今年8月5日の当ブログの記事「明石市立天文科学館 前編」で紹介したように、明治43年に、当時の明石郡の小学校教員たちが私費を投じて、子午線が通過する場所に子午線通過地識標を建てた。
一つは現在の明石市天文町に建てられたが、もう一つの識標は、現神戸市西区平野町黒田に建てられた。
平野町黒田の識標は、今も民家の脇にひっそりと佇んでいる。
ここから車を走らせ、神戸市西区の中心である西神中央の市街地を抜け、神戸市西区櫨谷(はせたに)町谷口にある天台宗の寺院、比金山如意寺に赴く。
この辺りは、建設会社の資材置き場が多く、寺院まで続く細い道を通っても、見えるのは資材置き場ばかりで、こんなところに果たして寺院があるのか不安になる。
そんな殺風景な景色の中、突然寺院の山門が現れる。
仁王門の両脇には、鎌倉時代に作られた仁王像が立っている。像は破損が進み、下の木材がむきだしになった個所もある。
破損が進んでいても、貴重な鎌倉期の木像である如意寺仁王像は、兵庫県指定有形文化財である。
仁王門から車で200メートルほど進むと如意寺の堂宇が見えてくる。
寺伝によれば、如意寺は、大化元年(645年)に法道仙人が、毘沙門天のお告げにより櫨の木を刻んで地蔵菩薩像を造り、像を安置する堂を創建したことに始まるとされている。
このあたりの地名を櫨谷と言うが、ひょっとしたらこの寺院の創建説話と地名の発祥に何か関連があるのかも知れない。
しかしその後寺は荒廃した。正暦年間(990~995年)に願西上人が寺院を復興し、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えた。
現在の如意寺には、文殊堂、三重塔、常行堂(阿弥陀堂)の3つの国指定重要文化財の建物があり、天台宗寺院の典型的な伽藍配置を見せている。
境内に入ってまず見えてくるのは、文殊堂であり、その背後に三重塔が聳え立っている。
文殊堂は、境内南側の傾斜地に建てられており、懸造様の高床を持つ建造物である。
文殊堂の周囲は格子戸で覆われ、内部を窺うことが出来る。
如意寺は、応永十三年(1406年)に罹災したとされるが、文殊堂はその後の建築とされている。
文殊堂の巻斗に癸酉の墨書があるため、癸酉年である享徳二年(1453年)の建立という説もある。いずれにしろ室町中期の建物で、現在は国指定重要文化財である。
文殊堂は、江戸時代に一度修理されているが、室町時代中期の建築の特徴をよく残しているそうだ。
格子戸から文殊堂内部を観ることが出来る。内部は、古い木目が浮き出た柱が何本も立つ広い空間であり、ここで多くの僧侶が勤行を行ったのではないかと想像される。
文殊堂の奥には、3つの厨子がある。それぞれの厨子の中には仏像が収められているのだろうが、それぞれの厨子の前に御前立の仏像が祀られている。厨子内の仏像と同形の仏像だろう。
文殊菩薩像と言えば、獅子の上に乗る姿が有名だが、曹洞宗などでは、このように僧形の文殊菩薩像を禅堂に祀ったりするそうだ。この聖僧文殊が祀られているということは、この文殊堂は禅の修行に用いられた建物だったのではないかと思われる。
向って聖僧文殊の左側に地蔵菩薩像が立つが、これが本尊の地蔵菩薩像の御前立像だろう。
地蔵菩薩像は、元々本堂に祀られていたが、本堂は大東亜戦争時に傾いてしまい、戦後になって修理されることもなく解体されてしまった。
15世紀に建てられてから使われ続ける古い木材と、威厳ある仏像に囲まれたこの空間は、いかにも僧侶が厳しい修行をする場所に相応しいと思われる。
酷暑の中ではあったが、文殊堂を拝観して、清爽とした気分を味わうことが出来た。