私が史跡巡りで訪れた、14番目の三重塔である。
元和五年(1619年)に三重塔を修理した際、塔上部の相輪の部材から至徳二年(1385年)の刻銘が見つかった。そのため、この三重塔が室町時代初期に建てられたことが判明した。
兵庫県下では、加西市の法華山一乗寺の国宝・三重塔に次いで古い三重塔である。
この塔の三層には、それぞれ大日如来、釈迦如来、多宝如来が安置されており、法華経と密教思想の融合を表している。
軒の重さを集約して柱に伝える斗栱は、寺社建築でよく見かける建築技法だが、この三重塔の斗栱は木目がよく浮き出ていて、何故か心惹かれる美しさだった。
密教では、言葉だけでは伝わらない真理を曼荼羅で表現して伝えようとする。紙や絹に描かれたものだけが曼荼羅なのではない。弘法大師空海は東寺に仏像を設置して立体曼荼羅を造り、仏の世界を表した。
密教では、大日如来を安置した塔を仏像そのものと見る。仏像を祀った堂塔を配置した密教寺院は、寺院そのものが立体曼荼羅なのである。
三重塔に対置するように建つのが、国指定重要文化財の常行堂(阿弥陀堂)である。
常行堂は、天台宗の寺院の中では重要視されている建物だ。阿弥陀如来をご本尊として祀り、僧侶は阿弥陀如来像の周りを巡りながら、南無阿弥陀仏の念仏三昧の修行を行う。
浄土宗や浄土真宗などの念仏系の宗派は、天台宗のこの修行を母体に生まれたのだろう。
常行堂は、応永十三年(1406年)と寛文十二年(1672年)に大きく改修されているが、元々の建物は平安時代末期の12世紀末から13世紀初頭に建てられた。
神戸市内では最古の建造物である。
正面は半蔀で覆われ、屋根は銅板葺きだが、その下に杮葺きの屋根が見えている。落ち着いた佇まいの建物だ。
ご本尊の阿弥陀如来像は、常行堂と同時代に造られたもので、神戸市指定有形文化財となっている。説明板によれば、素晴らしい像であるということだが、拝観は出来なかった。
常行堂のすぐ傍に、古い宝篋印塔があった。
「兵庫県の歴史散歩」上巻によれば、平維盛に関連する宝篋印塔であるらしいが、説明板がないので維盛とどう関係するのかよく分からない。
維盛は、平清盛の嫡孫だったが、富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いで源氏に大敗を喫した。
その後、維盛は一の谷の合戦の陣中から逃亡し、高野山で出家したが、那智の沖合で入水自殺したと伝えられる。
この宝篋印塔と維盛との関係は謎であるが、宝篋印塔の形からして、南北朝期のもののように見える。
宝篋印塔は、元々は内部に宝篋印陀羅尼を納めた仏塔として建てられ、その後供養塔や墓石として建てられるようになった。
維盛が戦った治承・寿永の乱(源平合戦)のころには、如意寺常行堂は既に建っていたことだろう。
かつて維盛が如意寺を訪れたことがあり、その縁で、入水した維盛を供養するためにこの塔が建てられたのだろうか。
常行堂の脇の宝篋印塔は、この世界に現れては消えていく数多くの人間たちを、仏が慈悲と智慧の目で見ているという、仏教世界を象徴しているかのようだ。