伊勢久留麻神社 勝福寺

 松帆神社から更に南下し、淡路市久留麻に至る。

 ここにあるのが、伊勢久留麻神社である。

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伊勢久留麻神社

 伊勢久留麻神社の祭神は、大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと)である。大日孁貴尊は、天照大御神の別名である。

 相殿には、織物の神・漢織姫尊(あやはとりひめのみこと)を祀っているという。

 第30代敏達天皇のころ(572~585年)に、伊勢国久留真から勧請したと言われている。

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拝殿

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 昭和55年2月11日の建国記念の日に、NHKテレビが放送した特別番組「知られざる古代~謎の北緯三十四度三十二分」が、伊勢久留麻神社を「西の伊勢」として紹介し、注目を浴びるようになった。

 この番組は、北緯34度32分上に、太陽信仰に関連する寺社等が並んでいることを紹介したテレビ番組であるそうだ。

 東から順番に伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺箸墓古墳大鳥神社、伊勢久留麻神社、舟木石上神社が、概ね北緯34度32分上に並んでいるそうだが、これが何の意味を持っているのかはよく分からない。

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拝殿から見た本殿

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本殿

 「延喜式」には、淡路十三社の内、三番目に伊勢久留麻神社が記載されていることから、淡路島内では格式が高い神社とされていたのは間違いない。

 三重県鈴鹿市に久留真神社があるが、この久留真神社の社伝では、第21代雄略天皇の御代(458~479年)に、呉の国から我が国に渡来し、勅命に従って伊勢国に紡績や衣縫の技術を伝えた漢織姫とその一族の多大な功績を讃えるべく、漢織姫を相殿に合祀したとの事である。

 敏達天皇の御代に、伊勢から淡路島の東浦の地に、紡績・衣縫技術が伝えられた際に、伊勢の久留真神社に祀られた漢織姫尊が分祀されたのではないかと思われる。

 三重県の久留真神社の祭神は、大己貴命であり、伊勢久留麻神社の祭神・大日孁貴尊とは異なる。大日孁貴尊がここに祀られた由来は分らない。

 さて、伊勢久留麻神社から国道28号線を更に南下し、淡路市仮屋に至る。

 国道沿いにある真言宗の寺院、勝福寺には、大阪の文楽座の基礎を作った植村文楽軒の供養塔がある。

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勝福寺

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 植村文楽軒は、宝暦元年(1751年)に淡路市仮屋の地に生まれた。本名は正井与兵衛という。

 与兵衛は、この地で正井家の養子となり、妻と共に大坂に出て道具屋を始めた。

 少年時代から義太夫節の天分を発揮していた与兵衛は、大坂の高津橋南詰に浄瑠璃稽古所を開き、文化二年(1805年)には人形浄瑠璃座を組織した。

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植村文楽軒の供養塔

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梵字の銘文

 与兵衛は、晩年植村文楽軒を名乗った。彼の跡を継いだ三世の文楽翁が、座名を文楽座と称した。これが現在も大阪に存在する文楽座である。

 勝福寺は、恐らく正井家の菩提寺だったのだろう。植村文楽軒の墓は大阪にあるそうだが、出身地の仮屋に供養塔が建てられたのだろう。

 漢織姫にしろ、植村文楽軒にしろ、我が国の文化の発展に寄与した人物は、長く顕彰されるべきである。