お盆に本家のお墓のある西宮に墓参りに行った。
その帰りに、神戸市東灘区の香雪美術館に立ち寄り、「茶の湯の茶碗展」を観た。
その際、香雪美術館のすぐ隣にある、弓弦羽(ゆづるは)神社も訪れた。
ここ最近、男子フィギュアスケートの羽生結弦選手が、社名が自分の名前に似ていることから参拝したことでも有名な神社である。
今日は、その弓弦羽神社を紹介する。
私は今まで、播磨、備前、美作の三国の史跡を紹介して来たが、今回初めて摂津国の史跡を紹介する事となった。
ついに史跡の宝庫、畿内に入り込んだわけだ。摂津の史跡は数多く、道は遠い。
弓弦羽神社があるのは、神戸市東灘区御影郡家である。山手の高級住宅街の中にある神社だ。
弓弦羽神社は、神功皇后が朝鮮征伐から帰国した際、忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱の報を聞いて、この地に上陸し、弓矢甲冑をおさめ、熊野大神に戦勝祈願したのが発祥とされている。
忍熊皇子は、神功皇后の夫、第14代仲哀天皇が、大中比売(おおなかつひめ)命との間に作った子である。
つまり、忍熊皇子は、仲哀天皇と神功皇后の間の子である第15代応神天皇の異母兄になる。
忍熊皇子は、神功皇后が無事に応神天皇を出産したことを知り、皇位が応神天皇に渡るのを恐れ、同母弟の香坂王(かごさかのみこ)と謀り、帰国する神功皇后の軍勢を迎え撃つことにした。
結果的に神功皇后軍が大勝し、皇位は応神天皇系が継承することになる。この応神天皇が、その後八幡大神として全国の八幡神社に祀られるようになったことから見ても、古代には応神天皇が皇室の画期となる天皇と認識されていたのだろう。
この神功皇后が弓矢甲冑を奉納した故事から、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽(六甲山)と呼ぶようになったという。
桓武天皇の延暦年間(782~806年)に弓弦羽ノ森は神領地と定められ、嘉祥二年(849年)にこの地に神祠が建てられたという。それが今の弓弦羽神社である。
御祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)であり、いわゆる熊野三神である。
弓弦羽神社の垂れ幕にも、熊野大神の御使いである三本足の八咫烏(やたがらす)が描かれている。
八咫烏は、神武天皇が熊野に上陸して、大和盆地を目指して進軍した時に道案内をしたと伝えられている。
神功皇后も、忍熊皇子との戦いで、畿内を迂回して熊野に上陸し、南から大和盆地を目指した。熊野は今の皇統とゆかりの深い地である。
弓弦羽神社の今の本殿は、明治3年に造営されたものである。神戸市内でも最大級の木造本殿である。
本殿は檜皮葺だったが、昭和11年に銅板葺きに葺き替えられた。令和元年に2度目の葺き替えを行ったばかりで、今は非常に美しい屋根を見せている。
オーソドックスな流造りの本殿である。
本殿前には、昭和から平成まで、本殿の屋根に載っていた鬼板と鰹木が展示されていた。なかなかの大きさである。
さて、神功皇后が戦勝祈願して忍熊皇子軍に勝った故事にあやかってか、この神社には勝負に勝つことを祈願しに来る参拝客が多い。
また、八咫烏が日本サッカー協会のシンボルマークになっているからか、境内には御影石で造られたサッカーボールが展示されていた。
境内を散策すると、明治天皇の御製を刻んだ御製碑が建っていた。
「日の本の 国の光の そひゆくも 神の御稜威(みいつ)に よりてなりけり」という歌である。
明治の世も今の世も、日本の神々の御稜威は変わらず輝いていることだろうか。
境内には、参拝者が生まれた我が子の手形足形を御影石に印刷して残した記念碑があった。
子を慈しむ親の気持ちの現れの一つだろうか。ここにこうして自分の誕生時の手形足形が半永久的に残ることを知った子供たちは、神様に恥じない生き方をしようと思うことだろう。
弓弦羽神社は、旧郡家(ぐんげ)、御影、平野の旧三村の氏神である。毎年5月3、4日には、氏子たちがかつぐ8地域のだんじりが町内を巡行し、最後に宮入する。
香雪美術館の裏には、郡家地域のだんじりを収納展示する郡家伝統文化会館があった。
神戸と言えば、お洒落でモダンな街というイメージがあると思うが、実は神社が多く、祭りが盛んな地域でもある。
神功皇后ゆかりの神社も非常に多い。今も昔も、神戸は航海に縁が深い地域である。