植村文楽軒の供養塔のある勝福寺から南下し、淡路市釜口にある法華宗の寺院、妙勝寺を訪れる。
ここは、足利尊氏ゆかりの寺である。
足利尊氏が京都周辺での戦いに敗れ、再起のために一度九州に落ちる途中、淡路島に立ち寄った。
尊氏は、「妙勝」という名を持つこの寺に立ち寄って戦勝を祈願した。
寺院正面の脇には、その時に尊氏が詠んだとされる歌を刻んだ碑がある。
「今むかふ 方はあかしの浦ながら 未だ晴れやらぬ わが思ひかな」という歌である。
中央で敗北して、西国に落ちていく尊氏だが、「まだ負けていないぞ」という気概を感じさせる歌だ。
尊氏は九州で勢力を回復して、大軍を率いて上洛した。湊川の戦いで楠木正成ら南朝勢を打ち破り、京都に入って足利幕府を開いた。
勝った尊氏は妙勝寺を祈願所とし、寺領として釜口荘を寄進した。
尊氏は、延文二年(1357年)に、妙勝寺に天下静謐の祈祷を命じた。寺には、その際に尊氏が認めた足利尊氏御判御教書が残されている。
妙勝寺は淡路島内の法華宗の本山的位置づけの寺院で、本堂も立派なものである。18世紀初期の建築と言われている。
妙勝寺の墓地には、天文、永禄、天正、慶長という、戦国時代真っ只中の時代の銘のある石造品が展示されている。
淡路の他の寺院で、これだけ古い石造品を数多く有する寺院はないらしい。
一石五輪塔が多いが、中には変形したものもある。通常の五輪塔は、水輪部(下から二番目の部分)が球形であるが、この中には方形のものがある。なかなか珍しい。
16世紀は日本中が戦乱の坩堝にあった時代で、ここ淡路でも数々の戦いがあった。それらの戦いの中で命を落とした武士を供養するために造られたものだろう。
妙勝寺の墓地には、兵庫県指定の天然記念物である大くすの木がある。
枝が大きく張り出した、まことに見事な大くすであった。
見事な巨木に出会うと、いつも畏敬の念に打たれる。
さて、妙勝寺は、このように足利氏とゆかりが深く、足利氏の家紋である「丸に二つ引き」を寺紋としている。
客殿の前には、俳人髙田蝶衣(ちょうい)の句碑がある。
蝶衣は、明治19年に妙勝寺の近くで生まれた。
丸い石に、「海のある 国うれしさよ 初日の出」という句が刻まれている。めでたい語感の句だ。
妙勝寺は高台にあり、東に広がる大阪湾を見晴らせる。
妙勝寺の東側には、珍百景などで紹介されたことがある、高さ100メートルの観音像が立っている。蝶衣が生きた頃にはなかったものだ。
私は海岸線が朝日に向かう地域に住んだことがない。海の方角から日が昇るというのは、確かに人を嬉しい気持にさせるように思う。
妙勝寺には、兵庫県指定文化財の妙勝寺庭園がある。江戸時代初期に作られた池泉観賞式庭園で、淡路島最古の庭園である。
石で築かれた滝と、鶴島、亀島という二つの島が築かれた蓬莱式池泉がある。周囲を瓦葺の渡り廊下が巡っている。
石は人を静かな気持ちにさせる。
妙勝寺から出て、南東側を見ると、水平線上に遠く和泉の山々や友ヶ島などが見えた。
当ブログの史跡巡りが和泉に到達するのは、数年後のことだろうが、いつか向う側から淡路島を眺めることがあるだろう。