人口約30万人の明石市の象徴となる建物が明石城である。天守はないものの、国指定重要文化財の三重櫓2棟を有する近世の本格的城郭建築の遺構である。
別名喜春(きしゅん)城と呼ばれる。
かつて訪問した明石市立文化博物館には、明石城の模型が展示してあった。江戸時代の明石城の全貌を知るには丁度良い資料である。
現在でも城の最も外郭となる外堀は残っている。その他城郭遺構として残っているのは、中央の本丸とその右側の二ノ丸、東ノ丸、本丸左側の稲荷曲輪である。
外堀は、現在も満々と水を湛えていて、白鳥やアヒルが悠々と泳いでいる。
明石城の南西側に、かつての明石藩重臣織田家屋敷の長屋門が残っている。明石市指定文化財である。
明石城は、元和五年(1619年)に、小笠原忠政(後忠真に改名)によって築城された。
忠政は、義父の姫路藩主本多忠政と相談して、人丸山上に城を築いた。
その前の安土桃山時代に、高山右近の手により、明石川河口付近に築城されたのが船上(ふなげ)城である。
右近がキリシタン追放令により追放された後、城主は度々変わったが、元和三年に初代明石藩主となった小笠原忠政が船上城に入城した。
明石城建築の際は、船上城の部材を利用したといわれている。
この織田家長屋門も、船上城の門を移築したものとされている。門の止め金に室町時代後期の様式が残っているそうだ。
城の正面の太鼓門(大手門)跡から、城に入ることができるが、正面入口右手に今年8月3日の当ブログの記事「浜光明寺と朝顔光明寺」で紹介した、大洋漁業の創始者中部幾次郎の銅像が建っている。
中部は昭和21年に貴族院議員となった直後に没したが、この銅像は昭和3年に明石市が、市の発展に貢献した中部を顕彰するために建てたものである。
太鼓門の建物は既にないが、堂々たる石垣が往時をしのぶよすがとなる。
明石城の跡は、現在明石公園として整備されており、園内には明石城の遺構のみならず、各広場や野球場、自転車競技場、陸上競技場、兵庫県立図書館などが整備されている。
太鼓門跡から入ると、正面に明石城の象徴と言ってよい、坤櫓(西側)と巽櫓(東側)が見える。
この2つの櫓は、全国に現存する築城当時からの三重櫓12棟のうちの2つで、国指定重要文化財となっている。
築城当時は、本丸に御殿を築き、四隅に三重櫓を建て、櫓の間に土塀を築いて本丸を囲んでいた。
坤櫓の南西側は、かつて藩主などの屋敷のあった居屋敷郭跡であるが、現在は明石トーチカ球場などが建てられている。
明石トーチカ球場は、夏の全国高校野球大会の兵庫県大会の会場となる球場であり、全国高校軟式野球大会の会場ともなっている。
また巽櫓の南側には、かつて三ノ丸があった。今、三ノ丸跡の乙女池付近に再現されているのが、「明石城 武蔵の庭園」である。
小笠原忠政に招聘されて明石藩に仕えることになった宮本武蔵は、明石城下町の町割を考え、また明石城内に藩主の遊興所である樹木屋敷を造ったと言われている。
樹木屋敷は、現在の明石公園陸上競技場の辺りにあったとされる屋敷と庭園の総称であるが、大正11年に実施された明石公園の大拡張工事の際に、樹木屋敷の庭園材料や樹木が、乙女池付近に移築された。
平成15年に、元樹木屋敷の庭園材料を利用して乙女池付近に再現されたのが、武蔵の庭園である。
庭園には、武蔵作の庭に必ず見られる大小2つの滝が再現されている。
その内の大滝には、阿波の青石が多用されていて、寂びた景色を見せている。
また園内には、御茶屋も再現されていて、庭園で憩う人達の休憩所となっている。
明石海峡を扼する地に建てられた平城である明石城は、江戸時代の瀬戸内海の要衝の一つだっただろう。小笠原家が九州小倉に移封された後、変遷を経て天和二年(1682年)に明石城主となったのは越前松平家であった。以後明石藩は幕末まで親藩となる。
明石藩が播磨では唯一と言ってよい親藩となったということは、如何に幕府がこの地を重視していたかの現れであろう。
次回は明石城の中核部分について触れたい。