妙法寺から南東に数百メートル車を走らせると、道を挟んで北向八幡神社と那須与一墓所が向い合せで建っている。
那須与一は、下野国出身の武者で、源平合戦の折に、源義経軍に従軍した弓の名手として知られる。
屋島の合戦の際に、平家側から出てきた船上の扇の的を、与一が見事に射抜いた話は、あまりにも有名である。
北向八幡神社は、その名のとおり、社殿が北に向いている。北向きの社殿の神社に参拝するのは、兵庫県宍粟市一宮町の伊和神社以来である。
祭神は、八幡大御神だが、北を向いているところを見ると、出雲系の神を祭っていた時期もあったのではないか。出雲に敬意を表して北向きに建てられたという社伝もある。
この神社は、地元民から飛ぶ鳥も社の上を避けて飛ぶほど神威があると言われており、それを聞きつけた義経が、寿永三年(1184年)の一の谷の合戦の前に、那須与一に戦勝祈願の代参をさせたと言われている。
義経は、寿永三年二月七日未明に、多井畑厄除八幡宮を参拝し、その後一の谷に向ったとされる。多井畑厄除八幡宮は、昨年11月27日の当ブログ記事「多井畑厄除八幡宮」で紹介した。
また、昨年1月26日の当ブログ記事「三草山」で紹介したが、義経軍は、その前に兵庫県加東市の三草山の平家の陣を攻略している。
三草山から南下した義経軍は、一の谷の平家の陣の背後に回る前に、多井畑厄除八幡宮と北向八幡神社に参拝して戦勝祈願したのだろう。
北向八幡宮の横には、地元民が那須与一を祀った那須神社がある。
また、北向八幡神社と那須神社の間には、建武四年(1337年)に建立された石造笠塔婆がある。
この石造笠塔婆は、六甲山系の淡紅花崗岩で出来ており、正面に彫られているのは、像の形からして定印阿弥陀如来坐像と言われている。
しかし地元ではこの像は薬師如来と見なされており、「いぼ薬師さん」と呼ばれている。
那須与一は、数々の戦功を挙げたことから、那須家の十一男でありながら、源頼朝より那須家の惣領になることを許され、家督を継いだと言われている。
与一は、北向八幡神社に御礼参りに訪れ、そのままこの地で亡くなったという伝承がある。
那須与一の墓所とされる石造五輪塔が、北向八幡神社の道路を挟んだ向かい側にある。
階段を登っていくと、廟所の建物がある。
廟所の中を覗くと、奥に石造五輪塔が祀られているのが見える。
この那須与一の墓所を参拝すると、年老いても人様から下の世話にならないとされているそうだ。
那須与一の墓所は、京都にもあり、ここで亡くなったという伝承が本当かどうかは分からない。
「平家物語」によれば、与一は源平合戦のころは18、9歳だったとされている。
与一は若くして亡くなったそうだ。だが戦が終って一段落してから、与一が御礼参りにこの地を訪れたことはありそうなことである。
真相は闇の中だが、弓の腕前だけで日本各地に伝説を残した那須与一のことを考えると、卓越した特殊技能は、それだけで歴史に波紋を広げるようである。