石の寝屋古墳群

 岩屋の町から北上すると、西岡山が左手に見えてくる。西岡山の中腹に、石の寝屋古墳群があるという。

 そこに至るには、神戸淡路鳴門自動車道の上に架かる石の寝屋跨道橋を越えねばならない。

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石の寝屋跨道橋

 跨橋道を越え、山裾に至る。そこから長い階段を登っていく。途中海の方を見ると、明石海峡大橋と対岸の神戸市垂水区須磨区の街並みを一望することが出来る。

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西岡山からの眺望

 眼下には、潮流の速い明石海峡がある。

 更に登って行くと、石の寝屋古墳群の説明板があった。

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石の寝屋古墳群説明板

 石の寝屋古墳群は、合計8基からなる古墳群である。

 石の寝屋古墳の被葬者は、「日本書紀」の允恭天皇の章に書かれた、海人・男狭磯(おさし)の墓であると地元では言い伝えられている。

 第19代允恭天皇は、淡路島で狩りをしたが、獲物が一匹も獲れなかった。天皇が占うと、島の神は「お前が獲物を獲れないのは、私の意思だ。明石の海底に真珠がある。それを私に捧げれば、お前は獲物を獲ることができるだろう」と言った。

 天皇は、島の神に捧げる真珠を得るため、付近の海人を集めて明石海峡の海底に潜らせた。しかし海が深いため、誰も海底に辿り着けなかった。

 ただ一人、阿波国の長邑出身の男狭磯のみが海底に到達し、桃の実ほどの真珠を持った大鮑を抱えて水面に上って来た。しかし男狭磯は波間に浮かぶとそのまま息絶えてしまった。

 天皇は、大きな真珠を島の神に捧げ、おかげで多くの獣を獲た。ただ男狭磯が死んだことを悲しみ、墓を作ったという。

 さて、石の寝屋古墳群を見学しようと説明板の周りを見たが、どこにもそれらしいものが見当たらない。

 ただ道の向こうに藪が広がるばかりである。

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この藪の向うに古墳がある。

 藪に少し入ってみたが、バラ科の植物でも生えているのか、棘のついた蔓や枝がはびこっていて進みがたい。

 しかし、藪の向う側に広い空間があるのが見えたので、勇気を出して藪の中に入って行った。藪を抜けると視界が広がり、果たして古墳があった。

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石の寝屋古墳

 古墳と言っても前方後円墳ではなく、小さな円墳であった。円墳の裏に回ると、天井板が崩れた横穴式石室があった。

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横穴式石室

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 石の寝屋古墳群には、全部で8基の古墳があるそうだが、藪を突破してようやく1基目に辿り着いただけでかなり疲れてしまった。そのため他の7基は見学出来なかった。

 考古学的には、石の寝屋古墳群は、6世紀後半に築かれたものと見られている。

 允恭天皇は、中国の史書宋書」「梁書」に説くところの、倭王済に比定されており、5世紀半ばに君臨した天皇と思われる。

 そうすると、この古墳が男狭磯の墓とするのは、少し無理があるようだ。

 この古墳群の被葬者が誰であるにせよ、明石海峡を見下ろす眺めの好いこの場所に葬られた人々は、生前から自分の墓所としてここを選んだことだろう。

 何にせよ、海峡の景色はいいものだ。海からの風にあおられながら、そう考えた。

岩屋城跡 岩楠神社

 絵島に渡る橋から南を眺めると、正面に三対山別名城山が見える。

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三対山

 三対山は、山というほどもない低山である。永正七年(1510年)に大内義興がこの山上に岩屋城を築いたとされている。

 三対山への登り口は、麓の飲食店の駐車場にある。

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岩屋城跡登り口

 大内義興が築いた岩屋城がその後どうなったかは分からない。

 慶長十五年(1610年)、「西国の太守」と呼ばれた池田輝政が、淡路統治の拠点として、三対山の上に岩屋城を築く。

 本丸を中心に北の丸と南の丸があったというが、登って見ても城の形跡はさっぱり見当たらない。

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岩屋城跡

 頂上付近まで行ってみたが、藪に覆われて進めなくなった。

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岩屋城跡山頂付近

 南側にまわると、大きな石が置いてあった。城と何か関係があるのだろうか。

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城跡南側の石材

 池田輝政が築いた岩屋城は、慶長十八年(1613年)に由良城が出来たため廃城となった。岩屋城に使われた城郭石材は、由良城の築城に使われたらしいので、城跡にはほとんど何も残っていない。

 岩屋の地は、明石海峡を扼する場所にあるので、古代から要衝だったことだろう。

 岩屋城跡から北に歩くと、恵比須神社が見えてくる。

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恵比須神社

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恵比須神社拝殿

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恵比須神社本殿

 「古事記」では、伊邪那岐命伊邪那美命がオノゴロ島で婚姻をした時に、女神の伊邪那美の方が先に男神伊邪那岐に声をかけた。

 その結果生まれたのが不具の子の蛭子(ひるこ)であるとされている。

 伊邪那岐伊邪那美は、不具の子である蛭子を葦船に乗せて海に流したという。西宮神社の伝承では、流れ着いた蛭子を祀ったのが西宮神社の始まりとされる。

 先に女性の方から男性に声をかけると、健常な子が生まれないということが分り、今度は伊邪那岐の方から声をかけた。伊邪那美は日本列島の島々と様々な神々を産むことに成功する。

 日本列島に先立って生まれた蛭子が、後世いつしか恵比須神と同一視されるようになった。

 恵比須神は、記紀神話には出てこない神様で、海の向こうからやって来る外来物を神格化した神様とされる。

 海に流された蛭子と恵比須神が同一視されてもおかしくはない。

 恵比須神社の裏側には、三対山の岩肌が迫っている。この岩は、絵島や大和島と同じく柔らかい砂岩製なのだろう。人工的に掘られたと思われる洞窟がある。

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洞窟群

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 洞窟は今は物置として使われている。

 この洞窟の中に蛭子神を祭っているのが、岩楠(いわくす)神社である。岩屋の地名は、どうやらこの岩の洞窟から来ているようだ。

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岩楠神社

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 岩楠神社の拝殿は、洞窟に嵌め込まれるように建っている。この奥の洞窟内に、蛭子を祀る祠があるのだろう。

 岩楠神社の洞窟は、昔は52メートルの奥行きがあったが、今は3メートルしかないという。

 恵比須神社表の説明板には、「岩楠神社」とあったが、鳥居の扁額には「岩樟神社」とある。

 「古事記」では蛭子を流した船を葦船としているが、「日本書紀」では、天磐櫲樟(あめのいわくす)船としている。櫲樟は楠のことであるらしい。

 岩楠神社の名は、この天磐櫲樟船から来ているものと思われる。

 楠は、大きく育って材質も固いため、古代には木造船の材料としてよく使われたことだろう。 

 しかしどちらかというと、葦船の方がより原始的で、神話にふさわしい気がする。

 伊邪那岐伊邪那美は、生まれた蛭子を不吉なものとして海に流したが、それがいつしか恵比須神と同一視され、福をもたらす神様として尊崇されるに至った。

 蛭子は、言うなれば日本列島に先立って生まれた兄になるが、その蛭子が今も海の向こうから何かを日本に齎していると想像してみるのも、面白いものだ。

大和島 絵島

 淡路市岩屋は、漁業の町である。岩屋漁港からは、潮流の速い明石海峡に多数の漁船が繰り出す。

 その岩屋漁港のすぐ傍にあるのが、約2000万年前の岩屋砂岩の地層が露出して出来た、大和島、絵島という2つの小さな島である。

 漁港の南側にある大和島は、陸続きの島である。

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大和島

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 大和島は、砂岩や礫岩で出来ている。これらの岩は、柔らかく、波に浸食されやすい。

 島の下の方が波で削られ、中腹以上に、イブキという樹木が群生している。岩上植生というらしい。

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イブキの群落

 大和島のイブキは、樹齢数百年を経たものもあるそうだ。長年の風波に耐えた大和島のイブキ群落は、生態学上貴重なものとして、兵庫県指定文化財となっている。

 この大和島の側に柿本人麻呂の歌碑が建っている。

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柿本人麻呂の歌碑

 歌碑には、「万葉集」に載っている人麻呂の有名な歌である、

天離る(あまざかる) 夷(ひな)の長道(ながじ)ゆ 恋ひ来れば

明石の門(と)より 大和島見ゆ 

 が刻まれている。

 「天離る」は、都(天)から遠く離れた場所である夷の枕詞である。

 人麻呂は、夷である九州に旅して、その帰りに、恋しい妻を慕いつつ、瀬戸内海の長い航路を船に乗って帰って来た。

 船が明石海峡に差し掛かった時、妻の住む大和島が見えたという歌意である。

 ここに言う大和島は、岩屋の大和島ではなく、おそらく明石海峡から見えた今の大阪の海岸とその先の生駒山地のあたり、つまり大和を中心とした地域を指しているのだろう。

 人麻呂は、岩屋の大和島のことを詠ったのではないが、岩屋の大和島の地名は、案外この人麻呂の歌から来ているのかも知れない。

 さて、岩屋漁港の北側には絵島がある。この島も砂岩で出来た島である。

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絵島

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 「古事記」「日本書紀」では、日本列島の産みの親であるイザナギ命とイザナミ命が、国生みの最初にオノゴロ島を作ったとされている。

 この夫婦神が、天の浮橋に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)を海原に下し、「こをろこをろ」とかき回してから引き上げると、矛から滴り落ちた塩が積み重なって、オノゴロ島になったという。

 イザナギ命とイザナミ命は、オノゴロ島に降り立ち、天の御柱と八尋殿を建て、天の御柱を回って、出会ったところで「みとのまぐわい」(性交)をした。

 その後、イザナミは、日本列島の島々を次々と産んだとされている。

 古くから、この絵島を記紀神話で言うところのオノゴロ島とする説が唱えられてきた。

 オノゴロ島に比定されている場所は、絵島以外にもある。今後、淡路の史跡巡りをする過程で、それらの場所を紹介していくことになるだろう。

 絵島は、古くから月の名所としても知られてきた。平家が福原京を都とした時も、平家一門は船で絵島の辺りに渡って来て、ここで月を愛でて歌会を催したという。

 絵島の側に、漂泊の歌人西行の歌碑が建っている。

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西行の歌碑

 西行の歌は、「千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな」というものである。

 歌意は明快である。西行は、万葉歌人山部赤人以来の自然歌人で、後世宗祇や芭蕉種田山頭火といった漂泊の詩人たちが模範とした歌人である。

 西行もこの月の名所に憧れて訪れたものとみえる。

 絵島の上には鳥居があり、宝篋印塔らしきものが見える。 

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絵島上の鳥居と宝篋印塔

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 現在絵島は立入禁止となっているので、宝篋印塔の近くに行くことが出来ない。

 この宝篋印塔は、平清盛大輪田泊(おおわだのとまり、現兵庫港)を築いた時に、人柱として海に沈んだ松王丸を供養するために建てたものと言われている。

 それが本当だとしたら、清盛は、世間の人が名所として愛でる絵島に、供養塔を建てることが、故人に対する供養になると考えたのだろう。

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絵島の全体像

 上の写真は、逆光で絵島が陰になってしまっているが、よく出来た盆栽のような絵島の形が現れている。

 満月の宵などには、絵島は月光に照らされて海上に浮かびあがり、歌になりそうな姿を見せることだろう。

 岩屋漁港からは、長大な明石海峡大橋が見える。

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岩屋漁港から眺める明石海峡大橋

 明石海峡大橋は、現代技術の粋を集めた建設物である。それが神話の舞台とされる場所のすぐ近くに建っている。象徴的な構図だ。

 これから書いていくことになると思うが、淡路島は、日本の古い過去と、新しい要素が錯綜する、日本の未来の姿を垣間見せてくれる島である。この島の魅力を少しでも伝えられたらいいと願う。

淡路市 岩屋神社

 昨年12月下旬に兵庫県淡路市の史跡群を訪れた。

 淡路は、播磨、備前、美作、摂津、但馬、因幡丹波に次いで、私が史跡巡りで訪れた8つ目の国となる。

 淡路島は現在の行政区分では兵庫県に属するが、史跡を訪れてみると、文化圏としては四国の文化圏であると実感する。

 紀伊、淡路、讃岐、阿波、伊予、土佐がかつての南海道だが、高野山と四国八十八ヵ所霊場を有する南海道は、真言宗の勢力が強く、淡路も真言宗の檀家が多い。

 さて史跡巡りで初めて明石海峡大橋を渡った。

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明石海峡大橋

 淡路側から本州を眺めると、大げさだが今まで住んでいた世界が「あちら側」に見えるようで、鏡の向う側に来たかのようだ。

 ところで、平成10年に完成した明石海峡大橋は、全長3911メートル、主塔の高さは約300メートルで、吊り橋の規模を表す中央支間長(塔と塔との距離)は、世界最長の1991メートルを誇る。

 潮流が速く、水深の深い明石海峡に架けられたこの橋は、橋梁建設技術の粋が集められた。

 明石海峡大橋を渡ってすぐの淡路サービスエリアに接続して、兵庫県淡路島公園がある。

 公園内の昭和池に架かる塩屋橋は、大正7年(1918年)に今の兵庫県洲本市の洲本川に架けられた、兵庫県内最古の鋼鉄橋である。

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塩屋橋

 ところで、兵庫県淡路島公園には、テーマパーク「ニジゲンノモリ」があり、等身大のゴジラの上半身像があることで有名である。

 私は子供のころからのゴジラファンだが、史跡巡りとは関係ないので、今回は訪問しなかった。

 実は上の写真に、そのゴジラの背びれが遠く写り込んでいる。わかりにくいが拡大したらお分かり頂けるだろう。

 さて、塩屋橋は、昭和33年に兵庫県美方郡浜坂町の岸田川に移設され、戸田橋として使用されたが、文化財としての価値が認められ、昭和61年に現在地に移設され、保存されることとなった。

 現在は国登録有形文化財となっている。兵庫県内に現存する唯一のポニートラス橋であることが評価されたそうだ。

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塩屋橋

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 さて、次に淡路市岩屋にある岩屋神社を訪れた。

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岩屋神社

 岩屋神社は、第10代崇神天皇の御代に創建されたと伝わる。元々は、約300メートル北方の三対山上にあったと言われているが、永正七年(1510年)に大内義興が三対山に岩屋城を築いた際に、現在地に移されたという。

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長屋門

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 岩屋神社には、古くはないが、立派な長屋門がある。

 岩屋神社の祭神は、国常立尊伊弉諾尊伊弉冉尊である。祭神は、古くは天地大明神、絵島明神、岩屋明神と呼ばれた。

 社伝によると、神功皇后三韓征伐のおり、皇后が対岸の明石垂水の浜で風波にあわれて渡海に難渋し、風待ちのため岩屋に着岸した。

 皇后は、三対山上の石屋明神に参拝し、戦勝を祈願され、「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」と詠じ給うと、風波が止み、海上は静まったという。

 拝殿の扁額には、「天地(あめつち)大明神」と書かれている。

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岩屋神社社殿

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拝殿

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 岩屋神社は、仁安三年(1168年)に、二条天皇から天地大明神という神名を賜ったという。

 日本各地の神社の祭神名は、明治維新以降一新された。それまで崇められていた神名が、明治になって変更された神社が多い。

 しかし、拝殿の扁額には、江戸時代まで崇められた神名が書かれていることが多い。

 拝殿の前に、俳優渡哲也が奉納した灯籠があった。

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渡哲也が奉納した灯籠

 昨年亡くなった俳優渡哲也は、今の淡路市岩屋出身である。

 私は10年前、NHKがドラマ化した司馬遼太郎原作「坂の上の雲」を観て、東郷平八郎役をした渡哲也の渋い演技に感心した。

 昭和、平成を代表する俳優も、故郷の氏神様のことは忘れず大事に思っていたようだ。

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本殿

 神社の前の海岸からは、海の向こうの神戸市街や鉢伏山が見える。

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海の向こうの神戸市街

 古くから、この海岸から対岸の様子が眺められたことだろう。

 源平合戦の時は、ここからも赤旗と白旗が入り乱れる様子が見えたのではないか。神戸大空襲の際は、夜間に燃えさかる神戸市街が見えただろうし、阪神淡路大震災の時は煙りを上げる神戸市街が見えたことだろう。

 淡路は、畿内と四国の間に位置する島である。古くから国生みの島とされ、歴史上独特の位置にあった。

 これからの史跡巡りで、そんな独特な淡路の歴史に触れることが出来たらいいと思う。

旧陸軍第十七師団の遺構 後編

 岡山大学から南に行った突き当りにある、岡山市北区いずみ町の県総合グラウンドは、明治40年の陸軍第十七師団創設から昭和20年の終戦まで、陸軍の練兵場として使用された場所である。

 今はスポーツ施設や公園などがある、市民の憩いの場となっている。

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岡山県総合グラウンド

 県総合グラウンドの敷地は広大である。敷地中央には池があり、その中にオベリスクが聳えている。

 かつてはこの場所で、陸軍兵士が部隊教練や演習を行っていたことだろう。

 この県総合グラウンドの敷地内に、現在総合グラウンドクラブとして利用されている白塗りの洋館がある。

 これが、旧陸軍第十七師団岡山偕行社(かいこうしゃ)である。明治43年(1910年)に建設された建物で、現在は国登録有形文化財となっている。

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旧陸軍第十七師団岡山偕行社

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 偕行社は、旧陸軍の将校、准士官の親睦会、互助会として、明治10年に設立された。陸軍各師団に偕行社の建物が建設され、ここで師団幹部らが飲食会や各種会合を開催した。

 森鷗外は、九州小倉の陸軍第十二師団の軍医部長として、足掛け3年間勤務したが、小倉滞在中に執筆した「小倉日記」に、頻繁に偕行社のことが出てくる。

 当時の師団軍医部長は、軍医監という階級で、戦闘部隊の将校で言えば少将相当官であった。

 「小倉日記」を読むと、鷗外も偕行社での会合に数多く参加したことが分る。

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旧岡山偕行社ファサード

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 この偕行社は、実は現在も公益財団法人として続いている。終戦で一度解散したが、日本独立後の昭和27年に、有志が集まって偕行会として復活、昭和32年に名称をかつての偕行社に戻し、旧陸軍幹部の親睦・互助と戦没者の顕彰、学術研究の活動を続けた。

 戦後は、陸上自衛隊航空自衛隊の元幹部自衛官を会員に加え、活動を継続しているそうだ。

 海軍は、同様の組織として水交社を有していたが、戦後水交会という名称で復活した。今は会員の大半を海上自衛隊の幹部自衛官OBが占めているという。

 旧軍の伝統は終戦で途切れたと思っていたが、こういう形で自衛隊に引き継がれ、現在も続いていることを知って、少し頼もしい気持になった。

 岡山偕行社は、白亜の木造建ての瀟洒な建物である。

 1階は現在はレストランとして利用されている。

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旧岡山偕行社1階

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食堂入口

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食堂

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 今は洒落たカフェ風のレストランになっている。かつてここで、正装した陸軍将校達が盃を挙げて乾杯したところを想像した。

 森鷗外の「藤鞆絵」や「懇親会」に、当時の陸軍の一杯会の描写があるが、現代の我々の座敷での飲み会と然程変わらない。昔から人間のやることは、あまり変わらないものだ。

 2階に昇る階段の手すりや、廊下のしつらいが、上品であった。

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階段

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 日本の洋館の中には、装飾過多なものもあるが、この旧岡山偕行社は、戦闘するための組織である軍の建物である故、過剰な装飾は廃されている。正装した軍人のように、折り目正しさと清潔感と武威を感じさせる建物だ。

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2階への階段

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2階の廊下入口の飾り

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2階廊下

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2階廊下天井

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2階廊下の窓

 旧岡山偕行社は、戦後進駐軍に接収されたが、昭和25年から昭和43年まで岡山労働基準局の建物として利用された。

 その後昭和53年まで合宿所として利用されたが、老朽化のため閉鎖された。平成2年に改修されて、以後総合グラウンドクラブとして利用されることになった。

 旧日本陸軍は、戦後の日本社会では、どちらかというと忌み嫌われ、存在を黙殺され続けてきた。

 旧陸軍が、戦後そのような扱いを受けるようになった理由については、私もある程度知っている。

 しかし、旧陸軍は、日本の歴史上最大の組織であり、日本史上最大の戦争を戦った組織であることは、厳然とした事実である。

 この組織について真正面から向き合わないと、日本の歴史の全体像は理解できないと思う。

旧陸軍第十七師団の遺構 前編

 日本は日露戦争に勝利してから、更に軍備を増強することになり、明治40年(1907年)に陸軍に二個師団が増設された。

 その時に設立されたのが、岡山に司令部が置かれた陸軍第十七師団である。

 現在の岡山大学津島キャンパスのある場所に司令部が置かれ、岡山県総合グラウンドのある場所が練兵場となった。

 今日は、岡山大学津島キャンパスにある旧陸軍第十七師団の遺構を紹介する。

 岡山大学津島キャンパスは広大であり、学生たちは自転車でもなければ移動するのが大変だろうと思われる。

 私が訪れたのは、日曜日の夕暮れ時であり、自由にキャンパスに出入り出来た。キャンパス内には、犬の散歩に訪れている方もいた。

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岡山大学図書館時計塔

 岡山大学本部の南西側に移築保存されているのが、旧陸軍第十七師団、歩兵第三十三旅団、岡山連隊区司令部庁舎だった建物である。

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旧陸軍第十七師団、歩兵第三十三旅団、岡山連隊区司令部庁舎

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 ところで陸軍第十七師団には、第一次編成と第二次編成の二種類がある。

 第一次世界大戦終結後、世界的な軍縮の波が押し寄せた。関東大震災からの復興を願う国民も、軍縮を望むようになった。岡山に司令部を置いた第一次編成の第十七師団は、国民世論の後押しもあり、大正14年(1925年)に廃止となった。

 第十七師団は廃止となったが、第十七師団の編成の一部となっていた歩兵第三十三旅団司令部は残された。

 そして、姫路に駐屯していた陸軍歩兵第十連隊がこの地に移って来た。

 ちなみにその後、支那事変の勃発に伴い、昭和13年に師団が増設され、欠番となっていた第十七師団が復活した。しかし、この第二次編成の第十七師団は、編成されてすぐに中国大陸に派遣され、終戦まで日本に戻ってこなかった。第二次編成の第十七師団は、岡山とは無関係である。

 ところで、この司令部庁舎は、戦後になってから平成14年まで岡山大学の事務局棟として使用された。その後、現大学本部の南西側に移転復元された。

 陸軍第十七師団司令部のころの写真を見ると、今の建物は司令部の正面部だけが残されているに過ぎないことが分る。

 大学本部の前には、旧陸軍第十七師団司令部衛兵所が岡山大学情報展示室として残されている。

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旧陸軍第十七師団司令部衛兵所

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 この衛兵所は、ほぼ当時のまま残っている。国登録有形文化財となっている。

 軍隊の建築物は、何よりも簡素で機能的なことが重んじられている。そんな建物でも、時代を経れば文化財になるのだ。

 大学図書館の前に門衛所があり、今も警備員が詰めているが、ここはかつて軍の門衛所として使用されていたものである。

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門衛所

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 木造モルタル造りの建物だろう。

 大学図書館の裏手にある文学部考古学資料室は、陸軍工兵第十大隊の浴場・食堂として使用されていた煉瓦造りの建物である。

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陸軍工兵第十大隊の浴場・食堂

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 ところで、第一次編成の第十七師団が廃止されてから、姫路から岡山に移って来た歩兵第十連隊は、西南戦争、日清・日露戦争にも従事した歴史ある連隊であった。

 岡山に移ってからは、満州事変、熱河作戦や、中国大陸での各作戦に投入された。

 大東亜戦争では最後にフィリピンのルソン島に派遣された。

 昭和20年、歩兵第十連隊は、フィリピンに上陸してきた米軍と激戦を展開し、部隊は壊滅した。死者率は何と部隊の92パーセントに上ったという。

 通常死傷者が部隊の3分の1に上れば、その部隊の戦闘能力はなくなると言うが、部隊の92パーセントが戦死するまで戦い続けたというのは、勇猛と言うべきか、悲惨と言うべきか、ともかく凄まじい精神力だ。

 言うべき言葉は思い浮かばないが、ただ日本を離れた地で戦死した兵士たちの冥福を祈るばかりである。

神宮寺山古墳

 法界院から南に行き、JR津山線を越えて、岡山市北区三野にある岡山市三野浄水場に行く。

 ここには、三野浄水場の旧動力室、ポンプ室の建物だった、岡山市水道記念館がある。

 岡山は、旭川下流の三角州地帯に出来た町で、住民は古くから河川や用水溝の水を飲料水として用いてきた。そのため、コレラ赤痢、腸チフスといった伝染病に苦しめられてきた。

 明治に入って、伝染病防止のためにも、水道施設の整備が強く求められた。

 三野浄水場は、明治38年に完成し、赤レンガの洋風建築の動力室、ポンプ室も完成した。

 昭和60年に、動力室、ポンプ室は、岡山市水道記念館となり、今では体験型施設として、子供から大人まで楽しむことが出来るという。

 しかし、私が訪れた時は改装工事中で、見学することは出来なかった。

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改装工事中の岡山市水道記念館

 代わりに、岡山市水道局のホームページに掲載してある写真を掲載する。

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岡山市水道記念館

 赤レンガに本瓦葺という、いかにも明治という建物だ。

 明治時代に盛んに建てられた煉瓦造りの建物だが、関東大震災で多くが倒壊した。

 関東大震災以降、耐震性が強い鉄筋コンクリート製の建物が建てられるようになった。

 最近ガラス張りのビルが目立つようになってきたが、後世には、明治・大正は煉瓦の時代、昭和はコンクリートの時代、平成・令和はガラス張りの時代と見なされるようになるだろうか。

 さて、岡山市水道記念館から南に行き、岡山市北区中井町の国指定史跡・神宮寺山古墳を訪れた。

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神宮寺山古墳

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 神宮寺山古墳は、全長約150メートル、高さ約13メートルの巨大な前方後円墳で、岡山市街のど真ん中に存在する古墳である。

 およそ、4世紀後半から5世紀初めに築かれた古墳とされている。

 後円部の上には、天計神社という小さな社があり、前方部は墓地になっている。

 後円部に神社があるおかげで、古墳は破壊を免れたらしい。

 後円部は三段に、前方部は二段に築かれている。

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後円部

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 当時の古墳は、自然の山や丘陵を利用したものが多いが、この神宮寺山古墳は、沖積平野に作られた古墳である。

 神宮寺山古墳の墳丘は全体が人工的に築かれたものと思われる。

 石段を登ると、「延喜式」の式内社である天計(あまはかり)神社がある。

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天計神社

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 天計神社の脇に、竪穴式石室の蓋石と思われる石が露出していた。

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竪穴式石室の蓋石

 墳丘上からは、葺石や埴輪の破片などが発掘されたが、石室からは、鋤、鎌などの農具や、鉋、鑿などの工具、刀、甲冑、槍、鉾などの武具も見つかったという。

 当時の岡山平野を統治した首長の墓であろう。

 前方部は、南側が少し削られており、上に墓地が出来ている。

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後円部から前方部を望む

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 この古墳が築かれたのは、第15代応神天皇の時代だろう。日本が瀬戸内海を通じて朝鮮半島にも進出した時代である。

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前方部から後円部を望む

 古代には、この古墳の近くまで海が迫っていたことだろう。この墳丘に登れば、瀬戸内海を行く船を見送ることができたことだろう。

 船からも大きな古墳を眺めることが出来たことだろう。古代の古墳は、巨大なモニュメントでもあった。