竹田城跡の見学を終え、次に朝来市和田山町筒江にある茶すり山古墳を訪れた。
茶すり山古墳は、5世紀前半に築かれた円墳である。直径約90メートル、高さ約18メートルで、近畿地方最大の円墳である。現在は国指定史跡となっている。
この古墳が発見されたのは、最近のことである。平成13年の北近畿豊岡自動車道の工事の事前調査で、ここに古墳があることが判明した。
茶すり山古墳は、当初は城跡だと思われていた。しかし調査が進むにつれ、二段式の円墳であることが分かった。
そして墳頂から、二つの埋葬施設が見つかった。その内の一つには、長大な棺が埋められ、鏡や鎧、刀剣、鏃などの武具が大量に収められていた。
第一埋葬施設に収められた副葬品の豪華さと円墳の大きさから、茶すり山古墳は、古代にこの地を治めた王の墓だと言われている。時代背景を考えれば、大和王権と関係の深かった当時のこの地方の族長の墓であろう。
茶すり山古墳のすぐ北側には、北近畿豊岡自動車道が建設されたが、同時に史跡整備事業により、過去の円墳の姿が復元された。
その結果、全体が芝生で覆われた美しい円墳の姿を取り戻したが、茶すり山古墳は、元々は芝生ではなく葺石に覆われていたようだ。
円墳の二段目は、「テラス」と呼ばれている。テラスの上には、円筒形埴輪が並べられていた。今はその状態が復元されている。
茶すり山古墳の背後に回ってみると、この古墳が完全に独立した円墳ではなく、背後の山地に連なっているのが分る。
墳丘上に登ると、墳頂は平らになっており、円形に埴輪が並べられている。
墳頂部には、第一、第二の埋葬施設が再現され、ガラスケースで覆われている。
王が埋葬された場所は、頭部の下に朱が撒かれ、頭の上に鏡とガラスの首飾り、勾玉、菅玉が置かれ、体の左右に刀剣が置かれていた。
恐らく生前の王が、権力の証として身近に置いていたものなのだろう。
これらのものは、記紀神話に書かれた三種の神器と共通する。恐らく大和王権は、各地の豪族に、地方における自分たちの代理支配の証として鏡、剣、玉を分け与え、前方後円墳を築くことを許可したのだろう。豪族たちはそれを自分たちの支配の正当性の証としたのだろう。
そうなると、豪族に支配の正当性の証を分け与える大王(天皇)にも、当然誰かから授かった支配の正当性の証が必要となる。
それが、天照大神から邇邇芸命に授けられ、現在も皇室に伝わるとされる皇位継承の証、三種の神器である。
平成から令和への代替わりでも、賢所の儀、剣璽等継承の儀が行われ、三種の神器は新天皇に受け継がれた。
古墳時代の王位継承の文化が、現在の日本にも続いている。つくづく日本は面白い国だ。
茶すり山古墳の近くにある道の駅に隣接して、古代あさご館という、朝来市内から見つかった古代の遺物を展示する資料館がある。
古代あさご館の中には、茶すり山古墳から発掘された円筒形埴輪や家形埴輪が展示されている。
これらの埴輪は、国指定重要文化財である。
朝来の地は、播磨方面と丹波方面と豊岡方面への道が交差する場所である。古代にも重要な場所とされていたことだろう。
古代大和王権が、地方の豪族を服属させる先端技術を、どのように入手したのか、興味は尽きない。