明石城の巽(たつみ)櫓は本丸の南東に、坤(ひつじさる)櫓は本丸の南西に建つ三重櫓である。
両方、国指定重要文化財である。
巽櫓は、安土桃山時代に明石川河口付近に建てられた船上(ふなげ)城の天守か櫓を移築したものとされている。
巽櫓の東側の石段から、二の丸、東の丸に登る。二の丸、東の丸の石垣が、結構複雑な様子を見せていて、石垣の建築美を見せてくれる。
上に建物がないだけ、想像を逞しくさせる余地がある。
途中で、明石市街を見下ろす巽櫓を写せるポイントがあった。
こうして近くで石垣を見ると、手前の石垣などは不揃いの石で積んだ野面積みに近く、古武士の様な風格を感じる。
平成7年の阪神淡路大震災により、明石城の石垣は至る所で崩落し、巽櫓と坤櫓も傾き、櫓や塀の漆喰にひびが入った。
しかし、櫓自体は倒壊せず、当時の城郭建築の工法が再評価された。
明石城は、その後日本城郭史上初となる曳家工法(建物ごとスライドして移動させる工法)により修理され、平成11年に修復工事が終了した。
巽櫓で不思議なのは、南側と東側には連子窓がついているのに、北側と西側には窓がなく、壁で覆われていることである。
北側と西側は本丸側になるが、本丸に侵入してきた敵から櫓を防備するためであろうか。分らない。
もしかしたら、船上城時代の設置場所と関連しているのかも知れない。
巽櫓と坤櫓の間には長大な漆喰塀があり、鉄砲挟間が設置されている。
本丸の漆喰塀越しに、明石の市街地と、その向こうの淡路島を望むことが出来る。
坤櫓は、伏見城から移築されたものという伝承が残っている。昭和57年の大改修の際、構造上坤櫓が他から移築されたものであることが裏付けられた。
当ブログの今年8月9日の記事で紹介した月照寺の山門は、明石城切手門を移築したものだが、これも元は伏見城薬医門を移築したものである。
明石城には、徳川幕府から小笠原忠政に与えられた伏見城の遺構が多数利用されている。
坤櫓は、巽櫓と異なり、本丸側の北側と東側にも連子窓がついている。
巽櫓が南向きなのと比べ、坤櫓は西向きである。
坤櫓が西向きなのは、明石城が西国の外様大名の反乱に備えるための城だからだという説があるが、真相はどうなのだろう。
さて、坤櫓の北側には、天守台がある。
明石城天守台には、江戸時代を通じて一度も天守は建てられなかった。
天守台の少し東側に、鬱蒼とした樹に覆われた人丸塚がある。
現在の明石城本丸の辺りは、弘仁二年(811年)にこの地を訪れた弘法大師空海が、楊柳寺を建てた跡とされる。
仁和三年(887年)に、楊柳寺住職の覚証上人が、大和の柿本寺から船乗十一面観世音菩薩を勧請し、人丸塚の上に柿本人麻呂を祀る人丸社を建て、寺号を月照寺に改めた。
小笠原忠政が明石城を築城するに際し、月照寺と人丸社は、現在月照寺と柿本神社のある場所に移転した。
人丸塚には、地元出身の俳人横山蜃楼の俳句、「鵙(もず)の声 屈するところ なかりけり」の句碑が建っている。
弘法大師空海が建てた楊柳寺や、人麻呂ゆかりの祠がかつてあった場所に建てられた明石城は、神仏の加護を受けているのだろうか、現在も無事な姿を見せている。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて建てられ、ここに移築された2つの櫓を現在も拝める仕合せを感じる。