物だけでなく、玉ねぎでも有名であり、食文化が豊かな島だ。地理的にも大阪、神戸に近く、地方移住先としては魅力的だろう。日本の未来のモデルケースになり得る島だと感じた。

 展望テラスより上の山の斜面には、百段苑という、コンクリートで囲まれた小さな圃が重なるように連なる庭園がある。

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百段苑

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 百段苑の最上段からは、淡路夢舞台と明石海峡公園の全貌を見下ろすことが出来る。

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百段苑から眺めた明石海峡公園の全貌

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 史跡でもないコンクリート造りの建物を紹介したが、どんなものでも百年経てば価値を有するようになる。百年前の自転車でも、現代に残っていれば貴重品である。

 この淡路夢舞台の建物群も、完成から百年経った2100年の人達からどう見られるのか、興味深いところだ。

 さて、明石海峡公園から国道28号線を南下し、淡路市久留麻にある松帆神社を訪れた。

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松帆神社鳥居

 松帆神社の祭神は、八幡大神である。その創建は、南朝の忠臣楠木正成にまつわる。

 建武三年(1336年)の湊川の戦いで、足利尊氏軍に敗れ、自刃した楠木正成は、家臣吉川弥六に日頃守護神として崇めていた八幡大神を託した。神像か神札のようなものでもあったのか。

 弥六は仲間と淡路に逃れ、現在の淡路市楠本に辿り着き、楠木村と称し、八幡大神を祀る小祠を建てた。

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随神門

 応永六年(1399年)、神社は今の場所に移転され、八幡宮と称した。今の松帆神社である。それ以来、浦、仮屋、小田の集落の氏神として尊崇されている。

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松帆神社社頭

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社頭の亀の石像

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寛政時代の扁額

 播州の山奥には、平家の落人村とされる村が点在するが、淡路には、湊川の戦いで敗れた楠木正成新田義貞配下の南朝勢が多く流れ着いたようだ。

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拝殿

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拝殿の鬼瓦

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拝殿の彫刻

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本殿

 この神社の社宝として伝わるのが、名刀の菊一文字である。

 古くから、「八幡宮には名刀あり」という口伝・噂があったが、その刀がどこにあって、どんなものかは長い間不明であった。

 昭和8年に、松帆神社本殿奥の内陣から、一振りの刀が見つかった。

 刀剣鑑定家本阿弥光遜や文部省国宝保存課主査本間順治博士により、菊一文字則宗の真作と認められた。

 承元年間(1207~1211年)に、後鳥羽上皇が全国から名刀工を召し出して作刀させた際に、その筆頭御番鍛冶だったのが、備前国福岡一文字派の祖・菊一文字則宗である。

 松帆神社に伝わる菊一文字は、承元年間に作刀されたもので、建武の中興の功績を認められた楠木正成後醍醐天皇から下賜され、正成が自刃する際に吉川弥六に託したものと思われる。

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菊一文字を保管する宝物殿

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菊一文字

 吉川弥六の子孫の口伝では、楠木正成の愛刀を落人たちで隠し持ち、ある時領主を通じて松帆神社に奉納したとされているそうだ。

 その口伝が事実を伝えたものなら、この菊一文字楠木正成の遺愛の品だろう。

 菊一文字は、由来が判然としないため、国宝や国指定重要文化財には指定されていないが、戦前は国が重要美術品に指定していた。

 菊一文字は、毎年10月第一日曜日の松帆神社の祭礼の際に公開されている。

 刀は武士の魂とよく言われるが、楠木正成の魂の宿る刀が、今も淡路の地で静かに時を刻んでいる。

江埼灯台

 松帆の浦の裏には、マナイタ山と呼ばれる低山が聳える。

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マナイタ山

 マナイタ山には、中世には城が築かれていたらしい。

 マナイタ山城と呼ばれたが、誰がいつ築いたのか詳細は分かっていない。

 天正年間に、織田と毛利がこの城を巡って争った。当時毛利は、織田軍に包囲されている大坂の石山本願寺を支援しており、配下の水軍を大坂湾に派遣していた。その拠点として、岩屋の地は重要だったのだろう。

 天正六年(1578年)には、毛利方が長屋元定を城の在番として置いた。天正九年(1581年)11月には、羽柴秀吉池田勝九郎がマナイタ山城を攻略した。

 しかし、その後は廃城となった筈である。マナイタ山からはサヌカイトが採れたことから、昭和40年代に山を削って土砂が採られ、城の遺構は消滅した。航空写真で見ると、今のマナイタ山の東側には溜池があるが、これが土砂を採った跡だろうか。

 松帆の浦から西に車を走らせ、島の西側に回る。淡路市野島江埼に江埼灯台がある。

 江埼灯台は、階段を登った先の高台に設置されている。

 野島江埼という地名でも分かるように、この一帯は、平成7年の阪神淡路大震災震源となった野島断層が通る場所である。

 江埼灯台に至る階段も、この震災で大きくずれてしまった。

 江埼灯台の説明板に、震災前後の階段の写真が載っていた。

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震災前後の階段の違い

 写真のように、震災前は真っすぐだった階段が、震災後は上に行くほど南側にずれている。

 震災で階段は大きく損傷したが、工事を経て復旧した。しかし、断層のずれで動いた階段はどうしようもなかった。

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現在の階段

 実際の階段を見ると、確かに右へ右へとずれている。途中の踊り場で、薄赤いカラーコンクリートで覆われた場所があったが、この部分が震災でひびが入ってズレた部分であるらしい。

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ずれた断層の跡

 人類を含めた動物は、動く地面の上で生活している。残念だが、こういった地震は今後何度も我々を襲うだろう。

 階段を上ると、青い空が広がり、その下に白亜の石造の江埼灯台があった。

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江埼灯台

 江埼灯台は、日本の開国に当って、欧米が設置を要求した五つの灯台の一つである。石造灯台としては日本で3番目に古く、洋式灯台としては8番目の古さだそうだ。

 英国人リチャード・ヘンリー・プラントンにより設計され、明治4年(1871年)4月27日に初点灯した。

 灯台の周りの敷地は立入禁止になっているので、灯台のレンズのある面には行けなかった。

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灯台のドーム部分

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石造部分

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灯台の出入り口

 灯台の出入り口の上に貼られたプレートには、灯台が初めて点灯された明治4年4月27日の日付が刻まれている。

 現在も、夜間に西側から明石海峡に差し掛かった船は、この江埼灯台の光を頼りに進んでいることだろう。そしてこれからもそれは続いて行く事だろう。

 150年近く明石海峡を航行する船の道標になってきた灯台と、その運行に携わった人たちには、感謝と労いの言葉を捧げたい。

松帆の浦

 淡路島の最北端一帯の海岸は、松帆の浦と呼ばれている。

 古来から、何度も和歌に詠まれてきた歌枕である。

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松帆の浦

 現在の松帆の浦の東側は、波が砂利に打ち寄せる自然の海岸であり、そこに立つと、明石海峡の対岸が指呼の間に見える。

 松帆の浦を詠んだ有名な和歌は、「小倉百人一首」の撰者でもある藤原定家が詠んだ、

来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ 

 という一首である。

 この歌は、百人一首にも入っている。

 松帆の浦の「松」と来ぬ人を待つの「待つ」が掛詞になっている。

 歌意は、「来ない恋人を待つ、その待つと同じ響きの松帆の浦の夕凪の中で焼く藻塩(海藻を焼いて得る塩)のように、来ぬ人を待つ私の身は恋焦がれているのです」といったところか。

 「まつ」という掛詞を軸に、比喩の世界が開けていく。定家らしい技巧が勝った歌だ。

 松帆の浦には、この定家の歌碑がある。

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藤原定家の歌碑

 この歌碑は、実は幕末に徳島藩が外国船に対する防備のために築いた松帆台場跡の上に建っている。

 昨年9月8日の当ブログ記事「舞子」で、舞子台場跡を紹介したが、舞子の対岸の松帆の浦にも台場が築かれた。

 嘉永七年(1854年)9月にロシアのプチャーチン艦隊が大坂湾に侵入して、幕府に開国を迫った。

 幕府は、外国船を打ち払うために、大坂湾岸の諸藩に命じて砲台を造らせた。幕末には、淡路島全島は、徳島藩蜂須賀家の所領であった。

 徳島藩は、岩屋の地に、松帆台場を含め、6つの台場を築いた。

 外国船が明石海峡を通過した際は、対岸の舞子台場の砲台と協同して、敵艦を撃破するつもりだったのだろう。

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松帆台場跡説明板見取図

 松帆台場の背後には、御備船(バッテラ―)と呼ばれる小型船を待機させるための人工の港湾、松帆湊も築かれた。

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松帆湊の跡

 岩屋の地は潮流が速く、海岸に港を築くことが出来なかった。そのため、陸地を掘って人工的な港を築いたが、港の出口が潮流のために何度も壊れたので、港はついに完成しなかったという。

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湊の出口付近

 松帆湊の出口付近は、今はコンクリート製の堤防に覆われている。なるほどここから木造の小型船が出入りするのは難儀しそうだ。

 大砲を据えた台場本体は、M字型をした土塁である。その土塁の上に先ほどの藤原定家歌碑が建っている。

 台場本体の南側の海沿いには、敵艦から内陸の防備を隠すための目隠し土塁が築かれた。

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目隠し土塁の上の松帆の碑

 目隠し土塁は、海岸沿いに延びているが、途中で途切れ途切れになっている。

 その途切れたところに、赤鳥居を控えた小さな恵比須神社があり、その近くの土塁の上に「松帆之碑」と刻んだ石碑があった。

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恵比須神社

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恵比須神社の赤鳥居越しの明石海峡

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松帆之碑

 赤い鳥居越しに眺める明石海峡は、一種不思議な風景であった。

 さて、M字型の台場本体に行ってみる。M字の右足の部分に、石垣に囲われた火薬庫跡がある。

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火薬庫跡

 また、M字の左足部分には、神戸製鋼所健康保険組合の保養所「淡路ゆうなぎ荘」が建っている。

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台場本体と淡路ゆうなぎ荘

 淡路ゆうなぎ荘の下に台場本体の土塁がある。

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台場本体

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 上の写真で言うと、丁度淡路ゆうなぎ荘の左端の辺りが、M字型土塁の真ん中の谷間に当る。

 空中か海上からでないと、M字型の台場本体の全体像を写すことは出来ない。

 土塁の下には、わずかに石垣が見える。これが、台場が築かれた時の石垣である。

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土塁の下の石垣

 実は、地表に露出している石垣は全体の一部で、石垣の大半は地下に埋まっている。

 先ほどの説明板に、発掘調査時の写真が載っている。

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発掘調査時の写真

 左上の写真のように、元々は石垣がもっと露出して、石垣自体が波に洗われる砲台だったのだろう。

 今は、台場本体自体がコンクリート製の堤防で守られ、堤防の内側に土が積もって石垣が隠れてしまった。

 堤防の上から明石海峡の方を見ると、丁度海峡の真ん中あたりを船が通過していた。ここから船まで500メートルは離れているだろうか。

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明石海峡を行く船

 写真で見ると、船はかなり遠く見えるが、肉眼で見るともっと近くにあるように見える。

 海上の船を、幕末にここを通過した外国の蒸気船に見立ててみた。岩屋と舞子の両岸から砲撃されたら、たまったものではなかったろう。

 白村江の戦いで日本が唐新羅連合軍に敗れた後、唐軍の日本襲来に備えて、朝廷は西日本各地に山城を築いた。  

 蒙古襲来時には、鎌倉幕府博多湾沿いに石塁を築いた。

 それと同じく、幕末に江戸湾岸や大坂湾岸、馬関海峡などに築かれた台場も、外国からの脅威に備えた設備である。

 外国からの脅威に備えた設備も、時代時代の兵器や戦い方の違いによって変わるものだ。